⑥・日曜日の朝

 朝の教会。礼拝堂の中。

 説教壇に佐原が立っている。

 ベンチに座る人々の中には、早乙女、伊集院、奈緒、礼子、聖月、中田の姿が見える。

 佐原がいつものように朝の説教を始めた。

 「おはようございます。また日曜日がやってきましたね。当たり前のように思えますが、これもまた奇跡なのです。私たちは毎日、ありがたい小さな奇跡があふれる世界で生かされているのです」

 ベンチで聴いている人々は、みんなリラックスした姿勢で寛いでいる。が……

 「ところで今日は合唱団の練習日ですね」

と佐原が言ったとたん、聴衆の一部に緊張が走った。

 「あっ。やべっ!」早乙女が思わず口にした。

 佐原が、穏やかな声だがきっぱりと言う。「団員の皆さんは、このあとで練習がありますから、忘れずに……いや、サボらずにクルスへ集合して下さいね。今日は教会ではなくクルスで練習しますから間違えないように」

 早乙女が、そっと抜け出そうとした。

 伊集院が早乙女の襟首をガシッと掴む。「いいかげん、観念しろよな」

 早乙女が情けない顔をしてうなだれた。


 喫茶クルスの入口ドアに「貸切中」の札がかかっている。

 店内には男女十数人が集まっていた。合唱の練習を始めようとしている。

 早乙女、伊集院、奈緒、礼子、中田、聖月も合唱団のメンバーだ。

 奈緒が気まずそうに言う。「あたし、教会の合唱団って初めて。でも……キリスト教徒じゃないけど、いいのかなあ」

 「アタシだってクリスチャンじゃないわよ。むしろ積極的な無神論者だから、なんだか罰が当たりそうね」と礼子。

 「そんなこと言ったら僕はどうなるんだよ」早乙女も言う。「教会の合唱団に坊さんが混じってるんだぜ。冗談みたいだろ。ねえ、奈緒ちゃん」

 奈緒は早乙女を無視してプイッと横を向いた。

 「奈緒ちゃん……?」

 奈緒は教え子と不倫をしていた早乙女に腹を立てているのだが、早乙女はどうして奈緒が自分を無視するのか分からずキョトンとしている。

 二人のやり取りを中田が面白そうに眺めている。

 礼子が中田に言う。「なんでアンタがここにいるのよ」

 「いいじゃないっすか。僕、マスターの弟子なんだから」

 佐原が現れた。

 「はいはい。お喋りはオシマイ。練習を始めますよぉ~」

と、佐原が指揮棒を振り始める。

 〈アメイジング・グレイス〉の合唱練習が始まった。

 ところが―聞くに堪えない下手さ!

 「ストップ、ストップ」佐原が合唱を止めた。厳しい声で言う。「もう一回初めから。アルトはソプラノをよく聴いて。テノールは音程をしっかり。バスはテンポを合わせて。はい、もう一回!」

 合唱団の練習は続く―


 一時間後。

 喫茶クルスの前に、黒塗りの高級車が停まった。

 店の中では、ようやく合唱の練習が終わったところだ。

 「今日の練習はこれでおしまい。皆さん、お疲れさまでした」

 佐原が言うと、人々が「おつかれ~」と口々に言いながら店を出て行く。常連客だけが店内に残った。

 佐原は店の外に出て、入口ドアに掛けた「貸切中」の札を外す。店の前に停まっている黒塗りの車に気づいたが、佐原は何も言わず店に入る。

 店内では、へとへとになった〈合唱団員〉たちが、カウンター席やテーブル席でぐったりとしていた。

 「いやー、思った以上にスパルタだったわ~」と奈緒。

 「だって、みんな下手くそなんだもん」と礼子。

 早乙女がカウンターに突っ伏したまま言う。「それにしても、合唱に懸けるマスターのあの情熱……いったい何なんだろうね。人が変わったみたいになるよねぇ」

 佐原が店内に戻った。佐原は伊集院のところへ行き、何かを耳打ちする。伊集院は、険しい表情で頷いた。

 早乙女がカウンターに顔を付けたまま言う。「ねえマスター、まだ一曲しか練習してないけど、これってクリスマスまでに間に合うの?」

 「大丈夫です。一曲だけ出来れば十分ですよ」佐原が答えた。


 店の外に停まっている黒塗りの車のドアが開いた。

 人相の悪い、いかにもボディーガードといった体格の男二人が出てくる。

 続いて後部座席から、ゆっくりと中年の男が降りた。


 店内では、早乙女がまだ不平を言っている。

 「えーっ。一曲だけでクリスマスコンサートやるんですかあ?」

 「いやいや。あたしらの実力じゃ、一曲でも難しいくらいだよ。特に、あんたの……」

と礼子が言いかけた時、ドアの鈴が鳴った。

 入ってきたのは、恰幅のいい中年男とボディーガード二人だ。

 「いらっしゃ……」と言いかけた奈緒が、三人組の凶悪な雰囲気に息を呑む。

 ボディーガードの二人はドア付近で腕組みして佇む。

 恰幅のいい中年男は、カウンター席の早乙女に近づいた。

 早乙女が男を見て言う。「島村さん……」

 「やっと見つけましたよ。案外、近くにいたんですね」にやりと笑って島村は、早乙女の隣に座った。「ま、地球の裏側に逃げても、必ず探し出しますけどね」

 「に……逃げたわけじゃありません」早乙女がかろうじて声を出す。

 二人の様子を見ていた奈緒が、思い切って進み出た。

 「ご、ご注文はッ?」

 島村がジロリと奈緒を睨む。「じゃ、ビールを」

 奈緒が勇気を振り絞って島村に言う。「び……ビールだなんて銘柄は、うちの店には置いてませんっ。ど、どのビールを飲みたいのか、分かりませんっ!」

 島村が感心した顔で奈緒を見た。「なるほど。では、スピットファイアをパイントで」

 「えっ? ええと……」

 奈緒は助けを求める顔で礼子を見る。

 「申し訳ございません。あいにく在庫がないので、代わりにボディントン・パブ・エールはいかがですか?」礼子が島村に言った。

 島村が愉快そうな顔をして礼子を見る。「いい店じゃねぇか」

 「ありがとうございます。でも……」と佐原が進み出た。佐原はドアの近くに佇むボディーガード二人を示して言う。「お連れの方とご一緒なら、奥のテーブル席はいかがですか?」

 島村はぎろりと佐原を睨んだ。佐原は全く動じず、にっこりと微笑み返す。

 突然、早乙女が立ち上がった。

 「……すみません!」

 早乙女はドアへと走る。

 「待て!」

と島村が叫ぶと同時に、ドア付近に立っていたボディーガード二人が早乙女に襲いかかる。

 伊集院が素早く立ち上がった。

 伊集院は、ボディーガード二人のうち一人を後ろから羽交い締めにした。

 もう一人のボディーガードが早乙女を捕まえようとする。

 早乙女は、方向を変えて店の奥へと戻ってきた。

 佐原が、早乙女を追いかけるボディーガードの前に立ちふさがった。

 ボディーガードが佐原に殴りかかる……と思った瞬間、佐原が電光石火の早業でボディーガードの肩関節と手首を捻って動けなくした。

 一同、おおっと驚きどよめく。

 「さすがです、師匠」と中田が愉快そうに佐原を見た。

 伊集院が言う。「刑法第三十六条。まあ、ギリギリ正当防衛ってとこかな」

 「なんですか、あなたたち。邪魔をしないでくださいよ!」

 島村が激昂して大声を出した。

 礼子が伊集院を指差して島村に言う。「この人、元刑事さんだから」

 えっ、と驚く島村。

 次に礼子は、佐原を指差した。「で、こっちは牧師でマスターで……ええっと」

 伊集院が凄みをきかせて怒鳴る。「お前ら、どこの組のモンだ? 暴対法を適用してやろうか、おい!」

 「ち、違います!」島村が慌てて伊集院に手を振った。「わ、私ら一般市民です。この格好は、ちょっとした趣味でして……」

 「趣味、ねぇ」と伊集院。

 「アタシは理解できるわ」と礼子。

 島村がボディーガード二人を指差して言う。「こいつらは、うちの社員です。私の秘書と運転手です。全員、前科はありません。刺青も入れてませんから!」

 島村とボディーガード二人は、慌てて肌を見せようとする。

 「分かった。見せんでいい!」伊集院が眉をひそめて言った。

 島村は早乙女を見て冷たく睨む。「どこにいても、あなたの罪は消えないですからね。忘れないでくださいよ」

 島村は捨て台詞を残して、ボディーガード二人と共に立ち去った。

 乱暴にドアが閉められる。

 外で車が発進し、タイヤを軋ませて走り去る音が聞こえた。

 奈緒が早乙女に訊く。「あいつら、何者なんですか?」

 「昔、おれが高校で教師をしていた頃の……教え子の父親だ」

 「あっ……」と奈緒は口に手を当てた。

 奈緒の様子を見た伊集院が言う。「奈緒ちゃんも事情を知ってるのか」

 「この子、自分で調べたのよ」と礼子。

 早乙女はカウンター席で自分のビールグラスを見つめたまま言う。

 「あの人の言うとおりだ。おれの罪は一生消えないんだ。忘れるわけがない……」

 奈緒が首を傾げる。「でも、あいつら何をしに来たんですか? 何が目的なの?」

 伊集院が答える。「嫌がらせだろ。娘が妻子持ちの教師に騙され傷ついて、高校を中退した挙句、今でもずっと引きこもってるそうじゃないか。『ずっと貴様を見てるぞ。許さないぞ』ってメッセージだろう」

 「でも、シンさんを誘拐しようとしましたよね?」

 「本気じゃないさ。単なるポーズさ。一流企業の社長がそこまでやらないよ」

 礼子が「えっ」と驚いた。

 「どうして一流企業の社長だって分かるの?」

 「スーツの襟元に社名入りのピンバッジがあっただろ。それに出て行く時、ボディーガードの一人が小声で『すみません社長』って言ってるのが聞こえたよ」伊集院が答えた。

 「さすが元刑事ね」と礼子。

 奈緒と早乙女も感心したように伊集院を見た。

 「いてて……」と伊集院が腰をさする。

 「あ~あ、惜しいなあ。せっかく格好良かったのに」と奈緒。

 「俺も歳だな」伊集院が苦笑した。

 「でも本当に格好良かったですよ」奈緒が言う。「あっ、それにマスターも」

 奈緒に褒められた佐原は、慌ててカウンターの奥へ引っ込んだ。

 「照れ臭いのかな?」と奈緒。

 「マスターって時々、只者じゃない動きをするわよね」と礼子。

 「やっぱ、師匠だ。さすがです」と中田。

 奈緒が早乙女を睨みつけて言う。

 「でもさぁ、本当にシンさんが悪いと思うわよ。教え子に手を出すなんてサイテー。しかも不倫だなんて」

 「それでも、おれは本気だったんだ。そして彼女も……」

 早乙女は、力なく呟いた。

 「これからどうするんだ?」伊集院が早乙女に言う。「また、誰も知らない土地へ移ってやり直すのか?」

 早乙女は顔を上げて決意するように自分に言い聞かせる。

 「いいえ。もう逃げないことにしました。それに……ここが気に入ってますから。でも、もちろん皆さんには迷惑がかからないようにします」

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