第9話 誘い
「……詩織」
彼女の名前を呼びながら、私は無意識に指を引こうとした。でも、詩織は軽く力を込めて、私の指を優しく包み込む。
「少しだけでいいから」
詩織の声は穏やかで、静かに私の心に忍び込んでくる。
拒まなければ、私はこのまま彼女の言葉に流されてしまいそうで。
「……でも、私は……」
言葉に詰まる。穂香を忘れるなんてできない。
たとえ一瞬でも、そんなことを考えてしまう自分が怖かった。
けれど、寂しさと不安を抱えたまま、ただじっと耐えるだけなのも、苦しくて仕方がない。
「白石さんは、今、何をしているんだろうね」
「……」
詩織の言葉に、心臓がぎゅっと締めつけられる。
私はスマホを取り出し、また何も届いていない画面を見つめた。
連絡が来るはずなんてないのに、期待する自分がいる。
自分から距離を取ることを決めたのに、こうしてまだ彼女を求めてしまう。
「七瀬さんがどれだけ待っていても、白石さんは今、別の場所で誰かと話してるかもしれないよ?」
その言葉が、心の奥深くを鋭く抉る。
穂香の優しい笑顔が、私以外の誰かに向けられているかもしれない。そう思うだけで、胸の奥が冷たくなる。私にだけ向けられるはずの温もりが、誰かのものになっているのかもしれない──そんなこと、耐えられない。
「……わかってる」
私はぎゅっとスマホを握りしめる。
「なら、少しだけでもいいから、私に気を向けてみて?」
詩織の声は甘く、誘うような響きを持っていた。
「私は七瀬さんのこと、結構気に入ってるんだ」
その言葉が、胸の奥を揺らす。
「白石さんがどう思っているかなんて、七瀬さんには分からないでしょ? だったら、白石さんのことばかり考えて悩むのは、もったいないよ」
詩織の言葉は妙に優しくて、私の心をゆっくりと溶かしていく。
「私は、七瀬さんがもっと楽になれるように、手伝いたいだけ」
詩織の手が、もう一度私の指をそっと撫でた。
その動きはまるで、慎重に私の心をほどいていくかのようだった。
「ねえ、七瀬さん。今から少しだけ、一緒に時間を過ごさない?」
「……時間を?」
「うん。気分転換に、どこか寄り道してみるのも悪くないよ?」
詩織の提案に、私は迷う。
穂香がいる場所に戻りたい気持ちと、詩織の言葉に引かれる気持ち。
その二つが胸の中でせめぎ合う。
「私はただ、七瀬さんともっと話したいだけだから」
詩織の笑顔は優しく、それでいてどこか深い闇を秘めているように見えた。
──このまま、詩織と一緒にいてもいいのだろうか。
答えを出せないまま、私は静かに息を呑んだ。
放課後の教室には、私と詩織の二人きり。
外から差し込む夕陽が、詩織の横顔を赤く照らしていた。
その光景が、妙に現実感を薄れさせる。
「七瀬さんは、どうしたい?」
詩織が静かに問いかける。
本当は、穂香の元へ走っていきたい。
でも、私は……。
「……わからない」
呟くようにそう言うと、詩織は微笑んだ。
「なら、答えを探すために、一緒にいてもいいんじゃない?」
詩織の言葉に、私はまた迷いながらも、ほんの少しだけ頷いた。
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