第9話 時計が止まる夜 (前編)

 カフェ『ノクターン』の大きな壁掛け時計が、奇妙な動きをし始めたのは、ちょうど一週間前のことだった。


 それまで何の問題もなく時を刻んでいた時計が、決まって午後11時34分になると針を止める。  \”また止まってるにゃ……\”


 ラムが壁を見上げて、耳をぴくりと動かした。


 探偵のノアが何度も電池を交換し、ゼンマイを調整しても結果は変わらない。最初は単なる故障かと思ったが、こうも同じ時刻で止まり続けると、気味が悪い。


「また11時34分か……。偶然にしては出来すぎてるな」


 ノアは腕を組み、壁の時計を睨む。彼の赤い瞳が、静かに時間を映している。


 カフェの常連客たちもこの奇妙な現象に気づき始めていた。


「なあ、この時計、呪われてるんじゃないか?」

「昔、ここって何かあった場所なのかしら……?」


 そんな噂が、徐々に広まりつつあった。


 だが、それよりも奇妙なことがある。


 時計が止まる時刻になると、必ず同じ客が現れるのだ。


 毎晩、黒いコートを羽織った男が、窓際の席に座る。


 静かに本を開き、紅茶を口に運ぶが、注文するメニューも、動作も、まるで機械仕掛けのように変わらない。


 そして、時計が11時34分で止まると、彼はすっと席を立ち、会計を済ませることなく店を後にする。


「にゃ、ねえノア。あのお客さん、毎回払ってる?」

「いや。……けど、翌日になると、いつの間にかちょうどの額が置かれてるんだ」


 ノアの言葉に、ラムは目を丸くする。


 「ええっ、にゃんで!?」


 不可解な時計と、謎の男。


 翌晩、ノアは意を決して、男が座る席の近くへ移動した。注文を取りにいくふりをしながら、さりげなく視線を向ける。


 「いらっしゃいませ、ご注文は?」


 ノアの問いかけに、男はゆっくりと顔を上げた。


 「……ダージリンを」


 その声は妙に乾いていて、どこか機械的だった。


 ノアは何気なく男の手元に目をやった。


 指がない。


 いや、それだけではない。袖口の奥に見えたのは、まるで関節のない、なめらかな何か。


 ノアは静かに眉をひそめた。


 その時、店内の灯りがふっと揺れた。


 微細な空気の流れが生まれたかのように、窓の外の影がわずかに動く。


 「……ねえ、ノア」


 カウンターの奥から、ラムがそっと囁いた。


 「……あのお客さん、今日が初めてじゃないにゃ」


 「知ってる。毎晩、同じ時刻にここにいる」


 「ううん、それだけじゃなくて……」


 ラムは少し身を乗り出し、ひそひそと続けた。


 「ずっと前にもいた気がするにゃ。私がノクターンに来る、もっともっと前に……。」


 ノアの瞳が、わずかに細められる。


――次回、『時計が止まる夜(中編)』。謎は深まり、真実の針が動き出す。

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