第4話 幽霊の席の謎(後編)

カタンッ——。


誰もいないはずの席から、小さな音が響いた。


「にゃ、にゃにゃ……!? ノア、今の……?」


ラムがノアの袖をぎゅっと掴み、耳をぴんと立てた。


「確かに聞こえたな。」


ノアは静かに立ち上がり、問題の席へと向かう。カフェの店主も緊張した面持ちで後を追った。


「座ってみるか。」


ノアが椅子を引いて腰を下ろす。テーブルには、誰も注文していないはずのグラスがひとつだけ置かれていた。中には、わずかに残った水と、溶けかけた氷。


「……まるで、ついさっきまで誰かがここにいたようだな。」


ラムは震える声で言った。


「ノ、ノア、本当に幽霊がいるんじゃ……?」


「いや、幽霊なら氷を溶かす体温はないだろう。」


ノアは指でグラスを軽く叩き、その周囲を観察する。


「だが、誰かがここにいた痕跡は確かにある。」


店主が不安そうに呟く。


「そんなはずは……カフェは毎晩、閉店前にしっかり確認しているんです。それなのに、誰のものともわからないグラスが……。」


ノアは視線をテーブルの上へと移した。


そこには、小さな水滴の跡が残っていた。


「この形……まるで指で触れたみたいだな。」


「ひゃぁぁ!? やっぱり幽霊にゃ!!」


ラムが飛び上がるように驚く。


「いや、幽霊ではない。」


ノアは静かに椅子から立ち上がり、カフェの奥へと歩き出した。


「店主、今夜の来客リストを見せてもらえるか?」


「えっ……? はい、こちらです。」


店主が帳簿を広げると、ノアはそれをじっと見つめた。


「……なるほど。」


ノアは静かに呟く。


「この席に座っていたのは、幽霊ではない。」


「えっ?」


「数週間前、この店を訪れていた客の中に、高齢の男性がいたはずだ。」


「ええ、確かに。いつも決まった席に座って、静かにコーヒーを飲む方でした。」


店主の顔が次第に驚きに変わっていく。


「その方……亡くなったと聞いています。」


「つまり……」


ノアは微笑んだ。


「この席に座り続けていたのは、幽霊ではなく、その人の“記憶”だ。」


「記憶……?」


「人間の習慣や想いは、特定の場所に残ることがある。長年この席に座っていた彼の気配が、今もなおここに漂っているのかもしれないな。」


ラムが小さく呟く。


「じゃあ……怖がることはなかったにゃ?」


「そういうことだ。」


ノアはそっとグラスを持ち上げ、それを静かにカウンターへと戻した。


「これはただの幻影じゃない。きっと、彼がこのカフェを愛していた証拠だ。」


店主は静かに頷いた。


「……そうですね。彼はいつも、『この店のコーヒーが一番美味しい』と言っていました。」


店主の言葉に、ノアはふっと微笑んだ。


「なら、今夜もコーヒーを淹れてやるのはどうだ?」


「えっ……?」


「彼のために、一杯だけ。ここでいつものように、静かに飲んでもらうんだ。」


店主は目を丸くした後、ゆっくりと頷いた。


「……そうですね。彼がいつも座っていた席に、今夜だけ特別に。」


店主がコーヒーを淹れ、そっとその席に置いた。


ラムは不思議そうに眺めながら、小さく微笑んだ。


「なんか……温かい気持ちになるにゃ。」


ノアは静かにカフェの空気を味わいながら、微かに目を細めた。


「さて……今夜もいい夜になりそうだ。」


静かな夜の中、湯気の立つコーヒーカップが、誰かのいない席の上で、穏やかに揺れていた。



(完)

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