第2話
アスミと話した翌日も雨。湿気により天然パーマが制御不能なほどに爆発しており、本来なら憂鬱な天気のはずなのだが、なぜだか晴れやかな気持ちでバス停に向かう。
その理由の要因である人は先にバス停に来て座っていた。
「おはようございます、アスミさん」
俺が声をかけながらバス停のベンチに座ると、隣でアスミが本をパタンと閉じて俺の方を見てきた。
「おはよ、君」
アスミが目を細め、口角をあげて微笑みながら挨拶をしてきた。
そういえばアスミには俺の名前を教えていないことに気づく。
「塩野義です」
「シオノギ……」
あまり耳馴染みのないフレーズなのか、アスミは首をかしげて考え込んだ。
「漢字は調味料の塩、野菜の野、義理チョコの義です」
「野菜入り塩義理チョコ?」
「そうですよ」
「ふぅん……で、苗字は?」
アスミがにやりと笑って足を組み、頬杖をつきながら尋ねてきた。
「苗字ですよ!? 名前が塩野義のわけなくないですか!?」
「苗字が塩野で……塩野塩野義とか? シオシオだね」
「名前は
「漢字は?」
「魚拓の拓に、純真の真ですよ」
「似合ってるね」
アスミがふふっとほほ笑んで目を細める。
「あ……ありがとうございます……アスミさんはどういう字で書くんですか?」
アスミが口を閉ざしたままじっと俺を見てくる。大きな目が瞬きをする度にパチパチと音が聞こえてきそうだ。
やがてアスミはニヤリと笑い、口元に人さし指を添えて「秘密」と言った。
「まだ秘密なんですね……」
大方、阿住か、安住とかなんだろうけど。
「や、本当は今回名前を教えようと思ってたんだけど前回バレちゃったからさ。次はまた新しい情報を一つ教えてあげるよ」
「ずいぶん小出しにしますね……」
「ま、明日も雨予報だったし」
「そんなログインボーナスみたいな……」
「ふふっ……確かに。ログインボーナスだね」
明日のログインボーナスは何なのだろう、なんて考えながら空を見上げる。
「雨、このところ続きますね」
「ね。やまない雨はないって言うけどさぁ……」
アスミはじっと空を見上げながら何かを言いたげに言葉を濁した。
「言うけど……なんですか?」
「や、寄り添ってない言葉だよなーって。今、雨が降ってるこの瞬間がきついのにさ。要は耐えろって話でしょ?」
「まぁ……確かに」
「雨が当たってるなら傘をあげればいい。土砂降りで足が濡れるなら長靴をあげればいい。それでもだめなら、雨宿りができる場所を提供すればいい。いくらでもやりようはあるのに『やまない雨はない』で済ませちゃうのはその人にとってその程度の存在ってことだよね」
「……なんか病んでます?」
「ははっ! 全然。健全だよ、健全。けど……傘をさしてくれる人は貴重だよね。君みたいにさ」
アスミは手を叩いて笑ったあと、しみじみとした表情でそう言って俺の方を見てきた。
「今日は傘なんて貸してませんよ」
「比喩だよ、比喩」
「比喩ですか……」
「例えとも言う」
「比喩の意味はわかりますよ!?」
「ふふっ……そうだよね……ふふっ……」
やたらと俺をいじるのがお気に召したらしく、アスミは一人で腹を抱えて笑う。
「ね、塩野義君。晴れた日はどうしてるの?」
「職場まで運動がてら歩いてます。仕事中は車移動が多いので」
「なるほどね」
「アスミさんは?」
「私は自転車。仕事中は立ってるか座ってるかだから」
「なるほ――それってほとんどの人がそうじゃないですか!?」
立っているわけでも座っているわけでもない体勢がメインの仕事なんてあるか!?
「ふふっ……気づかれたか。とりあえずヨガ講師の線は消えたね」
「いちご農家とヨガ講師以外の仕事なんていっぱいありますよ……職業もログインボーナスですか?」
「ん。ログインボーナスにしよっか。君の仕事もその時に教えてよ」
「はいはい。分かりましたよ」
変な話だ。雨の日に毎回鉢合わせるはずもないのに、何度も会う前提で天気任せの未定の予定だけが組み上がっていく。
その時、信号待ちのため目の前アスミさんの嫌いな黒のアルファードが停車した。車内では爆音で何かバンドらしき音楽が流れており、外まで音漏れをしていた。
「アスミさんの好きな車ですよ」
もちろん、本当は嫌いだとわかっていて言う。アスミもそのジョークを察してにやりと笑った。
「や、大好きなんだよね。ああいうの」
アスミは皮肉たっぷりにそう言って微笑む。
「あの音漏れしてる曲、何の曲だろ?」
「いい曲ですか?」
「ううん。どうでもいい曲」
一応、スマートフォンを立ち上げ、音楽で検索するアプリに音漏れしている曲を聴かせてみる。
「ヒットしませんね……」
アスミが俺との距離を詰めるように座り直し、興味津々な様子でスマートフォンをのぞき込んできた。
「それ、検索できるの?」
「そうですよ。仕組みはよくわかりませんけど……流れている音楽を聴かせたら名前を教えてくれるんです」
「ふぅん……」
アスミは自分のスマートフォンでアプリの名前を検索し始めた。
「スペクトログラムのピークをハッシュ化……なるほどね。フーリエ変換してフィンガープリントを作ってるだけか……」
アスミは何やら小難しそうな言葉を並べながら、ブログ記事を眺めている。
「な、何を調べてるんですか?」
「や、このアプリの仕組み」
見せられたのは英語の論文。数式の羅列で素人には何が何やらだ。
「こっ、これでわかるんですか!?」
「ん。このくらいなら」
「えっ……だ、大学の先生とかしてるんですか?」
「こんな若くして大学の先生をしてたらもっと有名になってるよ」
「あ……確かに。アスミさんって何歳なんですか?」
多分、年齢に地雷は埋まっていないくらいの年のはず。23歳の自分とプラマイ2歳くらいのレンジだろう。
だが、アスミはニヤリと笑ってまた「秘密」と言った。
「ね、塩野義君。ビートルズって聞く?」
「意識しては聞かないですけど……多分あちこちで耳にしてるんでしょうね」
「多分、皆雨の音と同じくらいの頻度で聞いてるよ。とりあえず『お宝鑑定団』で週一」
「週一で雨は降らないですよ。今週は崩れてますけど」
「それもそっか」
「で、ビートルズがどうしたんですか?」
「あぁ……えっとね。とある曲の最初の音がなんなのか、ずっと議論されてるものがあるんだ。それを研究している人もいるくらい」
「へぇ……」
「無駄って思ったでしょ?」
「ま……まぁ……」
「けど、そうなんだよね。その一方で『無駄じゃない?』って言われながら将来の世界のために研究をしている人もいて。バスを待ってるこの時間に無駄話をしてる間も、誰かは世界のために働いてるんだなって」
「アスミさん、研究者なんですか?」
アスミは口元に指を当てて秘密とアピールしてくる。ちょっと匂わせて来ているのに確信にたどり着けないことにモヤモヤさせられる。
「アスミさん、秘密ばかりですね」
「だって今日は名前を教えようと思ってたのにもう知られちゃってたから。追加の情報はないよ。また次の雨の日に、教えてあげる」
その割にあれこれ話してくれてるんだよなぁ、なんて考えていると俺が乗る143系統のバスがやってきた。
「来ちゃいました。それじゃ、また」
「ん、またね」
アスミは小さく手を振り、俺を見送ってくれた。
人がすし詰めになっているバスに乗り込み、車内の前方で人の隙間からアスミの方を見る。
アスミはそれでもじっとバスの方を見つめ、発車するまでじっと俺の姿を探しているようだった。
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