3. 旅人
東の町の外れからから橋を渡ると、西の町である。西の町には下層民が多い。王宮は東の町にあり、二つの町は川で隔てられている。
東の町と西の町は、内壁で囲まれている。そして、その回りに外壁の町がある。外壁の外は、なだらかな傾斜地で、畑や牧地が広がっている。そして、その向こうは広大な荒れ地だ。遠い昔には高い木が茂った森もあったらしい、と父が言っていた。どのくらいの昔かはわからない。
西の町には、商人や異国人が多い。建物も古く、白い煉瓦や土造りの家が多い。東の町ではちらほらある赤いレンガを使った建物は珍しい。
エンキサルが西の町に通うきっかけになったのは、学校での何度かの失敗だった。成績はあまり良くなかった。王宮の書記になることは難しいだろう。
書記になるための勉強に、だんだん身が入らなくなっていた。書記の本分は計算である。その計算が、まったく好きになれない。
計算こそが、様々な事柄の基礎となっている。土地の区分け、星のめぐり。品物の値段。遠い土地での出来事。それから、天気、賭け事。学びを極めれば、なんでも分かるようになると言う。しかし、だれでも書記になれるものでもない。文字が読み書きできなければいけないし、計算もこなせなければならない。
下層民は誰もが、普通民でも大方は、計算とは悪魔をうまく操ることだ、と信じている。計算をすれば、悪魔とやり取りができるようになる。エンキサルの母もそう信じているようだ。義理の息子が、計算を学んで、悪魔とやり取りをして、パン屋の商売の助けをしてくれるようになる。仕入れや値付けなど、複雑な商売の助言をしてくれる。今は、ナジミットが好意で助けてくれている、様々なことを。
正直言って、エンキサルは、計算よりも商売の帳簿よりも、歌にひかれた。それも、古典語で書かれた、書板に書かれている、いまはだれも歌わない昔の歌たち。学校では、しばしば計算の課題から逃げ出して、図書館で、だれも見向きもしない歌が書かれた書板の字をたどっていた。
教師の叱責と、同級生からの蔑み。学校の帰りに、同級生がたむろする東の町の広場をさけて、橋を渡るようになった。
はじめての西の町は、最初は怖かったが、次第に居心地のいいものに変わっていった。大人扱いをされ、同級生たちの目を気にすることなく、少しいばることができた。遅くなる学校からの帰宅はだんだんと遅い時間になった。しかし、エンキサルが西の町に通っていることは、父も義母もおそらく知らない。
宿屋の前に集まる楽師達は、様々な異国の曲を披露した。ニンガルも、異国の歌を歌っていた。
「この歌は知っている」
あるとき彼女は言った。
「この歌がなにを言っているのかは、何となく分かる。でも、小さいころのことはもうよく覚えていない。だから、思い出さないようにしている」
ある日思いついて、エンキサルは、なんとかニンガルの歌の言葉を書板に書き留めようとした。異国には文字などないと思う。エンキサルは、工夫して自分だけにわかる書き方で、歌を書いてみた。
図書館に残る書板も、こうして書かれたのだろうか。教師に直されることもなく、ここでは思うままに文字を書けた。そして、エンキサルは、家に帰ると書板に書きつけてきた歌の言葉を、パピルスに書き写した。家には、もう何枚もパピルスがたまっていた。
楽師を囲んでいるうちの一人が、興味深そうにそれを見ていた。長逗留しているらしい、旅人らしかった。字を書くことができるのか?エンキサルが自分は書記学校の生徒だ、と言うと、感心した表情で、それはすごいな、と言った。
生徒ならば、図書館にもはいれるのか、と旅人が言う。学校の外で、図書館なんていう言葉を聞くことは珍しい。
学校のことなど、町の人々は詳しくは知らない。旅人は、一度その図書館にしまってある書物を見てみたいものだ、と言った。ほら、地図とかあるのかな、町の名前とか方角がまとめて描いてある書板だ。
みんな古典語で書いてあるんだよ、とエンキサルは答えた。異国人に古典語が読めるはずもない。
「どうして見たいんだ?」
「読むのは私じゃない。お客さんに信用してもらうのさ。そういうお客がいるんだ」
だれに信用してもらうというのだろう。この宿屋の前の、歌の好きな人々は別として、広場は胡散臭い連中でいっぱいだ。もっとも、エンキサルは彼らのことは詳しくは知らない。
そうだ、それに、図書館に入れるのは書記と学生だけだ。
「だめだよ」
どうして、古い記録だし、だれももう見はしないんだろう?
「銀をやると言っても?」
旅人は笑いながら、言った。旅人がどこまで本気か、エンキサルにはわからない。
旅人は、古典語を読めないらしいくせに、天気を当てることができた。雨や風、雷。別の旅人たちに、出立の日について相談されることも有るようだった。商売になりそうな品物。どの国にゆけばそれが手に入るのか、などについても。
旅人も、いつも書板を持っていた。旅人の書板は、磨いた石で出来ていて、光があたるときらきら光った。天気を聞かれると、それを覗き込んでから答えていた。毎日、何かを書き写して持ち歩いているのだろうか。
彼はまた、時折、エンキサルにはよくわからない事も言っていた。そのうちに、東の町と西の町をむすぶ、川底の道ができるだろう。何十年かの後に、王ではなく女王が王宮の主になったときに。そうすれば、万が一川の水がふえて橋が流されても、東の町と西の町の行き来ができる。建物の屋上に庭が作られて、そこではライオンが放し飼いになる。川底の道はなんの役に立つかはわからないが、エンキサルはいつか生きたライオンを見てみたいと思った。
外壁の外、遠い平原にはライオンが暮らしているという、乾いた白い土が広がっているという。その白い土のもっと南には海があり、島もあるという。
向こう岸のない大きな川。異国生まれのニンギルは、海や島を見たことがあるのだろうか。エンキサルも、いつか行くことはあるだろうか。
異国の出来事も。よく知っているようだった。兵士になった次兄が赴任した、北の国のことはよく知っているのだろうか。エンキサルは気になったが、どのように切り出していいか分からなかった。
時々、鳩屋が現れて、旅人と話していた。鳩屋は、鳩が何羽も入った籠をもって宿屋に現れ、しばらくするとまた帰っていった。旅人は、冗談めかして、天気もなにもかも、みんな鳩が教えてくれるのだ、と言っていた。
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