幕間 言葉を奪われた少女

 あのときのことを、わたしは今でも夢に見る。

 黒い天幕が垂れ込めたような重苦しい地下牢。石の床は冷たく、空気は濁っていて深く呼吸することすら怖かった。

 わたしを捕らえたならず者が、王党派の使いであると知ったのは、地下牢にあらわれた男がハスコール侯爵を伴っていたから。

 ハスコール侯爵。貴族の鑑であると称賛される一方で、裏社会との繋がりがあるという噂が絶えない王党派の重鎮。

 侯爵こそが、わたしを捕えた首謀者だった。

 社交界では柔らかく微笑みを絶やさない灰青色の目が、今はわたしを冷淡に見下ろしている。その姿を見た時、背筋に怖気が走ったのを覚えている。

 どうしてわたしを捕らえたのか。理由は明白だった。

 ブロウライト侯爵子息を牽制し、動きを封じるためだ。それから「あの方」——ブロウライト侯爵子息に成り代わっていたあのひとの存在を探るため。

 牢に落とされてから、何度、問われただろう。「あの男は何者か」と。

 けれどわたしは答えを持っていなかった。

 ただ、呼び名も知らぬ「あの方」が、母様を助けようとしてくれたことだけは確かだし、わたしに優しくしてくれたことも嘘じゃない。わたしの異能を知っても、変わることなく接してくれたから。

 わたしはこんなことで「あの方」への想いを捨てたりしない。

 ああ、「あの方」は、なんてお呼びすればいいのだろう。本当の名前を呼べないもどかしさが、わたしの胸を締めつける。苦しく軋んで、ずっとずっと、苦しいままだ。

 なにも答えないわたしに痺れを切らしたのか。それとも、わたしの存在などすっかり忘れてしまったのか。ハスコール侯爵は夢見るような目つきで、わたしを閉じ込める牢の前でぶつぶつ呟いていた。

「これまで慎重に種を蒔いてきたのに、お前たち親子に邪魔ばかりされる……忌々しいエドキンズめ」

 ギロリと険しく歪んだ視線が、わたしを睨む。侯爵はわたしを見ていなかった。わたしを通して、別の誰かを見ているかのよう。

 わたしの背筋が、ふるりと震えた。怖くて震えたわけじゃない。わたしの異能ちからを少し暴走させることができれば、ハスコール侯爵に決定的ななにかを喋らせることができるかもしれない。と、思いついたから。

 だからわたしは、慎重に異能を解放してゆく。

 元よりわたしは古き貴族であるエドキンズ公爵家の娘。母様は元々、子爵家の出身で異能も弱い。けれど、エドキンズ家が脈々と受け継いできた異能と相性のいい異能ちからだったから。

 父様と母様の異能を受け継いだわたしが、伯爵位相当の異能しか持たないハスコール侯爵に、負ける余地なんて、ない。

「……ハスコール侯爵、聞かせてください。あなたは、なにをやろうとしているのですか」

 静かに静かに囁いて、侯爵の胸の内に秘めた言葉を誘い出す。焦点の合わない灰青色の目が揺れた。

「ああ、エリオット卿。たいした異能を持たない私を取り立て、有能だと……。そんなことをおっしゃってくださったのは、侯爵だけ。忠誠を誓うには充分でした」

 エリオット卿? エリオット卿とは、誰のことだろう。父様の名前ではないし、聞いたこともない。戸惑うわたしなど視界に入っていない侯爵は、

「……私はまだ諦めていない。王党派がすべての貴族を管理し、戦火すらコントロールして見せよう。ああ、どうして私の考えを否定したのだ、エリオット卿。私がエリオット卿を手に掛けたのだから……最後までやり遂げなければ」

 と。侯爵がうわ言のように、繰り返す。

「エドキンズめ……私を邪魔をするな、殺してやる。なぜエリオット卿に犠牲を強いるのだ……だが、エリオット卿から奪ったアレを使うのは惜しい……あの毒は私とエリオット卿を繋ぐ唯一の……時間はかかるが仕方がない、蓄積型の毒で……」

 それ以上は、聞いていられなかった。思いがけず聞いてしまった独白に、集中力と異能が解けて砕け散る。

 はっきりと証拠があるわけじゃない。異能を使って侯爵に喋らせただけで、真実なのかもわからない。それでも、父様や母様の死に、侯爵が関わっていたのではないかという疑念は、胸の奥に消えずに残ったまま。棘のように突き刺さり、ぢくぢくと鈍い痛みをもたらした。

 そうして、王党派の貴族が「あの方」を嵌めるためにハリソン伯爵に開かせた正餐会で、わたしは人質として「あの方」と再会した。

 王党派の貴族たちに囲まれたわたしは、どこまでも孤独だった。

 母様と仲良くしていた革新派の貴族たちは、わたしを見て目を逸らし、ひそひそと噂し出したから。わたしが革新派に見捨てられたのは、明白だった。

 そんな中で「あの方」だけが、わたしをまっすぐ見てくれた。

 それなのに、わたしはなにも言えなかった。ハスコール侯爵が持つ異能によって、言葉を奪われていたから。

 それは呪いのように、わたしの喉を封じた。舌を凍りつかせて、どんなに言葉にしようとしても、声が出せないように。唇は震えていたのに、なにも伝えられなかった。

 名前を偽っていたとしても、「あの方」が潔白であることを、わたしは知っていたのに。「あの方」が優しいひとだとわかっているのに。

 なにも言えない。誰にも。訴えることができない。ただ唇を噛み締めて、震える手を隠すことしかできなかった。

 声にならない叫びが、喉に突き刺さって今でも消えない。

 わたしは「あの方」の犠牲によって助けられたのに、わたしは「あの方」を救うことができなかった。声をかけることが、名前をお呼びすることが、できなかった。引き止めたかったのに、「あの方」は行ってしまった。

 わたしにできたのは、動揺したハスコール侯爵の支配下から逃れ、異能を暴走させて「あの方」の逃亡を手助けすることくらい。

 だからこそ、今度こそ。と思う。

 罪で塗り固められたこの王都で、「あの方」と再びお会いするまで。「あの方」の名前をこの唇に乗せるまで。わたしは絶対に「あの方」を見捨てるようなことはしない。

 たとえ、どんな結末が待っていたとしても。


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