第9話 決して飲んではいけない

 舞踏会の熱気は、いまだ冷めやらない。

 けれど、おれの心は氷点下まで下がっていた。渡されたワインが、純粋な歓迎をあらわしたものではない、と疑ってしまったから。

「アラスター卿、どうされました? どうぞお飲みください、美酒ですよ」

 善意があるようにしか見えないハスコール侯爵が、怖い。朗らかに響く声を聞いた途端、会場のざわめきが一瞬、遠ざかったように感じた。

 どうすればいい。どう、すれば。冷えた空気の中で、ジッとおれを見つめる視線が突き刺さる。アラスターだ。凍土ように冷たい焦茶色の瞳で、瞬きもせずにおれだけを見ている。

 グラスの中で揺れる液体ワインが、シャンデリアの光を反射して輝いていた。紅に透き通った液面が、ゆらゆら揺れて美しい宝石のよう。一見すれば、なにもおかしなところはない。けれど、である。

 これは、きっと、毒が入っている。そうなんだろう、アラスター?

 アラスターが密かに寄越した警告が、おれにそう確信させていた。あれだけおれの飲食物に警戒を示すアラスターが、飲むなと訴えているのだから。

 もし、気づかずに口をつけていたら、今頃どうなっていただろう。吐くか倒れるか。どちらにせよ、無様な姿を晒していたに違いない。

 ハスコール侯爵は、確実におれを試している。貴族社会の常識が、試金石として毒入りワインを贈ることではないことを祈りたい気分だ。

 鼓動が速くなるのを感じながら、おれは落ち着いて笑みを作った。ニコリと笑ってグラスを掲げるようにゆっくりと持ち上げる。

「実に芳醇な香りですね」

 軽く鼻を近づける仕草を見せながら、ワインの表面を揺らして見せた。ふわりと漂う香りは、葡萄の香り。発酵してアルコールとなった豊かな香り、ただそれだけだ。

「どうぞ口に含んでみてください。味わいはさらに格別ですよ」

 侯爵は変わらず微笑んでいた。けれど、その灰青色の目は、おれの視線を、おれの動きを、おれの言葉を、注意深く観察しているから。おれはわずかに口角を持ち上げた。

「ええ。ですが……」

 躊躇うように言って、グラスをほんの少し傾ける。たぷん、と音が鳴りそうなほど、ワインの液面が揺れて乱れた。

「申し訳ありません。今宵は少々飲みすぎたようで」

 侯爵の灰青色の目が、一瞬、鋭く光るのが見えた。ニカリと笑う表情は崩さぬままで、弧を描く目の奥だけが笑っていない。その冷たさに、背筋がゾクリと震え出す。

「もしや、最近若者の間で流行りの健康志向ですか?」

「いえ、ワインは少々嗜みますが……」

 勿体ぶってそう言うと、侯爵に囚われていた視線をグラスに移した。ワインのグラスを持ち替えてくるりと回し、もう一度持ち直して何度もグラスを傾ける。考えろ、考えなければ。このワインを飲まずに済むような言い訳を考えろ。

 顔には微笑みを貼りつけたまま。けれど頭の中は大忙しで言い訳を捻り出す。

「好きだからこそ、今はこの香りに酔いたい気分なのです」

「なるほど……香りを楽しむ。さすがはブロウライト家だ」

 なにが「なるほど」で、なにが「さすが」なのか。本物のアラスター・ブロウライトではないおれには、さっぱり意味がわからない。わからないのだけれど、侯爵は納得してくれたらしい。硬かった侯爵の表情と視線が、わずかに緩む。

 だから、おれはここぞとばかりに「それに」とつけ足した。

「侯爵のお話に刺激を受けて、胸がいっぱいなのです」

「ほう? それは光栄ですね」

「ええ。ブロウライト家の王都での役目や、これから私がなすべきことなど、考えることが多すぎて。私には父がおりません。侯爵にご指導いただくには、どうすればいいのかと、浅慮なことを考えておりました」

 と。そう騙って、周囲へ軽く視線を巡らせた。いまやグラスを持って乾杯を待っているのは、おれと侯爵だけじゃない。おれとハスコール侯爵の会話に興味を持ったのか。いつの間にか貴族たちが集まって、誰もが皆、ワインが注がれたグラスを手にしていた。

「ですので、若輩者の私が侯爵よりも先に、美酒を味わうのはいかがなものか、と」

 そう言って、ワインを口に運ぶ仕草だけを見せた。

「ハスコール侯爵、皆さんが待っておられます」

 と、言いながら、空いた手で周りを示すと、侯爵の眉がわずかに跳ねた。なにに動揺したのか。侯爵の心を映したかのようにワインの液面が揺れている。けれど、

「それもそうですな!」

 言うが早いか。侯爵は一度グラスを掲げて見せてから、ワインを飲んだ。いや、口をつけるフリをして、実際には飲んでいない。それどころか、すぐにハンカチを取り出して口を拭うのが見えたから。

 おれも侯爵と同じように口をつけるふりをして、グラスの中のワインを少しだけ揺らす。そうして、通りがかった給仕アラスターの銀盆へグラスを返した。

 きっと、これが最善のやり方だったのだ、と。

 青褪めた顔で会場を後にするハスコール侯爵の背中を眺めながら、無意識に上がる口角を手袋に覆われた手でそっと隠す。


 夜半を過ぎた王都を、エドキンズ公爵の紋章が刻印された馬車がゆく。

 うっすらと霧がかる夜の闇を、点在する街灯がぼんやりと照らす中、おれは給仕姿を解いたアラスターとともにハリソン伯爵邸からエドキンズ公爵邸へ戻る馬車に揺られていた。カルメン夫人は革新派の貴族たちと話があるとかで、もう少し伯爵邸に残るという。

 乗り心地のいい馬車の中で、おれは窮屈なジャケットと硬い革靴を脱ぐなり大きく息を吐いた。

「なぁ、おれはヘマをしなかったか?」

「上出来だ」

 向かいに座っていたアラスターが、静かに頷いた。声色は普段通り冷たく突き放すよう。おれに期待をしていたんじゃないのか、と喉から漏れそうになるのを抑えて、アラスターの焦茶色の目をジッと見つめる。

「アンタ、あのワインに毒が入ってるって、なんでわかったんだ?」

「……、……」

 アラスターは少しだけ口を開いて、すぐに真一文字に唇を閉ざした。気まずそうにするわけでもなく、ただ無言で目を伏せるだけ。もしかして、アラスターがあのワインに毒を入れたのか。それとも、ハスコール侯爵の手の者がワインに毒を混入させる瞬間を見ていたのだろうか。

 問い詰めるべきか、放っておくべきか。迷ったのは、一瞬だった。アラスターの伏せられた目が、再びおれを見つめていたから。おれが無事でよかった、と。心底思っているような柔らかさ。

「……まあ、いいさ。助かったよ」

「ハスコール侯爵は君を試した。そして君は、その試験に合格した。その事実だけがあれば、今はいい」

「……合格した? 冗談だろ、アンタがおれを合格させたんだ」

 おれは顔を引き攣らせて呻いた。

「どちらでも同じことだ。侯爵は君を本物の『アラスター・ブロウライト』として認めた。それが大事だ。そして、王党派は今後、君を取り込もうとするだろう」

「アンタの父親が王党派だったから? 見た限りじゃ、アンタは王党派に属する気はなさそうに見えるけどな」

「私の意志がどうであれ、彼らが君をみすみす逃すとは思えない」

「だから、どうして」

「君、ハスコール侯爵に懇願しただろう? 私に断りなく『侯爵にご指導いただくには、どうすればいいのか』だなんて、侯爵にしたら実にちょうどいい口実で、口説き文句だ」

 呆れたようにため息をつくアラスターの姿に、自分がしでかした事の大きさに気づいて身体が震え出す。

「嘘だろ……逃げ場がなくなっていく気がするんだけど」

「逃げ場を捨てたのは君だ。……まあ、君が意図せず口説いた相手がハスコール侯爵でよかったが。侯爵なら常識的な範囲で君の言葉を受け取るだろう」

 アラスターがこめかみを抑えて眉を寄せていた。石畳をゆく馬車が揺れる音を聞きながら、おれは静かに口を開いた。

「……なあ。なんでアンタはおれになにも教えてくれないんだ。アンタ、おれにまだ話してないことがあるんじゃないのか」

 アラスターが静かに笑って、おれの直球的な疑問を受け流す。教えろよ、と重ねて問おうとしたおれの目の前に、牽制のつもりか、人差し指が一本突き立てられた。

「君がワインを口にしなかったことで、王党派はブロウライト家の人間である証拠を見た、と判断しただろう。今後、彼らは君を王党派の一員として扱うはずだ」

「なんでだよ!? 理屈が通らない!」

「あれは正真正銘、毒入りワインだ」

 淡々と告げるアラスターの鋭利な声が、おれの喉から言葉を消失させた。

「貴族としての証を立てたブロウライト家の嫡男なら、決して毒は口にしない。ハスコール侯爵は、ブロウライトを名乗る人間が、本当にブロウライト家の血を引くのか確認したに過ぎない。イクティエ王国の貴族の間では、よくあることだ」

 まさか、毒入りワインが本当に試金石だったなんて。唖然とするおれをよそに、アラスターが、ふ、と笑った。

「それも踏まえた上で、君の侯爵への切り返しはよかった。まるで父を見ているかのようだったよ」

 石畳をゆく度、馬車がわずかに軋む音だけが響いている。おれは、今、なにか重要なことを聞いた気がしたから。思わず前のめりになって、アラスターに問う。

「待て。アンタ……なんて言った?」

「まるで父のようだ、と」

「違う、その前だ。……アンタが毒入りワインに気づいた理由を、今、言ったじゃないか」

 イクティエ王国の貴族は、基本的に血統主義だ。特に王党派は、その傾向が強い。ある血筋は過去と未来を観測し、ある血筋は物質に宿し声を聞くという。

 アラスターから詰め込まれた知識がどうしてか、ふと頭に浮かぶ。それを教わったとき、おれはただのお伽噺だと思って聞き流していたのだけれど。もし、それが、真実だったとしたら。

「……異能? 貴族の証って、もしかして……」

 無意識に呟いたおれの眉間に皺が寄る。それを見たアラスターの唇が、弧を描くのが見えた。

「勘のいい人間は、嫌いじゃない」

「まさか、現実にある話だったのか?」

 問いかけても、アラスターは笑うだけ。その笑みが、もう、答えを告げているようなものだった。

「……嘘だろ。そんなのアリかよ」

 おれは深く深く息を吐き出して、それから天井を仰いだ。

 貴族の名前を借りて、貴族を演じて。詰め込まれた知識を元手に、華やかな舞台に立つだけ。たったそれだけで、豪奢な日々を手に入れたと思っていたのに。

 異能? 異能だって? そんなふざけた証明があってたまるか。

 おれは嘆息しながら、窓に引かれたカーテンを指先でそっと開いた。窓の外には、王都の夜景が広がっている。煌めく街灯に、数多の星々。おれの行先を暗示するようにうっすらと広がる夜霧。

「君にしか任せられないんだ。美しく、誰もが虜になるその美貌。君の振る舞いこそが私の希望だ」

 そんなことを言われたら。役者冥利に尽きる言葉をもらったら、この舞台から降りることなんて、できないじゃないか。

 ただの田舎劇団で脇役しかさせてもらえなかったおれが、今はアラスターに望まれてここにいる。台本どおり舞台に上がっただけのはずだったけれど。

 これが、貴族の世界か。舞台の上に広がるのは、深い闇。この先、なにが起こるかわからない。

 でもこれは、おれの舞台だ。おれが主役のおれのための舞台だから。この舞台を降板することなんて、少しも考えられなかった。


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