第4話 社交界の女王に拝謁

 ブロウライト家の馬車が王都の城門をくぐり抜け、視界が開けた瞬間。窓から差し込む光とともに世界が一変したように思えた。

 イクティエ王国王都ガーデール。

 石畳によって整備された広い通り、整然と並ぶ美しい街路樹。優雅なドレスに身を包みレースの日傘を差した貴族や、身なりのよい市民たちが通りを行き交い、大通りに面した屋敷のバルコニーから顔を覗かせ談笑している。

 寒々しく春の訪れが遅いブロウライト領とは、比べものにならないほどの華やかさと活気に満ちていた。

「……これが王都か」

 窓の外を見つめていると、無意識に声が漏れた。

 速度を落とした馬車がガラガラと通りを進む。市場では商人たちが声を張り上げ、行き交う人々の間を俊敏に立ち回る少年たちが荷物を運ぶ。王都の街並みは、舞台の台本に描かれていた貴族の都よりも、もっと泥臭くて力強い。

「まずは予定通り公爵夫人のもとへ向かう」

 揺れる馬車の中で、アラスターが静かに告げた。ようやく、ようやくだ。長かった二週間の教育の成果を、今こそ発揮するとき。

「身嗜みの最終確認を行う。……手を」

 淡々と告げられた言葉は、もはや命令だ。おれは従順な犬のようにアラスターに手を差し出した。

「最後に爪を磨いてから、まだ三日も経ってない」

「三日も経っている。……公爵夫人は抜け目ない。隙を見せてはならない」

 アラスターは焦茶色の目を思案深げに伏せて、おれの爪をまぁるく削って整えてから丁寧に丁寧に磨きはじめた。

「アンタはいいのか? 着飾って、爪を磨かなくても」

「私のような平凡で冴えない容姿を持つ者を、いくら磨いても意味はない。それなら元より美しい君の美貌を磨き上げたほうが、余程注目と関心を集められる」

「そうかぁ? アンタ、元がイイんだから磨けば光ると思うけど」

 おれの何気ないひと言に、爪を磨くアラスターの手が止まる。けれどすぐに、ゆるりと首を振って手入れを再開した。

「……戯言だ。貴族は皆、外見主義だ。見目麗しく、胸を打つ美声に弱い」

「アンタもそうなのか? アンタ時々、おれを買って名前を奪った劇団オーナーと同じ目でおれを見てる」

 再びアラスターの手が止まった。今度ばかりはすぐに手入れは再開しない。仕上げのハンドクリームの瓶が、がたごと馬車に揺れている。

 アラスターはよくおれを見つめている。狭い馬車の中で、他に見るものがないと言えば聞こえはいいけれど、そんなんじゃない。絶対に、違う。酷く熱いアラスターの視線。燃やされて灰になるような清廉さはなく、燻って粘つくタールのような粘着質な視線だ。

「爪、もういいか?」

「あ、ああ……問題ない」

 居心地が悪そうに視線を彷徨わせ、アラスターの指がおれの手からそっと離れてゆく。奥歯を噛んでおれを見ようとしないアラスターの姿に、おれは短く息を吐いた。別に、いくらでも見ていいのに。おれは役者だ。見られることには慣れている。

 おれは気まずく沈んだ空気を振り払うように、明るく告げた。

「公爵夫人……カルメン・エドキンズ公爵夫人に、気に入られるよう振る舞えばいいんだよな、イアン・・・?」

 そう呼んで、アラスターを見る。アラスターに成り代わるために、その名をおれがもらったから。今のアラスターは、契約書に書かれた名前であるイアンと呼ぶべきだ。なにも、間違ってはいない。頭でそう理解しているのに、おれの心臓は不安で揺れて、激しく音を立てている。

「ええ、そうですアラスター・・・・・様。二週間に渡る教育を終えられたアラスター様であれば、容易いことでしょう」

 返ってきた言葉に安堵を覚えながら、ふ、と笑う。

「……貴族は外見主義だから? それを差し引いても、カルメン夫人が相当手強い相手だってことは、知っているよ」

「であれば『気に入られるように』などと弱気なことを言うんじゃない。我らは誇り高きブロウライト侯爵位を継ぐ者。革新派の女狐などに、尻尾を振るような真似だけはするな」

 普段通り冷たく鋭いアラスターの声が、王都にたどり着いたことで少なからず浮かれていたおれの心臓に突き刺さる。この二週間、ずっと狭いキャビンの空気を共有してきたけれど、アラスターがこんなにも感情をあらわにしたことはない。感情の揺れは、思考の発露だ。

 苛立つアラスターが漏らしたヒントを掻き集め、ブロウライト家の立ち位置を想像する。もしかして……と答えが浮かびそうになったところで、延々と王都を走ってきた馬車が不意に止まった。

 気づけば王都の喧騒が遠ざかり、荘厳な静寂に包まれていた。御者席から降りた雇われ馭者が「着きましたよ、旦那様」と、キャビンの扉をゆっくり開く。

「……これはまた、凄ぇな」

 目の前に広がるのは、まさに貴族の象徴ともいえる豪奢な屋敷だった。

 大理石の彫刻を飾った正門、金細工が施された門扉。広大な庭園には美しい花々が咲き誇る。白亜の館は、どこか劇場の壮麗なセットを思わせるほど、完璧に作り込まれていた。

「言葉遣いにだけは気をつけろ。——さあ、行きましょうアラスター・・・・・様」

 扉が開いて早々に馬車を降りていたアラスターが、エドキンズ公爵邸に見惚れていたおれに手を差し伸べたから。気合いを入れるように呼吸をひとつ。息を吐いて、それから吸う。そうして姿勢を正したおれは、ゆったりとした貴族の歩調で馬車を降りる。

 すでに話が通っていたのか、正門前にはエドキンズ公爵邸に仕える使用人が控えていた。そういえば、ひとつ前の街でアラスターが手紙を出していた。

 アラスターの手際のよさに感心しながら、おれとアラスターは使用人に連れられて、花咲き誇る庭園を抜ける。そうしてついに、公爵邸に足を踏み入れた。

 上を見れば天国を描いた天井画、よく磨かれた床に、正面には真紅の絨毯が敷かれた大階段。大小様々なシャンデリアや照明によって、淡く照らされた美術品の数々。

 思わず「凄ぇ……」と呟いて、アラスターに睨まれてしまった。

 貴族の屋敷は、そこに住まう人間の写鏡だろうか。この屋敷の主は、社交界の女王と呼ばれる淑女だ。華やかで、優雅で、それでいて計算高いという。であれば、より一層、気合いを入れなければならない。

「こちらへどうぞ。夫人がお待ちです」

 と、案内された広間サルーンの中央に、ひとりの女性が佇んでいた。

 優雅な微笑みとともに、紅いドレスの美女がおれたちを迎えてくれている。ドレスを髪に合わせたのだろう、燃えるような赤い髪と黄金に輝く目。真っ青なアイシャドウと真っ赤な口紅が似合う年齢不詳の美女だった。

 ひと目でわかる。彼女こそ、カルメン・エドキンズ公爵夫人だ。

 王国社交界で悪女とも呼ばれるカルメン夫人は、今は亡きエドキンズ公爵に代わり公爵家を盛り立て、議会にも市井にも多大なる影響力を持つという。その影響力が如何程かは、未亡人となったあとも彼女が実家には戻らず、公爵夫人と呼ばれ続けていることで、よくわかる。

「ようこそ、ブロウライト侯爵家の若きご当主」

 とろける蜜のような甘い声。心臓の裏側をくすぐられるようなひと声に、おれの心臓がドキリと跳ねた。落ち着け、ようやく待ちに待った本番だ。おれはもう「アラスター・ブロウライト」なのだから。

 呼吸を落ち着けるまでもない。おれは息をするように馴染んだ貴族らしい穏やかな微笑を浮かべると、優雅に一礼してみせた。

「ご挨拶が遅れました、公爵夫人。お目にかかれて光栄です」

 ダメ押しとばかりに微笑むと、夫人がおれをじっと見つめてゆっくりと微笑んだ。

「まぁ……想像以上に美しい方ですこと。ブロウライト侯爵家の皆様は、誰もが美神の加護を受けていると、今でも王都ガーデールで話題に上りますよ」

 それはお世辞か、それとも試しているのか。どちらにせよ、ここで取り乱すわけにはいかない。おれは、なんでもないことのように首を横へと振った。

「恐れ入ります」

「正直に言えば、王都に顔を見せないブロウライト家のご当主がどんな方か、少し気になっていたの」

「期待外れでなければいいのですが」

「ふふ、期待以上かもしれないわ」

 夫人がおれをうっとりと眺めながら、意味ありげに微笑んだ。そうして、広間に置かれた三人掛けソファを手で指して「お茶にしましょう」と。夫人が手を叩くと、女給仕があらわれて、あっという間にお茶の用意をしてしまう。

 促されるままにソファへ腰掛けると、夫人は優雅な所作で一人掛けソファに腰を下ろした。アラスターはおれの後ろに控えて立っている。あくまで従僕イアンとして静かに佇んでいた。

「さあ、召し上がって」

 夫人自ら、ポットからティーカップにお茶を注ぐ。紅色のお茶が、白磁器のカップに映えて綺麗だ。カップを手に取り、香りを嗅ぐ。と、春の野を駆けた日を思い出すような、甘やかな香りが鼻腔をくすぐる。のだけれど。

「失礼。私が先にいただいても?」

 と。おれがカップに口をつける前に、後ろに控えていたアラスターが口を挟んだ。

「あら。心外だわ。ブロウライト家の方に毒物を混入させたお茶を出すと思われたなんて」

「申し訳ありません。我が主人は、ブロウライト家の血を引く唯一の方です。それに、ブロウライト前侯爵様が毒で亡くなったのをご存じでは?」

 アラスターはそう言いながら、おれからティーカップを奪い取るように遠ざける。夫人はそれを見て「ふふ」と笑った。

「それをおっしゃるのなら、ブロウライト侯爵家が王党派であった、という話はどうなさるの? ……まさか、ご存じない? そんなこと、ありませんわよね」

 前振りもなく唐突に告げられたその言葉に、喉がひりついた。ああ、やはりブロウライト家は夫人が属する革新派と敵対する王党派だった、と。納得がいく一方で、沸き起こるのは焦燥感だ。

 この舞台の主役はおれのはず。従僕イアンを演じているアラスターじゃない。おれを見ろ。呼吸をひとつ。短く吐いて、胸いっぱいに吸う。それからおれは、困ったように眉を寄せてみせた。

「……確かに、ブロウライト家は王党派に属しておりました。しかし、私はまだ若く、過去の政治には深く関わっておりません」

 言葉を慎重に選びながら続ける。

「今の私が求めるのは、ブロウライト家の未来です」

 カルメン夫人は微笑んだまま、おれを見ている。後ろに控える本物のアラスターなど、もはや眼中にないようだった。よかった。ようやくおれを見た。

「ふふ……未来、ね。あなたは、貴族の未来がどうあるべきだと思います?」

「貴族の未来は、時代の流れと共に変わるものだと考えます」

「まあ、素敵なお考えですこと」

 楽しげにころころと笑う夫人の瞳には、鋭い光が宿っていた。一瞬たりとも気を抜けない。おれの背中から、どっと汗が噴き出るのがわかる。夫人が、スゥ、と。黄金色の目を細めて口を開いた。

「それで、本日はどのようなご用件かしら?」

「王都の社交界に加わるにあたり、夫人の助言をいただきたく思いまして」

「まあ、光栄だわ」

 夫人が白磁のような手を合わせて無邪気に微笑んでいる。一見、歓迎しているように見えるけれど、その目には慎重な色が滲んでいた。駄目か、駄目なのか。おれの演技は本物の貴族には通じないのか。

 カルメン夫人はただの善意で動くような人間じゃない。おれの容姿に靡くようなひとでもない。考えろ、頭を回せ。彼女は貴族社会の駆け引きを熟知し、己の利益を計算できる女性だ。

「社交界は戦場です。誰と手を組み、誰を敵に回すか……慎重に選ばないといけません。そのための助言をお願いできれば」

 おれはゆっくりと背筋を伸ばして、ソファの背もたれに背中を預けた。笑顔だけは絶やさずに、決して前のめりにならないように。ああ、汗を掻いた背中が気持ち悪い。ブーツに隠した足の指がヒクヒクと震えていた。

「ブロウライト侯爵家は長く王都から遠ざかっていました。私には社交界へ誘ってくれるような友はおりません。夫人を訪ねたのは……」

 そこまで言って、助けを求めるようにアラスターを見た。アラスターは心得たとばかりに頷くと、懐から一枚の手紙を取り出した。

「ブロウライト前侯爵様の遺言状です。爵位継承式に挑むのなら、エドキンズ公爵家を頼りなさい、と」

 そんな話、聞いていないが? だなんて動揺は表情には出さず、アラスターが広げた遺言状に目を通す。そこには確かに、見知らぬ筆跡で「エドキンズ公爵家を頼りなさい」と書かれていた。

「まぁ、それは興味深い話ですわね」

 遺言状に目を通した夫人が、吟味するように目を細める。まるで息が詰まりそう。いや、実際、詰まっていたかもしれない。アラスターには不意打ちの事実で背中を刺され、夫人には見定められている。だからおれは神経を研ぎ澄ませ、夫人の声と表情だけを拾う。

「あなたがどんな方なのか、少し見極めさせていただくわ」

 そう告げた夫人は、少し考え込むように目を伏せた。しばらく沈黙が続き、やがて夫人はおれの瞳を覗き込むように微笑んだから。釣られてニコリと笑ってしまったのは、悪手だっただろうか。

「では、ひとつ試してみましょう」

「試す……とは?」

「あなたが貴族として社交界で通用するか。ある舞踏会の招待状を渡します。この舞踏会は、あなたにとっても興味深い方々が集まるでしょうから」

 そう言って夫人は、テーブルの上に一枚の招待状を置いた。

「ここでの振る舞い次第で、あなたを支援するか決めましょう。心配はいらないわ、あなたがブロウライト家の当主なら、必ず帰ってこれるはず」

 なるほど、そう来たか。おれは招待状を手に取ると、考えうる限り完璧な貴族子息のイメージで、余裕を見せつけるかのように微笑んだ。息は深く吐き出さず、吸いもしない。

「では、その舞踏会を楽しみにしております、公爵夫人」

「ええ。……そうだわ、ひとつ助言を授けましょう。あなたに興味があるのは、貴族としてのあなた自身だけではないのよ。それだけは、心に留めておきなさい」

 カルメン夫人が、意味深な笑みを浮かべていた。夫人もまた、アラスターとはまた違う手強さを感じるひとだ。

「そういえば……ブロウライト家は王都にタウン・ハウスを持たなかったわね。いいわ、王都にいる間はこの邸に滞在なさって」

 夫人の言葉で、使用人がおれとアラスターを客間ゲストルームへ導いた。広く豪奢な客間に浮かれたのは一瞬で、夫人とのやり取りにアラスターから厳しい教育的指導が入る、とおれは条件反射で身構えた。のだけれど。

 予想に反して、アラスターはなにも言ってはくれなかった。ただひとり、窓の外を見つめながら思案に耽っていた。


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