天使
愛愁
第1羽
陽が街を赤く染める頃、公園のベンチから帰宅しようとしている子供達を眺め煙草を吸っていた。大人ほど性別の距離感の無い小学生の集団は、バランス良く男女が混ざっていた。活発そうな男子も女子も元気良く、これから一人になるにも関わらず笑顔だ。
「君は帰らなくて良いの?」
隣に座っている女児に声をかける。ツインテールでどこかの学校の制服のような服装の女児は、ここで煙草を吸っていると高確率で現れる。例え目の前に小学生集団がいなくとも、昼だろうと夜だろうと現れる。不登校ってやつかな。家の事情もあるのかもしれない。
「お兄さんは、帰らなくて良いの?」
僕と同じように笑顔で小学生の背中を見つめる女児は言った。
「帰らなくても良いんだよ、帰っても一人だから」
君は一人じゃ無いんだから、とは言えなかった。この娘が過去の僕同様、家庭に問題を抱えて親を家族とも思わず血を憎むような子供だったら、それは暴言になるからだ。平日の昼間でさえも来る時があるということは、何らかの問題を抱えているということだ。少しは慮るべきだろう。
「お兄さん、仕事は何してるの?」
「大学生だよ」
「お金は大丈夫なの?」
「貯金があるからね」
「無くなったらどうするの?」
「また、働くしか無いね」
女児はこうして質問をする。僕の前に現れてからしばらくの月日が経つが、僕が話しかけてもそうじゃなくても女児は質問をする。最初の方は気味が悪くて適当に答えた後すぐに公園を去ったけど、今はそうしない。
いついかなる時でも現れる女児こそ気味が悪いが、今はそこまで警戒していない。寧ろミステリアスな娘に対して興味が湧いていた。
「働くって大変じゃない?」
「お金を稼ぐためだから、大変でも我慢するしか無いよ。重いものでも頑張って持つんだよ」
「そうじゃなくって、人との関わり」
「...大変だよ」
小学生じゃないのか、この娘は。小学生が人間関係の柵を考えると言う違和感を見過ごすことはできなかった。やっぱり、気味が悪いかもしれない。小柄な中学生かもしれないけど、この娘の放つあどけなさを鑑みれば高校生とまでは思えなかった。
年齢を聞いてみようか。でも、女性に年齢を聞くと言うのは失礼じゃないのか。こういう相手を思いやるということが人間関係の重さだ。頑張っても持つことはできない。仮に思いやりを思考から除外して仕舞えば、その相手との人間関係に重みはなくなる。人間関係は、なくなる。
「お金のためなら我慢する?」
「......まぁ、我慢するよ...」
「お金がそんなに大事なの?」
「お金は大事だよ。生物的に生きる為の呼吸でさえ、安定してするにはお金が必要なんだ」
「病気になってまで?」
「...」
女児が僕のことを知っているはずがない。たまたま人間関係を憂慮する性格で、たまたま病気なってまでお金が必要なのかが気になっただけだろう。
なんだか見透かされたかのようで嫌になった。しかもこんな子供に。今この場所でこの娘を歪むまで殴ったら、犯したら、黙ってくれるだろうか。その分かりきったかのような口調をやめてくれるだろうか。
「そこまでは必要ないかもね」
「お兄さんは病気なの?」
「...違うよ」
この娘は親か姉妹かが病気になったのだろう。子供でそういう精神病の類のことを知っているというのは何だかおかしいと思ったが、身近な人に該当者がいるのであれば知っていてもおかしくない。そして、相手のことを考えずに質問をするのも小学生であれば、おかしくなんて、ない。そうだろ?
僕は先ほどまで横目に見ていた女児の方を向き、ギョロリと瞳を見つめ直した。この娘を、どうにか黙らせたい。小学生相手に怒ることではないにしても、この分かったような小学生が怖くて仕方ない。
「君、親は?」
「いるよ」
「誰か病気なのかい?」
明確な悪意を持って、こいつの困っている顔が見たくて。そのあどけなく明るさの孕んだ顔を歪ませてやりたい。大人の世界を知った気でいるこの娘の細い首を掴んで、窒息するまで水槽に沈めてやりたい。一種の破壊衝動を抑えられずにいた。
「そうだと思うよ。たくさんお薬飲んでるの」
「.........そう、なんだ」
曇り一つ見せずに言った。この娘は躊躇いがない。キャンパスの汚れが目立つように、この娘の横にいると自分の人間としての不恰好さを自覚することになる。
煙草を地面に捨てて靴底で揉み消す。黙って立ってポケットに手を突っ込みフラフラと公園を出ようとする。もう、ここに来るのはやめよう。
大人げなく意地悪をした娘に対しての申し訳なさと、そして不気味さに慄きながら決心した。
「また明日ね」
背中で娘の言葉を聞いていた。
⬛︎⬛︎
翌日。
陽もすっかり落ちて星が登る頃合いに煙草を咥えて闊歩していた。行く当てなど無く、ただ鬱蒼とした自室に篭っているだけでは良くないと思い外に出た。風は無く、ただ街灯の光が僕の影を音もなく落としている。どこまでが煙かわからない冬の一服は、まるで生きているのかどうかわからない自分のように空中を揺蕩っていた。
いつもの公園の横を通る。あのベンチに少女はいないが、きっと座ったら来るだろう。いない安堵感があった。それと同時に、いない不安感もあった...。
行かないと決めたのはほんの一日前なのに、こうしてベンチに座っている自分を客観視すると、熟自分の一貫性の無さに落胆を覚える。知らぬ間に彼女が日常のカケラと化していて、きっと会わなければ不安定になってしまうようになったのだろうと自分を正当化する。
「お兄さん、どうして今日も来たの?」
いつのまにか隣にいる。座るまではいなかったのに。
この娘は相変わらず心を読んだかのような、逆鱗に息を吹きかけるような質問をする。溜め息も煙草の煙を吐くと言えば幸せは逃げないような気がした。
「煙草を吸いに来たんだよ」
「煙草はここじゃなくても吸えるでしょ?」
「私に会いに来たんだろ、とでも言いたいのかい?僕の所定の喫煙場所はここなんだよ」
「私に会いに来たんじゃないの?」
間違いではないのだろう。このベンチは確かに僕の喫煙所ではあるものの、喫煙所と表現するよりはこの女児と話すための交流所と言った方が腑に落ちる。僕は喫煙にかこつけて隣に座る女児と話に来たのだった。
僕は何も言わない。この娘は子供のくせにしつこくない。いや、しつこいけど、同じ事を何度も質問するような粘着質ではなかった。そうしてくれた方が人と話す事を基本的に嫌う僕にとっては嬉しい事だった。人と話すことが嫌なのにどうしてか、この娘と話すことにそこまでの不快感はなかった。僕の内面に触れる女児とのテータテートは、まるで自問自答しているかのような感覚に近かった。
「君、歳はいくつなの?」
女性に年齢を聞くのは野暮だ、と思っていたが、僕にはこの娘を気遣うほどの余裕はなかった。目の前の女児は僕の考えている事を言い当てるような質問を投げかけてくる。それは容易に僕のパーソナルスペースたるものを踏み越えるものだった。
触れてほしくないところに触れてくる。痛いところをついてくる。僕が必死に目を逸らそうとしていることを、無理にでも意識させてくる。思いやりもない女児を思いやれるほど、僕は優しくなんてない。
優しいと言うのは、他人を憂うことのできる余裕のある人のすることだ。僕は自分を案じることに精一杯で、名も知らぬ子供を気遣ってやれないほどに目玉がぐるぐるして視界が定まらない。
「12だよ」
「...小学生...、いや、中学生かい?どちらにしろ、この時間帯に外に出ちゃいけないだろ。早く帰りなよ」
「そんな邪険に扱わないでよ。お兄さんは私のこと嫌い?」
「嫌いだな」
語弊がある。僕はこの女児に嫌いという感情はない。ただ、好きじゃないのだ。どれだけ会話を重ねたって、どれだけお互いのことを知ったとして、僕はこの娘のことを好きにはなれないと思う。嫌いならば今日もこうしてベンチに座っていることはない。
きっと、本能がそれを否定しているのだ。この娘を好きだと自認してしまったら、僕は全てを投げ合ってこの女のことを理解しようとする。この女のこと以外などどうでもいいと、そうやって全てを蔑ろにしてでも女との時間を作ろうとして、きっと煙草など咥えている暇もなく、この呼吸ですらも女児のものにせんと努力するだろう。
「本当に?」
表情を崩さない女児の一言は、嫌いだと言われてショックを受けているからのものではない。本当は僕の真意をわかっている。それでいて、本当は違うのだろうと僕を問い詰めているのだ。嘘をつくなと、嘘などついても何一つとして取り繕えていないのだと、そうやって遠回しに、しかし確実に僕の急所を突く。
何故だかわからないけど、僕は女児の方に飛び掛かるようにした。胸ぐらを掴み、だが女児の瞳などは見なかった。感じているのは爪が食い込む感覚と、女児の衣服の感触。そして、憎悪。この女が憎い。全てを見透かすような発言と、それでいて僕の神経を逆撫でする態度。こいつは悪くないとわかっていても、僕の精神異常の怒りの矛先はその原因となった女児に向ける他なかった。そう、僕の精神異常が悪いのだ。きっかけは女児であっても、発火したのは僕の精神、だ。激しく渦巻く憎悪に身を任せて、僕は胸ぐらに力を入れる。女児の横に座っていたはずなのに、いつのまにか前に立っているような位置に変わっていた。手を交差させ、そのまま女児の首を絞め、このまま、そう、これで死んでしまえ。
女児の後頭部と背もたれの衝突音によって、はっと我に帰り手を緩める。えもいわれぬ後悔が頭を駆け巡り、手に女児の心音の不快感が残ったまま頭を抱える。こんなことまでやって、僕は一体どうしたいんだ。怒りのままに小さい子供に当たり散らし、それでストレスの発散を仕切れるわけではないというのに。
ふと視線を女児の方に向ける。罪の意識で歪んだ視界、指の間から微かに見える。朧げに捉えた女児の姿を、輪郭から細部へと鮮明に解析していく。足元、指先、腹部、胸部、そして首へと視線を移していき、顔。いつもと変わらぬ薄ら笑いのような表情を浮かべ、そこには大人によって首を絞められることに対する恐怖などは含まれていなかった。息一つ崩すことなどなく、平然と呼吸をする。安定した呼吸をすることに、僕はどの苦労をしていない。本当に、こいつは、なんなんだ。
「お兄さん、大丈夫?」
自分の身には何も起こっていないかのように質問をする。いつものように、ただ座っている時と同じように僕に質問を投げかける。自分のことより先ず他人のことなどという善良な思考に基づいての発言ではないことを理解していた。こいつはいつだって、僕に対する質問は嘲笑するような内容ばかりだ。僕の精神状態が、僕自身が、僕が大丈夫なんかではないことをこいつは知っている。分かっているはずなのにあえてこの質問をしている。
冷や汗をかきながら逃げるように後退りをした。この娘の性悪さにたじろいでいるわけではなく、単にこの場の空気に辟易し、この女児の視線から一刻も早く逃げ出したかった。咥え煙草はいつの間にか地面に落ち、変わらず煙を吐き出している。バランスを崩した身体は無様に尻餅をついた。
「お前、なんなんだよ...」
恐怖心を隠すように笑いながら言う。汗が吹き出し、口角を上げて、必死に大人としての体裁を意識する。今更のことだけど、目の前にいる遥かに自分よりも歳下相手に弱いところを見せたくはなかった。少しでも強い言葉を使おうと『お前』と呼ぶ。しかし語勢は子供らしく、強がっているのは自分でもバレバレだと思っていた。
「なんなんだろうね。お兄さんの、なんなんだろうね」
やっぱりこいつは僕を怒らせる。ただ小学生だとか、青い子供だとか、言えばいいのに。態々『お兄さんの』、僕にとって何かを考えさせてくる。
「お前は僕のストレスだよ、それ以外の何者でもない...」
「ストレスに依存って、するもの?」
「依存なんて...、依存...」
していない。僕はこの女児に依存なんてしていないはずだ。話すたびに泥水を浴びさせられるような事ばかり言うこいつは、僕のストレスの原因である。人間関係を最小限に抑えている僕にとって、日常の不安感はこいつ以外に原因はない、だろう。今だってそうだし、昨日だってそうだ。仮にこの女児が僕のストレスの原因ではなかったとして、僕が見ないふりをしているストレスがあるとして、やっぱりそれを意識させるのはこの娘なのでストレスの原因はこの娘なのだ。だから、ストレス以外の何者でもなく、そして依存もしていない。
じゃあ、どうして僕はここにいるんだ。さっき自分でも思ってた事だ、こいつは僕の私生活の必要不可欠な部分となっていて、こいつと話すことは僕にとって茶飯事なのだ。睡眠同様、僕にとっての安定剤はこいつとの会話自体、それなのだ。しかし、どうしてもコイツに真っ向からそれを言われると否定したくなる。コイツに正論をぶつけられると、その正論は間違っていると詭弁を使ってでも誤魔化したがる。コイツの言っていることは正しい。でも、僕はコイツを否定したい。もしかしたら、僕が必要としているのはコイツとの会話ではなく、その会話の中における女児に対しての否定行為なのかもしれない。
「依存してるのかも....、しれないね...」
自分の中でまとまった結論を出して、落ち着きを少しでも取り戻す。なるべく言葉を強くしないよう、強がっていることを悟られないように静かに喋る。子供に話すように、優しい言葉を意識して投げかけてやる。相手は子供なので当たり前のことだが、僕にはこいつが子供とは思えない。
「そっかぁ」
喜べよ。お前の意見は全面的に誰から見ても正しいと認められたんだ。少なくとも目の前の、君を貶めようとした相手から認められたんだ。喜怒哀楽の喜しか表に出すことがないのか、それとも喜び以外の感情を知らないのか。どっちでもいいが、やっぱりコイツの行動は何であろうと僕を不快にさせる。その笑顔も、そうして僕を見つめる眼でさえも不快で仕方がない。もう一度胸ぐらを掴んでやりたくなったが、例えそうしたところでコイツの表情は崩れやしない。否定を目的とした僕の行動において、相手がそれをものともしなければ、ただの空振りで虚しくなるだけだ。今だって、さっきの後悔がこびりついて離れない。虚しいと言う感情は僕から離れたがらない。
僕は黙って立ち上がり、砂を落とすこともしないで出口へ向かう。もう来るのはやめよう。そう思った矢先無理だと悟った。僕はここに来るしかないのだ。コイツは僕にとってストレスで、そしてそのストレスを否定することで他の鬱憤とか憂鬱とかを晴らしている。僕はコイツを否定しなければ生きていけない。コイツを否定することでどうにか精神状態を保っている。
例え否定することが叶わなかったとしても、否定した事実に安堵して、冷静に物事を判断できるようになる。僕はコイツに、依存している。
⬛︎⬛︎
その日から、僕はコイツに質問をされても反応しないようになった。会話がなければ否定ができないと思ったが、反応をしないと言うことは存在を否定すると言うことになる。僕はそれで満足だった。一度でも僕とコイツの会話において僕の否定がコイツの主張を打ち破ったことはない。ならば、そんな虚しい気持ちを抱かないためにも、僕は会話をするのをやめた。
一時間ほど煙草を吸って、まだ吸いたかったらもう一時間いる。飽きたら帰る。そういう生活だった。女児の声を聞きながら、決して反応しないように僕は煙草を吸う。小学生の幻影を見つめながら、必死に女児から目を逸らす。嫌なことから目を逸らそうとしていることに変わりはなかった。
「その袋、何?」
今日も女児は質問をしてきた。飽きないもんだなと思いながら同じように聞き流す。相手の話を無視すると言うのは良い気がしないが、僕にとって横にいる女児は気を遣ってやる対象ではなかった。そもそも、今の僕が気を遣ってやれる他人など存在しないのかもしれない。この女児でもなくとも、たとえば公園で遊ぶ子供にさえも僕は優しさを差し出さないだろう。
「それ、薬でしょ?」
いつもなら僕が無視すればその会話は途切れるのに、今日に限っては話を続けてきた。僕が否定したところでこいつは変わらない。ああそうか、あの日胸ぐらを掴んだ時と同じように、僕がコイツを否定していると思っていたことは一人で勝手に満足しているだけのことで、結果としてはなんの成果もなく否定すらできていなかったのだ。どれだけ否定しても、どんなに否定しても、こいつは笑みを崩さず、そして僕を怒らせると言うスタンスも崩さなかった。
「薬だよ」
「なんの?」
「病気の」
そんなの誰にでもわかることだ。病気以外の薬など知らない。しかし、何かしら答えないとこいつはズバリと言い当てて僕の触れられたくない内面を暴いてくる。きっとここで黙っていても、こんな薬だろうという見当を言ってくるのだ。聞きたくなかった。見透かされていることはわかっていても、それを口にはさせたくなかった。
「なんの?」
「病気は病気、病気以上でも以下でもない病気」
「ふぅん」
幸い、こいつはそれ以上深く聞いてくることはなかった。そうやつだと分かっていたけど、僕を不快にさせるコイツの態度を考えてしまうと、僕が触れて欲しくないところにあえて触れてくるような気がした。いまだって、僕が逃げたことを認識して敢えてそれに言及してくるだろうと思った。
このままこの場に留まっていると、いつか口を滑らせていらぬことまで言ってしまうような気がしたので、僕は黙ってベンチを立つ。思い返してみれば、僕はコイツの名前すら知らない。名前も知らない女児に詳らかに内面を話すほど、そういう観念は緩くないと思っている。
「ねえ、お兄さん」
「どうしたの?僕はもう帰るよ」
「名前なんていうの?」
やっぱり、こいつは読心術の心得でもあるのかもしれないと思った。僕が名前すら知らないこいつに、なんて思った矢先僕の名前を聞いてくるなんて、おかしい。名前が気になったのかもしれない。いつもベンチに座る年上の男の名前が気になったのかもしれない。出会ってしばらく経つが、もう名前を聞いていい頃合いだと判断したのかもしれない。別に不自然じゃない、そうやって思うこともあるだろう。しかし、僕には不自然に見えてしまう。僕の心のタイミングに合わせているみたいに、僕がやっと飛ばした紙飛行機に石礫をするように、それくらい恣意的であるような気がした。それくらい悪意があるような気がした。
「そう言う君はなんて言うんだよ——」
一緒だった。なんの意地悪か知らないけど、僕とコイツは同姓だった。やっぱり、こいつはどこまでも僕を不快にさせる。
結局、僕はこいつの質問を有耶無耶にしてその場を切り抜けた。質問を返して相手が答えて、それで会話をしたような気にさせた。きっとこいつの中では疑問が残っていたと思うが、答えてやる義理なんてない。
僕は煙草を取り出して、火をつける。一回だけ肺に煙を入れて、そしてそのまま踵を返した。どうせ僕の苗字もわかるんだろ。僕の微かな表情の変化を読み取って同じであるということを予想しているのだろうと思った。僕はコイツの不気味さに惹かれていたが、同時に引いていた。
このまま黙っていつも通りに帰っても良かったが、有耶無耶にした自覚もあってか、なんだかバツが悪かった。
「僕は帰るけど、君は帰らなくていいの?家、あるんだろ。家族もいるらしいじゃないか」
ここでふと、僕の中での好奇心が働いた。この不気味な女児に対して興味を抱いてたが故に、少しでもこの女児のことを解りたいと思ったのだ。少しでも多く、この女児に関する情報を頭の中に入れて、そうしてわからないことを少なくしていき怖いと言う感情をかき消そうとした。決して慈善活動ではなく、僕は僕の好奇心を満たすが為だった。
「もう暗くなるし、送っていくよ」
僕の好奇心というのは、公園以外での彼女を見たいというものだった。いついかなる時でもベンチに座っている時に忽然と現れる少女の、いつもと違う姿を見たいという欲求が僕の心の中に出現していた。送迎という名目にかこつけて彼女の家を突き止めるだなんて、まるでストーカーじゃないかと思いつつ、しかし僕はコイツに対しての慈愛の心などはとうに存在していないとして開き直った。別に家がわかったからと言って嫌がらせをするとか、毎日通ってやるとか、そういう思惑は一切ない。
分からないものは怖い。光のない暗黒の道を進むことを躊躇うのは、先が見えずに分からないからだ。人生だってそう。僕がこの女児に恐怖を覚えているのは分からないことが多すぎるからだ。思考が全く分からない、名前も知らなかったし、素性というものはほとんど知らない。だから少しでもその分からない要素を潰して、コイツに対する恐怖心をどうにかしようという魂胆である。子供に恐怖するなんて、惨めだと思うが。
もしかしたらコイツは地縛霊か何かなのかもしれない。僕にしか見えていない幽霊みたいなもので、だからこの公園以外には出現しないのかもしれない。単に公園以外での姿を見ていないだけだが、見えていないということは僕にとって存在しないと同義だった。とにかく、それならそれでいい。幽霊だということが分かってくれさえすれば、いいのだが。
少女は黙って立ち上がった。微笑みを崩さずに歩き出し、僕の前へと移動した。急に静かになるなと思ったけど、そんなことはどうでも良かったし、静かになってくれるのであればそれで良かった。僕にとってはそうしてくれた方が助かる。
公園を抜け住宅街を二人で歩く。いつもならお喋りなコイツは珍しく静かだった。やっぱり怖い。コイツが何故静かになったのか全く分からない。僕が黙ってくれと思っていたことを感じ取ったにしては随分時差がある。今は背中しか見えないが、きっと今も笑っているのだろう。あの分かったような薄ら笑いを顔に貼り付け、こいつは僕の前を歩いているのだろう。一体何が目的なのかわからない。今僕は、コイツについていくように歩いているが、果たしてコイツは本当に家に向かっているのかさえもわからない。思考が読めないというのは誰にとっても当たり前のことだけど、予測できないのはまた別問題である。僕の性格というものが他とは違っているというのは理解しているけど、それでも常識というものは最低限身につけているつもりだ。そういう社会一般の常識に当て嵌めて考えてみても、この娘のやることなす事は予想がつかない。つまり、僕を不安定にさせる。僕はコイツと話さないと不安定になり、話したとしても不安定になる。どちらにしろ不安定になり、安定しているのは会うという事実だけだ。
しばらく歩いて交差点を曲がり、そしてしばらく歩いて、また曲がって。その繰り返しの後、ようやく家に着いた。女児は年季の入ったアパートの外付けの階段を上がって二階へと移動し、そして手前から二番目のドアの前に立った。ようやく家に着いた。女児は慣れた手つきでドアの横に配置してある小さな植木鉢、その土の中に手を突っ込んで鍵を取り出した。ようやく家に着いたのだ。
「あの...、ちょっといいかな」
女児は片手に鍵を握りしめて、そしてそのままこちらを向いた。女児と目が合う。僕は少し背が高いので、小中学生の女子と話す場合見下ろす形になる。だが、今回ばかりは、なんだか見下ろされているような気がした。この女児は、僕の全てを知っているような気がした。掌で踊らされているのか、この女児はいつだって恐ろしい。
ようやく家に着いた。そこは女児の家なんかではなくて、僕の家だった。鍵の隠し場所も当然のように知っていたコイツは、僕のストーカーだったのかもしれない。でも、僕の家の前は静かな住宅街だ。足音ひとつでもすれば通り中に響くくらい静かなのに、小学生程度の尾行に気づかないなんてことはない。それに、この花瓶は一階から見えないようになっている。階段を登らなくてはならないけど、階段を登る時は鈍い金属音が響く。コイツは、なんなんだ。
僕の心境全てを寸分違わず読むような質問をし、そしてピンポイントで嫌なことばかり言ってくる。悪いことを避けようと移動した先にはコイツがいて、その悪いことの軌道上へと僕を押し出す。決して全力なんかではなく、いとも簡単に僕を悪いことにぶつけてくる。そんな奴なら会おうとは思わないはずなのに、僕は設計されたかのようにこいつに会いにいく。確実にストレスになっているにも関わらず、同じように確実に僕の心に入り込んでいる。容易に懐に入ってきたと思ったら、可愛げもなく至近距離で言葉を突き刺す。
なんとか言ったらどうなんだ。公園で送ってやると言ってからいつもの饒舌さが消え失せたことに違和感を感じてはいたが、些事だと思って見逃した。その違和感がここまでの恐怖に変わるくらいなら、僕はコイツを置いて逃げ出しただろうに。子供じゃ追いつけないくらいに走って逃げ出しただろう。哀れにも子供から逃げ出す大人の構図を生み出し、それでも自衛のために走っただろう。そんな後悔虚しく、こいつは懐に入ってくる。警戒なんてする暇もなく。
いつも通りに、当たり前のように、女児はこちらを向いている。おかしいことなんて何ひとつないかのように僕を見つめる。いつものように。今度は何を見通しているのだろうか。今は何を見透かしているのだろうか。なぁ、おもしろいか?大の大人が小学生一人に対して恐れ慄き、汗を吹き出して、今にも泣き出しそうで、怒りか悲しみかで顔を歪ませる様は。おもしろいか。だからそうしてるんだろ。
今すぐその顔をやめろ。
少女は笑っていた。あの、薄ら笑いで。
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