春に逢いたい

 自分を綺麗に見せることに抵抗を感じる。他人の目線が服や皮膚までも貫いて心まで見られているようだ。

 外出することは煩雑に思えて億劫となり、結局家に引きこもってしまう。それで結局何もしないままに一日が終わってしまうことがある。


 そんな美幸だが贔屓にしている小さなレストランだけには足を向けている。彼女のルールとして外からお店の中の込み具合を確認してから入る。

 そうすることで人の目に怯えて食事をすることもない。ただ、入った後に込み合ってきたら、それは仕方のないことなので早めに退散する。


 込み合わっていなければ、ルーティンを実行する。食後のデザートまで終わったら、コーヒーを飲みながら読書をするのだ。

 お店を切り盛りしている五十代くらいの夫婦には、最初こそ人見知りしていたが通い詰める内に打ち解けることができ、今では美幸のことを名前で呼んでくれる。


 今日はその店へ春を連れていく予定だ。今までも何度か誘っていたけれど、都合が合わずに一年ほど過ぎてしまった。

 彼女はお店を気に入ってくれるだろうか。自分のお薦め料理を一緒に注文して、食後に他愛のない話をして、それから――何をしようか。


 久しぶりに自分の部屋へ春を招待するのもいいかもしれない。逆に春の部屋に行ってもいい。少しずぼらな彼女のことだから、乱雑になってしまっている部屋が想像できる。

 春一人では重い腰を上げないだろうから、手を差し伸べて一緒に片づけをして過ごすのもいいだろう。


 楽しいことを思い浮かべながらだと退屈な講義でも苦にならない。隣はいつも通り空席になっている。

 周囲も隣に誰が座るのかわかっている。春はきっともうすぐ照れ笑いを浮かべながら隣に座ってくるだろう。


 早く顔を見たいなと思いに耽っていたら、一瞬脳裏を過った嫌な思い出のせいで深く息を吸い込んだ。

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