芥川の詫び証文

久佐馬野景

 河童が空を飛んでいる。

 通報を受けて市内の田んぼにやってきた古野月このつき冬子とうこは、畦道で煙草を燻らせながら突っ立っている男を確認し、公用車――年季の入った軽バンを停めてそちらに向かう。

 職場ではむしろ浮いてさえ見えるフォーマルなスーツ姿は、やはり田園風景にも馴染まない。相手もそれに気づいたのか、怪訝な目をこちらに向けてくる。

「市役所の者です。通報をいただいたのは――」

「ああ。遅かったな。俺だよ」

 声をかけると振り向く作業着姿の五十絡みの男。その足下に転がっている存在に気づき、冬子は顔を顰める。

 男のゴム長靴が、横たわった河童の頭の皿を踏みつけていた。

 本当はすぐにでも男を突き飛ばしたいところだが、踏まえなければならない手順というものがある。

「そちらの河童は」

「なに? 聞き取り? 昼過ぎぐらいだったかな。あっちの山のほうに向かって、両手を広げて飛んでいく河童がいたんだよ。まあびっくりするだろ? 河童が飛ぶなんてよ」

「その河童が、飛んでいたんですか?」

「あ? 違うよ。でもこいつも河童だろ? 同じだ、同じ」

 河童は河童だ。それはそのまま、この男や冬子が人間だという理屈となんの変わりもない。

「悪さされたら困るだろ? このへんうちの田んぼだしさ。誰の許可取ってひとんの田んぼ入ってんだよって話だろ? 人間のほうが上だってことをさ、常日頃から学習させとかないといけないだろ?」

 転がった河童が、ゆっくりと腕を伸ばす。水掻きのついた手を曲げ、男の頭部へと狙いを定める。

 はっとして男を河童から遠ざけるために突き飛ばそうとする。河童の腕は伸縮が利く。この距離でも手の爪が男を傷つけるには十分だ。

 パキッ――乾いた音とともに、男が水を張った田んぼの中へと吹っ飛ぶ。同時にそれまで男が立っていたところ――冬子の顔面すれすれに、河童の腕が伸びて爪が空を切る。

「河童を懲罰するには資格がいるんだよ。ただの弾指でそのザマってことは、講習すら受けてないだろ」

 畦道に入ってくる派手な格好をした少女と呼んでも差し支えない若い女。黒く焼いた肌に脱色した頭髪。基本的に人前に出ないとはいえ、こんな自由なファッションをした人間が同僚だという事実にはまだ慣れそうにない。

 降矢ふるや水守みもりは何事か言い返そうとする男に向けて、右手の人差し指を曲げて親指の腹でぐっと引き寄せる。これを中指の腹に当てることで先ほどの音を鳴らす。冬子でも知っている、弾指という呪術の所作のほんの一部分だ。それでも水守が指を弾くだけで、大人ひとりを吹き飛ばすほどの呪いが発動する。

「すみません。大丈夫ですか」

 田んぼで尻餅をついている男へと手を差し伸べる。男がその手を泥を巻き上げながらはねのけると、もう一度パキッと音がして男の上体が倒れる。

「なんだこのガキ――」

「すみません。彼女は――」

「降矢水守。国家河童懲罰士。その他河童に関する資格は全部持ってる」

 水守は男に踏まれていた河童を助け起こすと、二言三言囁き、頭をぽかんと殴って用水路の中に身体を浸けてやる。すると河童は水に溶けるようにして姿を消した。


「なんで古野月さんが謝るんですか」

 怒り狂った男に平身低頭で謝罪を続けたあと、もう得られるものはないと見切りをつけ、軽バンに戻って発車する。謝罪を冬子に丸投げした水守は助手席でむすっとしながらつぶやく。

 市役所には戻らず、そのまま河童が飛んでいったという山のほうへと向かうこととなった。通報が真実なら、道中で山に向かって飛んでいく河童を確認できるかもしれない。水守は携帯の画面を消してフロントガラスの向こうの山を凝視している。

「国家河童懲罰士だからといって、民間人に呪術を用いてはならないことくらい、それこそ最初の講習で習いますよね」

 今ごろは先ほどの件で市役所にクレームの電話が入っているだろう。対応しなければならない課長に心中で謝罪しながら、水守に反省の色が見えないことに呆れて意地の悪い返答をしてしまう。

「どうなんすかね。私そういうの受けてないんで」

 そうだった。水守は特別だ。

 降矢家。代々河童懲罰士を生業とする、河童懲罰士の事実上の師範となっている一族。水守は降矢家の当主候補であり、試験や講習を受けることなく国家河童懲罰士の資格を持っている。冬子とはまるで別世界の人間だ。

 だけどもしかしたら、ともに同じ立場で働けたこともあったのかもしれない――とっくに潰えた可能性を考えて、ハンドルを強く握る。冬子と水守が決定的に違うことはいやというほどわかっている。いくら過去を悔いても今は変わらないことも。今の冬子はなんの資格も持たない市役所のいち職員に過ぎない。わかってはいるが、古傷がじくじくと疼く感覚は止められなかった。

 ハンドルを握り込んだ冬子の手に視線を向けて、少しためらいがちに水守が口を開く。

「――すみません。スーツ、汚されてしまって」

 通報者の男が田んぼの中で腕を振り上げた時、巻き上がった泥が冬子のスーツにいくつも染みを作っていた。そういえば二回目の弾指を放ったのは、男が手を払ったタイミングだった。

「大丈夫ですよ。ちょうどクリーニングに出す服がたまっていたところです」

 半ば冗談のつもりで言ったが、水守の申し訳なさに水を差すには至らずに口ごもらせてしまう。

「河童が飛ぶなんてことがあるんでしょうか」

「飛ぶやつもいますよ」

 水守はスマートフォンの画面を開いてから質問に答える。年齢が離れすぎていることもあってか、普段はあまり積極的には話しかけてこない。冬子のほうも仕事以外では口を利かないタイプの人間だと自覚しているし、互いに無言で地下の一室で時間が過ぎるのを待っているのが常であった。

「九州のほうだったかな。ヒョウズンボって名前で、川から山に登る時に『ヒョーヒョー』って声を上げて尾根伝いに飛んでいくっていう」

「名前のある個体なんですか?」

「いや。そういう種類の河童」

「種類……? 河童は河童でしょう。それではまるで、河童以外の種族のように聞こえますが……」

 車は市内を東西に貫く国道から垂直に伸びる、もとは有料道路だった県道を走っている。戦前には河童を湾港整備のために輸送した道路で、「河童街道」という名前が今でも使われている。

 水守はフロントガラスと携帯の画面を行き来していた視線を冬子に向け、少し時間を置いてからつぶやく。

「河童を河童だって決めつけるの、好きじゃないんすよね」

「たしかに、あの男性は問題でした。河童に暴力をふるう行為は明確な異類法違反です。残念ながらこの町でも、そうした価値観はまだ幅を利かせていますが」

 現在は活動停止に追い込まれているが、河童排斥を掲げる自警団を自称する組織も市内には複数存在する。通報者が自警団と関係を持っていないことは事前に調べてあったが、飛び抜けて危険な思想を持たない市民でもあんな真似をするという事実は、どれだけ目にしても気分が悪い。

「ああ。そっちは好きとか嫌いじゃなくて、見つけたら即ぶっ飛ばしますよ。素人が河童に手ぇ出すことの怖さを理解してもらわないと困るんで」

 きっぱりと言い放つ水守。たしかにあの場で水守の介入がなかったら、男は河童の爪で負傷していただろう。誰よりも河童に精通しているがゆえに、誰よりも河童の恐ろしさを知悉している。それをそのまま毅然とした行動に移せるのは尊敬に値するが、代わりに冬子のスーツは泥に塗れた。

「芥川の詫び証文は、知ってますよね」

 当然のことをきかれて、少し困惑しながらうなずく。


 どうかKappaと発音してください。


 その一文から始まる、芥川龍之介が昭和二年に記した。この文章が世に出たことで、日本人と河童の関係は大きく変化した。

 すでに高名な小説家であった芥川は、詫び証文の中で河童の存在を明らかにした。「あなたの知っている人の中にも河童はいるはずなのです」と記したあと、自らも河童であることを明かし、これまでひっそりと隠れて生きてきた河童たち、見えないところで虐げられてきた河童たちを解放したいと訴えた。そして河童が河童であることを隠してきたことを謝罪し、これから人間とともに歩んでいきたいと嘆願した。

 河童に関わることを生業とする者ならば必ず読む文章である。

 芥川がこの詫び証文を発表してから、河童たちは姿を隠すことなく人間社会に現れ始めた。そこに生まれた軋轢と差別、暴力の連鎖の凄惨さは筆舌に尽くしがたい。いま走っている河童街道で輸送された河童たちは強制的に湾港整備に従事させられ、戦争が始まると河童に爆弾を括りつけて敵艦に突撃させる兵器が真剣に検討された。詫び証文発表の同年に芥川が自殺した大きな理由が、ほんの数ヶ月のうちに起こった悲惨な現実にあったと分析されている。

 河童の権利の獲得と名誉の回復は、戦後制定された異類法の公布まで待たれることとなった。それに力添えをしたのが、江戸時代から河童懲罰士を生業としてきた降矢家だったという。

 人間とは種が異なるが、意思の疎通、言語を介した会話、同様の生活を行うことが可能な存在。異類法では、万が一別の妖怪が河童と同等の存在となって現れた場合に対応できるように異類の定義と適用範囲が定められているが、現在まで異類として認定されているのは河童に限られている。事実上の河童法ではあるが、公的な場や役所では「異類」呼びが続いている。

「芥川の詫び証文は偉大です。あれがなければ河童が異類として国に認められることもなかった。ただ、芥川は河童の権利のために、河童に対して大きな呪いをかけたんです」

 スマホを操作し、画像を開いて冬子のほうに傾ける。横目で画面を見た冬子は、それが鳥山石燕の『画図百鬼夜行』の「河童」だと理解する。絵の左上に「河童」と書かれ、右下のほうから植物に囲まれた河童が身を出している。河童の説明のためによく引用される画像だ。

 ただ、日頃見慣れているその画像に、見覚えのないものが入っていることに冬子は気づいた。

「河童という文字の横に、なにか書かれているような……」

 とはいえ運転に集中しなければならない。水守のスマホを覗き見ただけでもバレれば厳重注意を受けるだろう。違和感だけを伝えて、真っ直ぐ車線を注視する。

「『川太郎ともいふ』と書かれてます。現在では全部検閲されて、この文字が消された画像しか書籍にもインターネット上にも存在しないんすけど」

「検閲……? というか」

 川太郎――とはなんだ。

 水守の言った通りの文章が書かれているのなら、「河童は川太郎ともいう」と石燕が記していたことになる。

 冬子にはその意味がまったくわからなかった。

 河童は――河童だ。

 一律、全国、疑いようなく、河童とは河童である。

 自分の言語野が機能不全を起こしているような感覚だった。河童以外の河童の呼び方など、人間が河童に対して用いる悪意のこもったスラングしか冬子は知らない。川太郎と河童はまったくつながらない。

 正直に自分の困惑を伝えると、水守は泣き笑いのような顔になって、それが呪いです――と言った。

「もともと、河童は全部河童じゃなかったんです。川太郎、ガタロ、ミンツチ、メドチ、エンコウ、カブソ――ほかにもいくらでも呼び名がありました。江戸時代、全国各地から情報が江戸や大坂に集まるようになると、各地で用いられていた呼び名が、河童という呼称へと統合され始めます。河童とは別の属性を有していたものが、特徴や名前が似ているからという理由で河童に含まれていくことも多かったはずです。ただ河童という呼称は有効でも、土地土地で伝わっている水怪をその名前で呼ぶことは続いていました。昭和二年、芥川が詫び証文を発表するまでは」

 どうかKappaと発音してください――それは、すべての河童らしきものを、河童という枠に押し込める呪いであった。

「『河童』という漢字の読み方もそれまで一定ではなかったんです。芥川がKappaという呼称によって河童を河童として規定し、不定形だった河童の姿と名称を固定化したんです」

「なぜ、そんなことを……?」

「そうでもしなけりゃ、とてもじゃないけど河童と人間の共存は不可能だったからです。河童に統合される前の河童に類する妖怪たちは、それぞれが様々な特徴を持ってました。そんなもんを相手にいちいち対策や対処法を考えてたらあっという間に役所はパンクしますよ。今だってそうじゃないすか」

 異類法は河童以外の妖怪も対象にできるよう作られているが、現代において異類として認識されているのは河童だけだ。河童に包含されるが、異なる性質を持つ妖怪。それは河童だけを相手に仕事をしてきた冬子にとって、鬼や天狗などと大差がないくらいにはリアリティがない。

 河童が河童であるおかげで、人間は河童と共存できている。空飛ぶ河童の目撃情報が上がったことで、冬子と水守が引っ張り出された。現在の冬子と水守が基本的に閑職なのは、人間が河童との付き合い方を百年近くかけて構築してきたおかげである。

「たぶんですけど、芥川も苦渋の決断だったはずです」

 国家があらたな民となる異類を認める発端となった詫び証文は、芥川の一存で書かれたものではないだろう。だが関与した者の名前は杳としてわからないままである。

「さすが、降矢家ですね」

 冬子がぼそりとつぶやくと、水守は眉根を寄せてこちらを見てくる。

「別に……いいことなんかないですよ」

 謙遜か、驕りか。どちらにせよ冬子の心には空虚に響いただけだった。意識して口を噤んだ冬子と、スマートフォンとフロントガラスに視線を行き来させる水守。重苦しい沈黙が流れた。

 突然、水守が身を乗り出した。フロントガラスに額がつきそうになるまで顔を寄せて、空中を凝視し、即座にスマートフォンを向けて動画を撮り始める。

 信号に捕まり、冬子も水守のカメラが追っている対象を確認する。

 両手を翼のように広げて、河童が空を飛んでいた。

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