律1
「すみませーん」
その民宿の入り口に杏は立っていた。
「あのー、向井律の姉ですが」
と適当なことを言う。
律は海の近くにある民宿に居た。
律が逃げてはいけないと、急いでタクシーを飛ばしてきたのだが。
うう。
財布に痛い。
おまけに、スマホは電池切れだ。
すぐに向井にも連絡を入れたのだが、こちらも探し回っているようで、繋がらず、そのまま、連絡できなくなった。
大誤算だ。
本当は今の時期、この民宿はやっていないということだったが、律の様子がおかしいのと、以前、何度か家族で訪れたことがあるので、開けてくれたようだった。
「すみません。
ご迷惑おかけしまして」
と頭を下げる。
「じゃあ、鍵預けときますから、まあ、やさしくしてあげてください、お姉さん」
と言いかけ、人の良さそうなおじいさんは、一瞬、首を捻る。
「……向井さんちにお姉さん居ましたっけ?」
「い、居たんです。
もう外で暮らしているので」
「はあ、そうですか。
こんな大きな娘さんが。
若いご夫婦だったのにねえ」
居るわけないですよね、ははは、と思いながら、母屋に帰っていく老人を見送った。
階段を上がって二階の部屋に行く。
そこは海がよく見える部屋で、家族で来たときに泊まっていた部屋のようだった。
「律、開けるわよ」
と言いながら、襖を開けると、
「もう開けてるじゃない」
と言いながら、窓辺に腰掛けた律が言ってきた。
部屋に明かりはついてはいなかったが、月明かりを背にした律の姿を見ただけで、安心できた。
ほっと息をつき、側に行く。
すると、
「誰がお姉さんだよ。
言えば?
僕の新しいお母さんだって」
と毒を吐く。
えーと……。
「律、だんだん、お父さんに似てきてない?」
と言いながら、側に腰掛けた。
なんか刺さりそうだな、と古い木の窓枠を見ながら。
「それもいいかもね」
と律は笑う。
「そしたら、僕の方を好きになってくれるかもしれないから」
「私なんかに好きになられても、律も困るでしょ」
「なに言ってんだよ。
もう忘れたの?
僕は杏さんが好きなんだよ」
いや、そんなこと言われても、ピンと来ないんだが、と思っていた。
こんな可愛い高校生が私のことを好きだなんて。
課長が私に気がある風なことより信じられない。
「律……」
そのとき、杏の後ろの太い柱に手をついた律が身を乗り出し、口づけてきた。
「ちょっ」
ちょっと待ったっ!
と言い終わらないうちに、律ごとその場にひっくり返ってしまう。
畳に倒れた自分の上になった律が月の光を背に言う。
「杏さんはまだ、父さんのものにも、蜂谷さんのものにもなってないんだよね?
僕が最初に杏さんを手に入れたら。
杏さんは僕のことを一生覚えててくれる?」
なにか大事なものを投げ捨てたような、淡々とした口調だった。
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