理想の恋
昼休み、蘭たちと話していると、七見が来て、
「えい」
と後ろから、杏の頭のてっぺんに缶コーヒーをぶつけてくる。
「あれ、飲んじゃったから、お返し」
「あ、ありがとうございます」
なんとなく、七見と話の輪から外れた。
近くの壁に並んで寄りかかった七見は自分の分のコーヒーを飲みながら、
「どうすんの? 杏ちゃん」
と訊いてくる。
「多少、蜂谷が自業自得とはいえ、可哀想になってきてるから、僕」
やっぱり同性だから、自分が同じことやられたらと思うとねえ、と言った。
少し笑って杏は聞いていた。
その目を見た七見には、なにか自分が覚悟を決めていることは伝わったようだった。
七見はいつもの調子に戻り、少しおどけて言ってくる。
「まあ、どっちとくっついても、揉めそうだから、間をとって、此処は僕で」
とまるで、王子のように身を屈め、お辞儀をしてくる。
手を取り、ダンスでも始めるかのように。
「ありがとう、七見さん」
その思いやりに感謝し、微笑むと、
「いや、……本気なんだけど」
と言ってきた。
「いやさー、君。
もしかして、蜂谷も今までにも告白してんじゃないの?
ただ、君が気づかなかっただけなんじゃないの、ねえ?」
と言ってくる。
ロビーに居る向井がソファに座り、部長たちと普通に話しているのが見えた。
そんな今までは視界に入っても流してきた光景に目を留め、杏は少し笑った。
蜂谷はやはり、今日は戻ってこられないようで、忙しいだろうしと遠慮して、電話もかけなかった。
すると、思いもかけない人から電話がかかってきた。
華からだ。
職場からだと言う。
『今日は、旦那、遅くなるみたいだから、呑まない?』
と言われた。
「いいですねえ」
と笑い、焼き鳥屋で待ち合わせる。
華に乞われるまま、いろいろ昨日からのグダクダを話していると、突然、カウンターで華が叫んだ。
「それよ、それよ、それよっ」
と腰を少し浮かして。
「その情熱がなかったのよっ、私のときにはっ」
初恋の夢から覚めてこい。
俺はしつこく待ってるから、と言われた話をしたときのことだ。
「あの男、いつも淡々としてたのよっ。
俺と結婚して当然だ、みたいにっ」
と今更ながらになにか悔しくなったのか、地団駄を踏むように言い始める。
さすが課長の奥さん。
最初は楚々として上品そうな人だとしか思わなかったが、やはり面白い人だ。
「素直に従うからいけないんですよ」
こんな美女をいいようにして、こんな風に悔しがらせるとは、と何故か華サイドに立って、向井に腹を立ててしまう。
「そうねえ。
もう少し、じらしてやればよかった。
今度は気をつけるわ」
と華は言う。
「店長」
と華は突然騒ぎ出した華をカウンターの向こうで、笑って見ていた男に呼びかける。
「この人、あの人の新しい恋人なの」
「違いますよっ」
笑いながら店長は、よろしく、と頭を下げてくる。
「此処、よく夫婦で来てたのよ。
今は、今の旦那と来てるんだけど」
「……鉢合わせたらどうするんですか」
「だって、美味しいんだもの。
あの人も構わず、律連れてきてるみたいよ。
出会わないけど」
本当に二人とも神経太いな、と思う。
私と蜂谷に分けて欲しいな、その神経、と思っていた。
「もう、この人と結婚するので決まりだとお互い思っちゃってたからね。
お互い、美男美女で優秀で」
「自分で言いますか……」
華は煙と脂で色の変わった天井を見て言う。
「そうね。
きっと、ずっと、理想の恋に酔ってたのね、私たち」
どきりとしてしまう。
たぶん、自分にとってのそれが、蜂谷であり、失ってしまった高校時代の淡い初恋だったからだ。
「まあ、それも、あの人が自分の中で、完全に過去になったから、冷静に分析出来て、語れるんだけどね」
と華は言う。
「ちょっと前だったら、貴女みたいな若くて可愛い子とあの人が付き合ってるなんて知ったら、悔しくて、この泥棒猫って罵ってるところだったわ」
あー……ついに言われちゃったよー、と思いながら、杏はグラスの中の酒を見る。
今でもそう思ってないこともないと思うけどな、と思いながら、美しい華の横顔を眺める。
だが、酒を一気に呑み干す華はそんな気配を微塵も感じさせない。
プライドのせいもあるだろうが、それよりも、やさしい人だからかな、と思っていた。
冷たいグラスに手を当て、硬い木の椅子に背を預けた杏は、鳥を焼いている店長の後ろに、ずらっと並ぶ日本酒の瓶を見ながら言った。
「私、自分はずっと蜂谷だけを思ってるんだろうと思ってました。
まあ、ちょっと通勤電車で、可愛い律くんを愛でたりしながら」
もしもし? という顔を華はした。
そして、溜息をついて言う。
「私は、すうってレールに乗って、揉めることも、なんの疑問を抱くこともなく結婚しちゃったのよね」
「抱きたかったんですか?」
いいですね、贅沢です、と杏もまた、溜息をついた。
華はこちらに向き直り、ねえ、と言った。
「貴方に押し付けて安心しようって言うんじゃないけど。
よく考えて。
過去は過去。
今は今よ」
「うわー、華さんが言うと、重みがありますね」
と言って、
「うん、嫌味?」
と笑顔で脅される。
「美味しかったわ。
また一緒に呑みましょう?」
はい、と言うと、
「いつか律とも呑みたいわ」
と華は微笑む。
それももうそんなに先の話ではないと思うが――。
そこで華は笑い、
「そのとき、貴女は誰と居るのかしら」
と言ってくる。
「えっ」
頬杖をついてこちらを見た華は悪戯っぽく笑って言った。
「意外と律だったりして」
そう言い、うふふ、と笑う。
「うちの自慢の息子だから」
その親バカ具合が可愛いな、と思って、杏は眺めていた。
外に出ると、何故か、向井が立っていた。
「あのー、なんで居るんですか?」
ストーカーですか? と華の前で言ってしまう。
どっちのだろうな、と思いながら。
「莫迦か、通りかかったんだ」
とこちらに向かい、吐き捨てるよう言う。
「蜂谷のところに行くんじゃなかったのか。
なんで、華と呑んでる?」
「蜂谷が帰ってくるのを待つことにしたんです」
二人のやりとりを見ていた華が言った。
「あら、杏ちゃん。
意外と、この人の前だと、手厳しいしゃべり方するのね」
最近流行りのツンデレ? と訊いてくる。
「いや、こいつにデレはないぞ」
とこちらを指差し、向井は言った。
「ツンポケだ」
なんだ、ツンポケって……。
「つれないか、ポケッとして逃げそびれてるかのどっちかだ」
「なんだか私が、ものすごーく、間抜けな感じに聞こえるんですが」
「まあ、なんでもいいから、早く蜂谷くんに告白した方がいいわよ、杏ちゃん。
うっかり、蜂谷くんが死んじゃったりしたら、どうすんの」
「は?」
「早く告白してケリをつけて。
その前に、蜂谷くんに死なれたりしたら、一生、心に残って、この人にも傷になるじゃない」
「華……」
ありがとう、と向井が華の手を取る。
うーむ。
一見、いいシーンだが、言いたいことが二つある。
確かにうっかりな蜂谷だが、うっかり死なすな。
そして、どうして、フラれること前提で話が進んでるんだ?
そのとき、華が向井から手を離して、あら、と笑った。
仕事を終えたご主人が車で迎えに来たようだ。
元夫の手を取っていても、既にまったくやましさもないようで、笑っている。
もうこの人の中では、本当に課長とのことは終わってるんだな、と実感した。
少しほっとしてみたり。
いやいや、関係ない、と思ってみたり。
そのまま、夫の車へと向かう、華の颯爽とした後ろ姿を見ながら、
でも、この人、離婚してないから、結婚できないんだよなー。
それを思ったら、早く離婚してあげてほしいけど、とチラと向井を見上げた。
でも、律のためにというのもわかる気がする。
紙切れ一枚でも、親同士につながっていて欲しいと願う子どもの気持ちも。
ドアを開け、華は振り返る。
「じゃあね、楽しかったわ。
今度はみんなで呑みましょう」
向井は、わかったわかった、と少しめんどくさそうに手を挙げていた。
華の今のご主人がこちらに向かい、車の中から頭を下げてきたので、二人で下げ返す。
「……なかなか感じのいい人だな」
「この間、ヤクザみたいなチャラい男だと言ってましたよ」
適当だなあ、と思っていると、
「今はそう見えたんだ」
帰ろう、と言って、もうこっちがついてくるものだと思っているかのように、歩き出す。
……反対向きに歩いてやろうか、と思いながらも、少し遅れてついていった。
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