猶予をやろう
杏は鞄を投げて、ベッドに倒れ込む。
ちょっと冷静に整理してみよう、と思った。
そもそもなにが始まりだったんだっけ?
ああ、そうだ。
課長が寿司が食べたかったらしく、引きずって行かれて。
蜂谷から電話がかかってきて、課長と寿司を食べていると言ったら、怒って切ったんだった。
……なんで怒ったんだろうな?
嫉妬?
いや、寿司が食べたかっただけかもな……。
課長が蜂谷のところに行けと言って、車を出してくれて。
だけど、蜂谷と電話で話しているうちに、また、揉めて。
課長が親切でホテルに連れていってくれて、親切でキスしてくれた。
いや、おかしいだろう、この辺から。
……どの辺から?
ホテルに行ったところからおかしいのか。
いや、課長はさっさと出ようとしてたしな。
律のことで感謝してくれているのは確かなようだし。
あの辺までは、本当に親切だったのかもしれない、とか、今更、考えてもあまり甲斐のないことをいろいろと考えていると、廊下から抑えた声が聞こえてきた。
「だから、知らねえよ」
浅人の声だ。
なにやら困っているようだった。
「お前から杏に聞けよ。
確かに帰ってきたとき、様子がおかしかったけど。
お前が杏と話してから、一時間も経ってねえぞ。
別に大丈夫じゃねえのか。
……いや、あの課長が、杏なんか相手にするわけねえじゃねえか。
杏にはお前で似合いだよ。
いや、お前を莫迦にして言ってんじゃねえよ。
めんどくせーなー。
杏に訊けよっ」
と痺れを切らしたらしい浅人がドアをいきなり開けてくる。
クッションを抱いて起き上がった杏は、勝手に開けるな、と睨んだが、
「ほらよ」
と浅人はスマホを渡してくる。
ちらとスマホを見ていると、早く、と言うように、スマホを振られる。
まあ、これ以上、浅人に迷惑かけてもな、と思い、
「もしもし」
とそれに出た。
『結局、課長に送ってもらったのか?』
と蜂谷が訊いてくる。
てっきりいつものように怒鳴り散らしてくると思ったのに、少し元気がないように聞こえた。
「……課長が自分のせいで揉めたんだから、蜂谷のところまで送ってやるって言ってくれて」
と言うと、
『そうなのか』
と少し申し訳なさそうな声で言ってきた。
『……で、なんで、家に帰ってるんだ?』
「いや、もういいや、と思って。
おやすみ、蜂谷。
明日、課長にお礼言っといて。
なんかあんたと上手く行くようにいろいろアドバイスしてくれたから」
『そうなのか。
杏……』
なにか蜂谷が言いかけたが、通話を打ち切り、電源まで切ってしまう。
「あっ、こらっ。
なにをするっ」
と浅人が慌てる。
「いや、蜂谷がかけて来ないように」
「それは俺のスマホだっ」
ぽい、とベッドの上に放って言った。
「そうよ。
あんたのスマホよ。
なんで私の方にかけて来ないのよ」
それは確かに、と浅人も言う。
「あんたのが切れてたら、私の方にかけてくるかしら?」
と呟くと、
「わかったよ。
二時間くらい切っててやるよ」
と溜息まじりに親切な弟が言ってくるので、なんだか申し訳なくなってきて、
「三十分でいいよ」
と言うと、
「いや、一時間くらいは猶予やれよ」
と蜂谷サイドで語ってくる。
「ありがとう。
でも、私、蜂谷はかけて来ないと思うわ」
そう断言する。
課長が言うように、此処でかけてくるような蜂谷なら、もっと早くに話が進んでたような気がするから。
蜂谷の行動、わかりにくいんだよな~。
私もなんだろうけど。
あの車、格好いいねって言ったら、そりゃ、お前はそう思うだろうと機嫌悪く言っていた。
私がいいって言ったから買ったって、ほんとだろうか。
……考えてみれば、私も蜂谷になにも言ってないな。
蜂谷にばかり求めるのも悪いかも。
でも、なにかこう、やっぱり、男の人の方から言ってきて欲しいというか。
「ねえ、浅人。
あんた、好きな子に好きとか言える?」
いきなり、なに訊いてきた? という顔で立ち去りかねていた浅人が見る。
「……居ねえよ、好きな子なんて」
「へえ、意外」
「ちょっといいなと思う子はいろいろ居るけど。
この間、そのうちの一人は、律をいいと思ったみたいだし」
姉ちゃんと蜂谷のせいだぞ、と上目遣いに言ってくる。
そ、それは申し訳ない、と苦笑いした。
「そうだな。
基本、お前のせいだ、全部。
恋愛って、あそこまで長く一人の人間にこだわり続けなきゃいけなくて。
しかも、なかなか上手くいかないと子供の俺に見せつけてくれたからな」
申し訳ない、と杏は苦笑いする。
「でも……いろいろありがとう、浅人」
と言うと、なんだよ、という顔で、浅人は赤くなる。
「いいよ。
まあ、あれだよ。
俺が誰かとつきあいたいなと思うようになるくらい、ラブラブなところもたまには見せてくれよ。
スマホ、一時間は切っといてやるから。
おやすみ」
浅人はスマホを軽く振って出て行く。
扉が閉まった。
杏はその場に仰向けに倒れ込む。
蜂谷かけて来るかな。
来ないだろうな。
あー、お風呂入んなきゃ、と思いながらも、目を閉じた。
……風呂か。
入ってみたかったな、あのジャグジー。
でも、あそこ、ひとりで行くわけにも行かないしな。
いや、いいのか。
旅行のとき、宿が見つからなくて、ラブホテルに泊まったって人も居るしな。
しかし、ひとりで徒歩かタクシーで、ホテルに乗りつけるのも間抜けだ。
自分で想像して、ひと笑いする。
よしっ、風呂に入ろう。
とっておきのバスソルトでも入れて。
目を閉じて、ゴージャスな風呂の気分だけでも味わおう。
ふと思いついて、リビングの観葉植物をせっせと風呂場に運んでいたら、上から下りてきた浅人に、
「どうした!?」
と言われた。
……いや、気分だけでも、あのジャクジーみたいにしたかったんだけど、とは言えなかったので、
「ちょっと」
と笑って誤魔化そうとする。
「……そうか」
とだけ言って、なにも罵らずに浅人が行ってしまったことが余計辛い。
蜂谷が電話して来ないから、思いつめて奇っ怪な行動に、と思われたようだ。
おのれ、蜂谷め、とよくわからない八つ当たりをしながら、結局、それを風呂場に運んで。
浴室には入れずに、脱衣所に置いて、風呂から眺めた。
我ながら、なにをしたかったのかよくわからない。
目を閉じて、薔薇入りのバスソルトの香りを嗅ぐ。
観葉植物の横にスマホを置いていたが、結局、蜂谷から電話はなかった。
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