第三章 自転車と鬼と土俵際
3-1
◯
「さて、こいつは結局どうしようか」
ビクビクと痙攣し、泡を吹く怪魚——影鰐を前に、ぼくは腕を組んだ。
「刺身にしちまおうぜ」
破れたスカートを履いたままの助悪郎が言う。
「お刺身は寄生虫とかが怖くないですか?」
未だ気絶したままの槇島氏を介抱しながら、小鳥遊氏が疑問符を浮かべる。ツッコミどころが大いに間違っているような気もするが、少なくとも、この不気味極まる不細工な魚を、生で喰らおうという勇気が出ないのは確かだ。
「……揚げるか」
ぼくは言った。この手の臭そうな川魚は、揚げるに限るのである。唐揚げにでもしてしまえば、匂いも気にならないだろう。
とりあえず、これを捌かねばなるまい。
ぼくは再び尻尾を掴み、気絶した影鰐を引きずろうとするが——
その時。
「行こうか、行こうか」
いずこより——くぐもった声が響く。
それが聞こえるや否や、それまで気絶していた影鰐が唐突に目を見開いた。そして、止める暇もなく——
「——来いやっ!」
と叫ぶ。
瞬間——
ふ、と。
月が翳り——闇が落ちた。
「——やあ、やあ、やあ」
暗く、光の消えた夜の中。ゆらりと——どこからか。
一人の女が、現れた。
「こんばんは、みなさん」
からん、と。高い音が鳴る。見れば、女は、下駄を履いていた。
「その魚——置いていってもらえませんか?」
言葉と共に、雲が晴れ——月の光が、女を照らす。
ぞっとするほど、美しい女だった。
月明かりを浴びて輝く、射干玉の黒髪。紅の瞳はまんまるく、大粒のルビーのよう。スラリと通る鼻筋に、艶やかな唇。女性らしい起伏に富んだ理想的な体を、椿柄の着物が包み、頭上には、まるで神職が冠るような、立烏帽子を飾る。
けれど最も特徴的なのは、その美貌にも、時代錯誤の服装にもあらず。
その女の——額には。
二本の角が、生え揃っていた。
「——鬼」
「いかにも」
ぼくが呟けば、肯首される。
「私は、鬼。鬼の——
どうぞよしなに、なんて微笑まれて——背筋が泡立つ。
ぼくは一歩、後ろに下がった。
額から、粘ついた汗が垂れ落ちる。
鬼は——まずい。
あの忌々しい父親に言い含められた。『鬼とだけは、事を構えてはいけない』と。その理由が——よくわかる。
凛と、澄んだ殺気が波のように襲いくる。おそらくは、本気のそれではあるまい。あくまでも、自然体。自然体でいながら、この世の全てに殺意を振り撒く、破壊の化身にして殺戮者。それこそが、妖怪の頂点——鬼。
妖怪の世界においては、それは豆を投げれば追い払えるようなチンケな存在ではない。
怪力無双、妖力無限、不死不滅——
古き時代にはその荒ぶる力があまり、神にさえ挑んだと語られる、最強の妖怪。
それが今——目の前に、いる。
立ち上る、正しく鬼気と呼ぶべき大いなる気配。それに——圧倒される。
どう足掻いても、勝てない。
それを脳でなく心でなく魂で理解させられる。
眼前の、この小さな女とは——
生物として、存在として、概念として——あまりにも、格が違うのだ、と。
象と蟻でさえもない。
竜とプランクトンが相対するような、絶対的な断絶——
背筋を伝う冷えた汗が、気持ち悪かった。
遅い来る、本物の妖怪の覇気に震え上がり、すくみ上がった背後の二人を、どうやって逃すべきか。ぼくは考え——
ふ、と。
「——心配しなくても、とって喰いやしませんよ」
なんて、耳元で囁かれる。
ほとんど抱きしめるような距離で——石海椿はぼくの耳に唇を添え、囁いていた。
「な——」
見えなかった。全く。何一つとして——
その動き、動作の起こりからその終わりまで、全てがあまりにも——早すぎる。
戦慄するぼくをおいて、彼女は言葉を続ける。
「私の目的は、この阿呆魚だけですから」
するり、と。硬直したぼくの手から、影鰐が奪い取られる。「ご協力、どうも」なんてふざけた言葉を残して。
「お、お前——遅いんだよっ! 俺が、俺がどんな目に遭ったと思ってる——!」
びとびちと、意気を取り戻した影鰐が、石海椿を責め立てる。
「ああ、うるさいですねぇ」
「この、クソ、俺を、騙しやがったな! 河童の倅は、へたれだと! どこがだ、この、節穴め! ありゃあ、いかれじゃないか!」
「へたれで合っていますよ。ほら、今だって現に、びびって動けもしてないじゃないですか」
言い当てられて、ぼくは思わず、何かを言おうとするが、喉が枯れて、声が出なかった。
「そもそも——自分は人間だ、なんて言い張って憚らないような出来損ない、本当は、私が出てくるまでもなく始末をつけて然るべきなんですよ」
それをまあ、純血の妖怪が、情けない。
彼女は言って、影鰐の体を持ち上げる。
「おい、待て、お前、何を——」
「罰を与えます」
ぐちゃり、と。
音が立った。
それは——彼女の口が、影鰐の頭を齧りとった音だった。
「うーん……不味い」
血飛沫が飛び散るのを気にもせず、ぐっちゃぐっちゃと咀嚼を繰り返し——ごくり、と。
鬼は、影鰐だったものを、飲み下した。
残った体が、まるで亡くした頭を悼むように血を流し、びくりびくりと、痙攣する。
「お前——仲間を——」
「仲間じゃないですよ、こんなの」
彼女は言って、残りの体にも、牙を突き立てる。
「ただ、こんなでも、我々の走狗ではありましたからね。情報を漏らされたり、寝返られたりすると、面倒なんですよ」
だから、ね。
「始末はつけなくちゃ」
ぐちゃり、ぐちゃり。
ぐちゃ、ぐちゃ、ぐちゃ、ぐちゃ、ぐちゃぐちゃぐちゃぐちゃぐちゃぐちゃぐちゃ——
「——ごちそうさまでした」
べろり、と。
赤い、赤い赤い舌で、口の周りを拭い去って。
鬼は、影鰐の体を——余すことなく、食べきった。
「君」
彼女は。
そのままぼくを、指差した。
「……君、だなんて、呼ばれる筋合いはないな。ぼくにはきちんと、名前があるんだよ——」
「知ってますよ。伏見桜伊江郎くん」
虚勢を踏み躙られる。
名前を——知られている? よりにもよって、鬼に?
「だから、そう怯えなくても、とって喰いはしませんって」
あなたはね、と言って、彼女は小さくくすりと笑った。
「あなたには、警告をしておきたいんですよ」
「警告?」
「ええ」
言いながら、彼女はす、と視線を逸らす。その先には、揺れる賀茂川の水面があった。
「あなたはそのまま——人間でいてください」
何が起きても、ね。
彼女は、ぼくの耳に深く、深く囁く。
「そうすれば、あなたのことは見逃してあげますよ」
なんて言って彼女は服の袖から取り出した扇子を、口元に当てた。
「せいぜい、へたれのままいてくださいな」
それじゃあ、また。
なんて一方的に言い終えて——ふ、と。
月が翳るのに合わせ——石海椿の姿は、かき消えた。
後には何も残らず、ただ、賀茂川の流れる水音だけが、響いていた。
「……なんだったんだ、今のは——」
助悪郎がつぶやく。
それは、ぼくには答えられない疑問であって、だからこそ黙り込む以外に、選択肢は存在しなかった。
「……帰ろう」
やがて、ぼくは小さく呟く。
いずれにせよ、目的は達した。
人喰いの妖怪は死に、攫われた人物は取り返した。
ならば——依頼は完了だ。
そうして、ぼくらはとぼとぼと、月の曇った夜道を、時折背後を気にしながら、帰り行った。
父が襲われ、入院したという報せを聞いたのは、その翌日のことだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます