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 ◯


 重箱の二段目は、普通の弁当だった。唐揚げ、だし巻き、肉団子。一段目が緑一色だった分、黄褐色に偏ってはいたが、どれもこれもぼくの好物ばかりだった。


「この肉団子、やたらと美味いな」


 人を堕落に誘う魔の植物こときゅうりの浅漬けには及ぶまいが。しかし美味い。また一段と、料理の腕を上げたようだ。どうしてその才能をきゅうりにまで発揮してしまったのだろう。それだけがただ一点、玉に瑕だった。


「——えへへ。美味しい? そっか」


 彼女は嬉しそうに笑う。そんな表情をされると、ぼくの方まで嬉しくさせられそうで、何やら危うい。

 今日は空がよく晴れている。雲ひとつない晴天だ。


「朝の話だが——」


 ぼくは切り出した。


「その連続殺人事件って、どこらへんで起こってるんだ?」

「ええー、お昼時にする話?」

「いやなんだか、気になってな」


 ほら——


「今も少し遠くで、サイレンの音色がしているだろう」

「ああ、本当だね」


 パトランプを想起させる、ウーウーとやかましい音色。まさかこれが殺人事件の、というわけではあるまいが、しかしそれを連想させるには十分すぎる代物だった。


「物騒な話だからな。近付きたくはない」


 行動範囲内で起こっているなら、それを避ける方法を考えなければ。


 何を臆病な、と笑うことなかれ。臆病で命が救われるならそれで良かろう。蛮勇の代償に命が失われるなど不当も不当な交換だ。君子危に近寄らず。用心するに越したことはない。


「ああ〜、それでいうと、ちょっと難しいかもしれないね」

「難しい?」

「だってその殺人事件、この学校の近くで起こってるんだもん」


 冗談だろ。

 ぼくは思わず言いたくなった。


「なんでそんなことになってるんだ。というか、なんでそんな状況で平然と学校が開いているんだ」


 普通そういうのって、一時的に閉校になったりするものではないのか。生徒の安全をなんだと思っている。


「大袈裟だよー。近くって言っても、通学路とかでってわけじゃないし、生徒が被害を受けたわけでもないし」

「今のところは、だろう」


 ぼくは怒り心頭に達した。生徒の安全を蔑ろにし、学校の都合ばかりを優先させる。そんな理不尽があってたまるか。やはり水泳部なんていう非人道的部活を有している学校はこれだからいかんのである。けしからん。今からでも生徒たちは校長に直談判をするべきであろう。殺人事件が収まるまで、いやさ、殺人事件が収まり、そしてその傷跡が十分に癒えるまで、具体的にはそう、一ヶ月か二ヶ月くらい——


「それはもう君が休みたいだけだよね?」

「何を馬鹿な」


 ぼくはその指摘を鼻で笑う。そう、断じて、間近に控える中間試験が何かの間違いで無かったことになってくれねぇかな、なんて卑劣なことを考えてはいない。いないのである。


「どうだかねー」


 彼女は言いつつ、小憎らしくも鼻で笑って見せる。自分だって、ぼくと大して差のない成績のくせに、偉そばりやがって。


「なんにせよ、人殺しなんぞなんの得にもならんことを、よくもまあ繰り返してやるものだ」


 ぼくは言った。人を殺す人間の気など、知れたものではない。


「得があったら、殺してもいいの?」

「そういうつもりで言ったわけじゃあないが、しかし少なくともぼくにとっては、人殺しは得でもなんでもないということだ」


 人殺しを批判するのに、社会がどうだ倫理がどうだと正義を振りかざすのは簡単だが、それが究極のところ実態のある意見として成り立っているかというと、微妙なところであるとぼくは思う。


 人はどこまで行っても主観で考える生き物で、真の意味での客観を得ることなど不可能だ。


 だからこそ、社会や倫理と言った自分の外側の規範に価値観の主軸を置いてしまうことは、少々危険なことのようにも思う。


 だからこそ、ぼくが人殺しに対して言えることは一つだけだ。


「ぼくには、人殺しの気持ちなんて、わからない」


 ぼくはそれだけを言って、弁当を食べた。


 ◯


「おかえり」


 帰宅すると、父がすでに家の中にいた。学生よりもお早い帰宅とは、いいゴミ分である。


「字が間違っているよ」


 合っている。

 出世コースを外れた男とは哀れなものだ。歯車としての役割を果たすことすらできず、こうして社会から爪弾きものにされてしまうのだから。


 ぼくはリビングのソファに腰掛けた父親を無視して通り過ぎ、キッチンの方へ向かった。喉が渇いていたのだ。


「あ、お父さんにもビールとって」


 冷蔵庫から出した炭酸水のペットボトルを中年男性の額目掛けて投げつけ、ぼくは麦茶の瓶を取り出した。コップに注いで飲む。よく冷えていて美味い。


「なんだよう、お酒くらい飲んだっていいじゃない、大黒柱なんだもの……」


 額を赤くし、めそめそと見窄らしく泣き言をほざきながら、炭酸水の蓋を開ける。当然のように中身が吹き出て、細っちょろい管柱の顔を濡らす。いい気味だった。


 ぼくはコップを洗ってキッチンを出る。自室に戻るつもりだったのだが——


「あ、ちょっと伊江郎」


 なんて、濡れそぼった中年男性に呼び止められる。


「死ね」


 ぼくは言って、立ち去ろうとしたが、奴は「そう尖らずにさあ」なんて言って引き留める。……言っておくが、炭酸水の文句なら受け付けないぞ。投げつけられたものを不用心に開けた方が悪いのである。


「いやそれも文句言いたいけどね、そうじゃなくて——」


 最近。


「お前の学校の近くで、殺人事件が起きているだろう」

「らしいな」


 その話は今日聞いたばかりだが、それがどうかしたのだろうか。

 言っておくが、ぼくがやっているわけではないぞ。


「いや違う違う。そんなこと思ってないから。そうじゃなくて、気を付けなさいね、ってだけ。しばらくはなるべく、早く帰るように」

「どうした突然。親のようなことを言い腐って」

「そりゃ親だもん」


 彼は言って、小さくはははと笑う。


「どうもここ最近、色々ときな臭いからね……」


 彼は眼鏡をかけ直して、そんなことを言った。


「きな臭い?」


 ぼくは気になって、ソファに腰掛ける。


「うーん。いや、大した話じゃない。ただ、私もなんと言うか……環境が変わりそうでね」


 川から追い出されでもしたのだろうか。


「まあ、それに近いね」


 冗談のつもりだったのだが神妙に頷かれる。

 何があったと言うのだろう? ぼくは問うが、彼はふ、と小さく笑ってぼくの頭を撫でた。何をする。河童が感染るだろうが。


「ま、この話はお前にはまだ早い。河童としての話だからな」

「聞いて損をした」


 ぼくは立ち上がる。一生縁のない話ではないか。


「そんなことを言うなよ。お前は我々河童族の希望を背負った次代のホープなんだよ」

「生臭い希望を勝手に背負わせてくれるな。河童族など、お前の代で末代だ」


 ぼくは河童になどならないのだから。ぼくは言って、今度こそ立ち去ろうとするが。


「ああ、それとさ」


 なんて、呼び止められる。


「伊江郎、今日何食べた?」

「ボケたか? 晩御飯はまだだぞ」

「違うったら。お昼の話」


 ぼくは首を傾げて返す。


「……学食のパンだが?」


 嘘を言った。なんとなく、気恥ずかしかったのである。

 父はただ、「そっかー」とだけ返して、それっきり、何も言わなかった。

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