第一の手記

苦しみだらけの人生でした。


自分は生まれてこの方、一度も本当の事を言った事が無いのです。


北陸地方の、雨ばかり降る、辛気臭くてチンケな田舎町に生を受けた自分は、子供ながらに、なぜこの町はこんなにも暗いのだろうと、いつも疑問に思っていました。


テレビで観るよその地域、また、海外の街はこんなにも煌びやかで、人も町も活気があって明るいのに、何故、自分の住むこの町だけが、そんな煌びやかな土地とは隔絶されているかの如く、人も町も暗くどんよりとしているのか。


町が暗い原因は、単に日照時間が短い地域だからという、非常に下らないものでした。


暗く雨ばかり降れば、その独特な気候条件と同化した人々の表情もまた暗くなるという、逃れようのない宿命にある、悲しき土地柄なのです。


遠い異国の地、グリーンランドは、世界一自殺率が高いと聞いたことがあります。

その主たる原因として推察されているのが、零下で日光不足によるものではないかと言う記事を何処かで目にした時、妙に腑に落ちました。


グリーンランドと自分の地元では比較対象にすらなりませんが、山に囲まれた盆地であったあの町は、閉塞的で、思い出しただけで息が詰まり、反吐が出る様な、陰鬱な町でした。


そんな町で、否、そんな町だったからこそ、自分はいつも空想に耽っていました。


空高く飛ぶ飛行機をぼんやり眺めながら、日本海に浮かぶ船を見ながら、ああ、あの鉄の塊に乗り込めば、違う街に行けるかもしれない。


違う街に行けば、今とは違う自分になれて、心から分かり合える友達もできて、毎日楽しいんだろうなあと、妄想を膨らませていました。


しかし幼い時分の自分は無知ゆえ、日本海沖の船になど乗れば北朝鮮の人に拉致されて、強制収容所送りになってしまうなどと、笑えもしない展開が待ち受けている危険性があることなど知りませんでました。


また、日本海側には、そういった危険性が孕んでいる事を後に知った自分は、知らない街に対する興が醒めました。

今にして思えば、決して叶うことのない夢を見ていたのです。


自営業をしていた両親が毎日馬車馬の如く働いてくれていたおかげで、自分は一切ひもじい思いをした経験はありませんでしたが、忙しかった故に、自分は幼少の頃に家族で過ごした記憶も、他者と触れ合った経験も皆無に等しかったのです。


いつも1人で、小さな部屋の片隅で、身動きの取れない状態にされ、過保護に甘やかされて育ちました。


当時の自分の顔には、目が二つ付いているだけでした。


耳も、鼻も、口も、お飾り同然で、ほとんど機能しておらず、かろうじて機能していた両目すら、節穴同然でした。


それ故、自分は普通の子供に比べて、何の知識も無く、なんの情報も持たぬまま幼稚園に入園し、集団行動を送る事を余儀なくされたのでした。


集団の中に身を置き、またその集団に迎合し、保母の指示に従うことの意味を理解出来ず、幼稚園に通うことが怖くて仕方がなく、いつもジャングルジムの上で、1人で雲を見ている様な異質な子供でした。


自分は言葉もうまく喋れず、簡単な読み書きもできず、時計の見方も分からず、時間の概念すら無かったのです。


一日、一週間、一ヶ月、一年…月日の感覚どころか曜日の感覚すらなく、周りの子供達が普通に出来ていることなど何一つ出来ない、ダメな子供だったのです。


手を差し伸べてくれる保母や同級生の手を握り返すのを惨めに感じては突っぱね、他人の優しさを攻撃と捉えては避け、他者との関わりなど理解の外でした。


何もかもが摩訶不思議。


集団行動が嫌だと反発していたのではありません。ただひたすらに奇妙で恐ろしく、意味が解らなかったのです。


保母が右向けと言えば皆んなが右を向くというのに、自分は、保母から発せられる簡単な指示も理解ができず、いつも明後日の方向を向いていました。

協調性がない子供だと思われたでしょうが、協調性云々の問題ではなく、とにかく全てが理解不能だったのです。




その時間になると、教室の外に沢山の背の高い女の人が立っていました。自分の同級生達は大騒ぎをしながら、それぞれの母親の元へと一心不乱に、野獣の如く走り出していました。


自分の目には、この光景がこの上なく奇妙に映ったのです。


なぜ彼らは、あんなにも数ある背の高い女の人の群れの中に、何の迷いも躊躇もなく走っていけるのでしょうか。


一体なぜ、自分の母親がどれかを瞬時に見抜く事が出来るのか、自分には理解の外だったからです。


土台、人の顔を覚えるのが病的に苦手だった自分は、入園から卒園するまでの3年間で、同じクラスの同級生全員の顔を覚えることなど到底不可能でした。


当時の自分は、彼らを、胸につけていた名札、或いは声色で、ああ、この子は何某君で、この子は何々ちゃんねと、辛うじて判断していました。


しかし、如何に人間の顔を覚えることを苦手とする自分でも、毎日生活を共にしていた家族の顔は、流石に覚えていました。


しかしどうでしょう、お迎えの時間となると、外には自分の母親を含め、我が子を迎えに来た背の高い女の人が、20人も30人もいるではありませんか。


この中から母親を見つけ出すのは、当時の自分にとって至難の業でした。


あんなに沢山いる女の人の群れ中から、自分の同級生達は、自身の母親がどれかを一発で判断し、猪突猛進し飛びついていました。


自分は幼心で、それを容易にこなせる同級生たちが普通で、おかしいのは自分なんだと、何となく理解していました。


自分はなんてダメな子なんだと自責の念に駆られ、激しい劣等感に苛まれました。


たまたま近くを通っただけの同級生の母親を、自分の母親だと勘違いし、手を握ってしまったことすらあるくらいです。


結局いつも、オドオドと挙動不審になりながら、ノロノロと外を動きまわる自分を見かねた母が、自ら私を迎えにいくという始末でありました。



他の子達は総じて、母親が迎えに来ると嬉しそうにはしゃいでいるのに、いつも引き攣った顔でウロチョロしていた自分の姿は、母の目にはどう映っていたのでしょうか。


いたく悲しませ、また、呆れていたに違いありません。


自分は罪悪感に襲われ、明日からはちゃんとしよう!と、何度も一念発起しようと試みましたが、ダメでした。

自分は他のことは違う、ダメな子供なんだと自覚するのにそう時間はかからず、また、そう自覚せざるをえなかったのです。


ある日、クラスのみんなで折り紙で鶴を作る授業なるものをした時も、手先が不器用で、且つ多少頭が弱そうな子ですら、保母の説明の意味をうっすら理解し、形は歪であれど、それっぽいものを作る事が出来ていました。


しかし自分はそれすら出来ず、手元の紙がなんなのか、紙を折るとはどういう意味なのか分からず、紙をぐしゃぐしゃにして、遂に癇癪を起こしてしまいました。


発狂しながら積み木を投げ、同級生の子が持参した、カブトムシだかクワガタが入った虫籠をひっくり返し、傍若無人の限りを尽くしたのです。


どうせ誰も覚えてなどいないでしょうが、20年以上経った今でも、この時のことを思い出すと死にそうになります。


大人からの指示の意味を理解できないのは、家でも同じでした。


箸の持ち方、お茶碗は利き腕じゃない方の手で持つ、ドアは開けたら閉める…そんな簡単なことですら、何度注意(百回、二百回じゃきかない程に)されても、自分は一向に改善出来ませんでした。


偶には気を付けようと意識する時もありましたが、いざ実践してみようとすると不思議なことに、すぐに忘れてしまうのです。

不出来な自分はよく父に殴られては、例の様に癇癪を起こし、度々手を焼かせておりました。


こんなどうしようもない自分でしたが、小学校一年生の頃に転機が訪れたのです。

この頃の自分は、自身のだらしなさや、他者と比較して如何に自分が劣っているかなど全く気にも留めず、何なら自覚すらなく、ボケーッとしていました。


小学校に入学して初めての授業参観で、確か自分は、一番後ろの席で、真後ろに両親がいたことを記憶しております。


その為、背後からはただならぬ重圧を感じ、まるで看守に見張られている囚人の様な気分でした。

ああ、早く授業終わらないかなあと、チャイムがなるのを心待ちにしていました(時計の見方を知らなかった自分は、授業中は常に終了のチャイムが鳴るのを心待ちにしていました)。


授業中の教師というのは、さまざまな指示を出すものですが、自分はそれら全てが上の空でした。

教科書の何ページを開け。

配布したプリントを机の中にしまえ。

他の子達は難なく出来ているのに、自分はそんなことすら出来なかったのです。

見かねた父が、授業中にも関わらず、背後から自分に「どうしてそんなことも出来ないんだ」と、ひどく落胆した様子で耳打ちしてきました。


いつも授業中は呆けた顔で空想ばかりしていた自分ですら、この時ばかりは全身の血の気が引き、とても生きた心地がしませんでした。


肉親に恥をかかせてしまった。顔に泥を塗ってしまった。

それらが、とても罪深い事なのだと、ようやく知ったのです。


自分が同級生に比べて遥かに劣っていることは、自分だけの問題ではなく、周りにも迷惑をかけてしまう事など、その時まで考えたことすらありませんでした。


それはまた、自分の様な劣等生を抱えてしまった不運な担任教師も然り。


自分はこの日を境に、世間体というものを、うっすらと気にする様になりました。


授業中も、問題など解らずとも、とりあえず教師の話しを聞き、簡単な指示にも大袈裟に従い、取り敢えず、理解したフリ、出来ている風を装うことから始めました。


積極的に、とまでは不可能でしたが、他者との関わりを持つべく、クラスの子達とも少しずつ会話をし、偶には休み時間に共に遊んだり、通学路が同じ子とは一緒に登下校なんかもしてみせました。


普通の子は、こんなこと幼稚園に入る段階、もしくは入園前から通ってきた道だというのに、それを、今更になって…全く、気づくのが遅すぎやしないかと、自分がつくづく嫌になりました。

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