1-1

【0】


 吹き荒ぶ青い風が少女、粳部音夏うるべおとかを横切る。陽射しの中には海から運ばれた塩の匂いが満ちて、彼女の影はただ揺れている。寄せては返す波打ち際を、白と青の境界線を粳部うるべは綱渡りのように歩いていく。

 彼女の視界でなびく陽炎かげろう、それはいつかの夢に似ている。ふと姉の呼ぶ声で彼女の空想から現実に意識が戻り、ビーチへ振り向く。

「おーい音夏おとかー」

「……どうしたのお姉ちゃん?」

 海になる夢、見た少女。彼女の姉が酷く焦った顔をする。

音夏おとか!後ろだ逃げろ!」

「え?」

 何処までも、せた苔色に染まった果てない水底をただ漂う。少女は海になっていた。空っぽな世界の中心、空の涙が集まる場所で。寂しい寂しい夢を見た。

 振り向いた場所に居た真っ黒な人影は人間ではない。白と黒の吸い込まれるような瞳に吸われて、彼女の意識は消えていく。

 そして、彼女はがらんどうの夢を見た。




「……あれ、終点か」

 うつらうつらとしていた内に粳部うるべは眠ってしまっていた。その目に映るのは終着駅の看板、耳に入るは旅の終わりを告げるアナウンス。いつの間にか電車の快適な空調に寝かし付けられ、目的地に辿り着いていた。

 彼女は閑散かんさんとした終着駅に降りる。せみの小うるさい合唱が夏を告げていた。

「えっと……先輩の家は」

 彼女は鞄から葉書を取り出し、何度も読み返した文章を上から下まで確認する。ボールペンで描かれた駅から家までの簡易的な地図を指でなぞりつつ、彼女の先輩である藍川鈴あいかわすずが書いた文を目に入れた。

粳部うるべへ、お前の退院後も話しにくくもう二年だ』

 何とも彼らしい簡素な文章だと粳部うるべは思っていた。藍川あいかわは高校時代から多くを話すことはなく、それは文章でも同じことだ。

『引っ越した為に現住所はここだ』

 芯がしっかりしているからか、粳部と歳が一つしか変わらないというのに文章にも落ち着きがある。多少個性的なところが玉に瑕だが、先輩と呼ぶに相応しい人物だろう。

『気が向いたら来てくれ、話したいこともある。藍川鈴あいかわすずより』

 葉書を鞄にしまい込み、刺すような陽射しから逃げるように歩き出す。ここから彼の家までは二キロ程度ではあるが、この暑さでは苦痛の距離である。都内の最高気温を更新したであろう今日は、過去最高のやっていられない暑さだ。

 改札機に切符を放り込み、彼女はスタートラインを踏み越える。

「ホント暑い……」

 逃げ出したくなるような日差しの中を歩き、頭の中の地図に従って進んでいく。粳部の想像では治安が悪く不安要素ばかりのイメージがあったこの町だが、特に荒れていることもなく人通りもない。それどころか蝉の鳴き声以外の音がなく、まるで異界に迷い込んだかのような感覚を覚えさせる。

 日陰に飛び込む靴音が響く。古びたガードレールの内側、車道の向こう側を見つめながら歩き続ける。その先で大きく聳え立つ入道雲は、彼女に夏の訪れを改めて教えてくれていた。

「(バスがないのがなあ……)」



 既に駅から数十分は歩いただろう。彼女は夏場には絶対に行きたくない場所だと確信しつつ、彼女はなおも進み続ける。そもそも夏場は外出には向かない季節だ。近年は寒冷化の影響を受けているものの、文明に甘やかされた現代っ子の粳部ではやっていられない。

 古い街並みを尻目に小さな日陰を踏んで行く。彼女は次第に不安になっていくが、目的地は唐突にやって来た。

「これか……でか」

 表札の名を見るにこれが藍川の家で間違いない。古めかしく普通よりも大きな一軒家。それは彼のイメージとかけ離れているような、どこかおどろおどろしい雰囲気を醸し出している。

 彼は二十一歳の筈だが、一体何の仕事をすればこの家に住めるのかと彼女は疑問に思っていたものの、緊張を胸に粳部は呼び鈴を押す。

「……」

 暫く待っても出なかった為、もう一度しっかりとそれを押す。

「……ん?」

 しかし、やはり誰も出ない。丁度藍川が家を出てしまっているか、または気楽に寝ているか。流石に引っ越してまだ日も経っていない為に、荷物の片付けに追われている可能性も十分にあり得る。

 彼女が諦め気味にもう一度押そうとした、その時。

「それ、壊れてるんだ」

「……あっ!鈴先輩じゃないっすか!」

 夏の日差しをその身に浴びて、懐かしい人がそこに立っている。夏だというのに暑苦しい袴を着て、昔と変わらない涼しい表情を浮かべていた。そんな様を見ていると周囲が涼しくなるような感覚を覚える彼女だが、現実問題ここは暑い。

 藍川が彼女に歩み寄る。

「久しぶりだな、田部」

粳部うるべです」

「川部」

「う、る、べ」

 粳部は彼が昔からこんな人だったと思い出す。名前に関してもボケているのか真面目なのかが判断できない。どこかおっとりしている愛すべき変人。彼女にとっては高校時代の自慢の先輩。あの頃と変わらない雰囲気で藍川はそこに居る。懐かしいようで、極めていつも通りで。

「丁度買い出しに行ってた。待ったか?」

「待ってないですけど……暑いです」

 二人は高校の同好会で二年間の付き合いがある。都市伝説同好会というお遊び集団、都市伝説と銘打っておきながら数か月でネタが切れ、未解決事件について調べることが大半であった。正真正銘、粳部の数少ない親しい友人。

「だろうな。早く上がれ」

 そう言うと彼は言えの扉を開け、暗がりの中へ粳部を招いた。日光の当たらないひんやりとした空気の室内は、日陰の素晴らしさを彼女に教えてくれる。玄関には冷房がないが、それでも日向の数倍は過ごしやすいことだろう。

 彼女は玄関で後ろ手に扉を閉めた。

「先輩と会うの三年ぶりですねえ」

「いや、『入院』を含めれば四年ぶりだ」

「細かいことは良いんですよ」

 そう言う粳部は入院した一年をよく覚えていない。心が空っぽに、空洞になっていた記憶どころか、精神病院に入院した日の事もよく覚えていない。色んなことがあった筈だというのに。再起した彼女の心はガランドウのままだ。

 藍川は草履を脱いで上がると前を向いたまま話しかける。

「にしても、よく来たな」

「来ないと思ったんですか?」

「五分五分と見てた」

「舐めてもらっちゃ困りますよ。先輩に呼ばれたら来ますって」

「そりゃ頼もしいことで」

 どこか懐かしいやりとりだと思う粳部。高校時代もこんな風に話をしていた。粳部の姉が居た時はこうではなかったが、部室に二人きりの時はこうだった。確かに覚えている。彼女は喜びから手を握ったり開いたりを繰り返した。

 それでも、彼女はどこか寂しげな彼の背中に違和感を覚えていた。気のせいだと思い意識をシャッキリと切り替える。

「今何の仕事してるんですか?」

「駄菓子屋、奥行けば店だぞ」

 このご時世で駄菓子屋を経営する者は少ない。随分と危うい仕事を選んだものだと思う彼女だが、彼らしいと言えばまあ彼らしい職だ。だが、収入に難がありそうな職を選んでこの家に引っ越すのは良い選択肢ではない。

 そこまで金銭的に余裕がある人だっただろうかと、疑念が浮かぶ。

「今時儲かりますかね?」

「勿論、売れない」

「……よくこんな家住めましたね」

 藍川が案内した客間は随分と広い。宴会を開くのであれば十分に人が座れる広さだ。玄関の靴が一足である以上、彼が一人暮らしなのは確定している。見た目からは分からないものの、実家が裕福なのだろうかと粳部は考えていた。

 または、この家が特別格安なのか。

「まあ、探しゃ掘り出し物はあるもんさ」

 彼女は低めの机の前に置かれた座布団に乗り部屋を眺める。この家の内装も外装も、まるで和の概念が形になったかのようなデザインだった。現代人の彼女でも落ち着く感覚を与えるこの家はきっと何か特別なのだろうと、粳部は物思いにふける。便利かどうかは別として心は安らぐ。

 彼がどこかへ行こうとする。

「なんかつまみでも持ってくるよ」

「えっ?わざわざすいません」

「店に客が来ても個人的な来客は来ないからな」

「ぼっちっすねー!」

 彼は微笑みで返すと台所へと歩いて行った。ガラス障子から見える庭はあまり整備されていないものの、侘び寂びを覚える自然が残っている。お寺のような静かで冷たい空気が流れているが、彼の家であるという安心感からか彼女に緊張はない。蝉の喧騒がもう遠くに聞こえる。

 その時、ふと壁に掛けられていた掛け軸が目に付く。

「(……こういうのの裏にお札とかあるんすよね)」

 旅館などは稀に、掛け軸や額縁の裏にお札が貼っていることがある。あれは過去に事件が起きたからか、何か危険なものへの予防の為にあるか、それともただのデザインかの三択だ。彼女はそれを噂で聞いたことはあっても実物を見たことはなかった。この古めかしい家ならば現物があるかもしれない。

 昔の血が騒いだ彼女は立ち上がると、掛け軸の側に近寄ってその裏を覗く。

「わっ!本物じゃん!」

 そこには正真正銘のお札が貼り付けられていた。どう見ても年代物であり数十年前に貼られていたことは確かだ。彼女の同好会時代の感覚が戻っていく中、不意に藍川が背後から話しかける。

「本物だぜ」

「うああっ!?音出して歩いてくださいよ!」

「それじゃ不意打ちにならんだろ」

「性格悪いっすね……」

 藍川はお盆にクラッカーを並べた皿を載せて佇んでいる。素直に来てくれれば驚かずに済んだというのに、彼も意地が悪い。彼のそれはいたずら心というか何というか。とはいえ、勝手に掛け軸を覗いて緊張していた彼女が悪いのだが。

「本物って何ですか?」

「マジのモノホンってこと」

 そうなると、これは何か悪いものを封じる為のお札であることは確定する。だが、そうなるとこの穏やかな家で過去に事件が起きたということになる。事件か事故か何なのかは彼のみぞ知る。

 彼が皿を机の上に置いた。

「この家、五連続で事故物件なんだ」

「あんた正気じゃないっすよ!」




【1】


「そういえば、我が同好会の目標でしたね」

「ん?何がだ」

 藍川は庭を眺めつつ客間で粳部と談笑を続ける。陽が落ちて夜の帳が降り、辺りに鳴り響く虫の声は良いBGMになる。そんな穏やかな時間帯。懐かしい顔なじみと共に祝いの席に着けば、時間の流れが分からなくなるものだ。

 粳部は気の抜けた声で言葉を紡ぐ。

「覚えてます?事故物件の調査したいって、都市伝説同好会の」

「ああ、あったな。結局やれなかったが」

 高校生らしいお遊びの同好会。退屈な藍川の世界を彩って、彼を救っていたあの安らかな時間。彼がいつの間にか見失ってしまった、忘れてしまったかつての足跡。彼は別にあの日々に戻りたいわけではないが、それでも焦がれている。

 だが既に、彼はあの日の続きを歩いていた。

「鈴先輩、未解決事件好きでしたよね」

「そうだな。一度だけ、謎解きが的中したし」

「あれって何で当たったんです?」

「別に……プロファイリングしただけだよ」

 二人にとって懐かしい話だ。かつてテレビで犯人が判明したと報道を見た瞬間、彼に大きな衝撃が走っていた。興奮気味の粳部が探偵になれるとはしゃいでいたが、あれは単純に偶然でしかなかった。情報が圧倒的に不足している中、あれが当たるとは誰も思っていなかったのだ。

 彼が自分のコップに麦茶を注ぐ。既に殆どの料理の皿は空だった。

「そういや粳部、今何の仕事をしてるんだ?」

「バイトっすよ、回転寿司で。給料が安くて安くて」

「バイトか……」

 粳部はまだ何をするか決めかねている。中途半端なスタートを切った彼女の人生は滅茶苦茶だ。高校生活は中途半端に終わってしまい、入院によって世間から取り残され、ようやく歩き出せるようになった時には遅かった。目的のない彼女は今もアルバイトをしている。

 藍川は何も言わない。

「私、大学で民俗学の勉強しようと思ってたんです。好きでしたし」

「……気の毒にな」

「あー!災害が起きるし私は入院したらしいし。散々!」

 高校時代の最後は、粳部も藍川も最悪な終わり方だった。美しかった思い出は突如としてその光を失って、忘れたくない思い出は忘れさせてくれない思い出に変わる。色褪せぬ記憶がないように、必ず全てはその輝きを失う。

 粳部は病的なまでに白い天井を眺めて過ごす羽目に遭い、藍川は古民家で腐っている。どちらも、意識が朦朧としている点では変わりない。例の『災害』に彼らは縛られ続けている。

「校舎が倒壊、復興の目途立たず。誰に予測できるんだ」

「まあ、入院したのは私のせいですけど。校舎ないって……」

 直下型の地震と噴出したガスの問題、おまけに母校の校舎が倒壊した例の『災害』で、彼らは学生生活を失った。粳部や周辺地域の人間は避難し、今は全員が別の場所に住んでいる。一般に公開された情報では少しずつ瓦礫を撤去していると言うが、被災地を隠すように建てられた仮囲いは全てを隠蔽している。

 彼は無理に明るい表情を作るが、ちゃんとできている自信はない。

「そうだな、ズルいな」

「あれって、復興まだなんですかね?」

「ただの駄菓子屋が知ってると思うか?」

 復興に関する報道は殆どない。公に発表された情報は曖昧な点が多く、週刊誌は嘘のような情報しか流さなくなっている。噴出した有毒ガスによって周辺地域は危険なままであり、帰郷を夢見た被災者は進展のない現状に諦め、終いには桁違いの補助金を渡されて消えた。人々が忘れ始め有耶無耶になったのだ。

 だが、彼女の為にも真実は明らかにならない方がいいだろう。

「ところで、この家って事故物件だったんだよ」

「よく住もうと思いましたね……」

「五件連続で自殺者が出たんだな」

「わおっ」

 本来、彼にここに住む予定はなかった。適当にアパートを借りて暫くの間だけこの町に居る予定だったというのに、色々と面倒ごとが重なって本格的にこの家に腰を下ろしている。彼としては、ここで人が死んだことはどうだっていい。衛生面の問題は特殊清掃によって解決済で、住む際の不満点はどこにもない。

「四件は風呂場で、一件は寝室で死人が出た」

「どっちも場所が最悪過ぎるんですけど……」

「そこはリフォームでもう丸ごと変わってるよ」

「綺麗になれば解決するわけじゃないと思いますけど……」

 彼女は皿の上のローストポークに箸を伸ばす。駄弁ったりしながら食事をして過ごしているとあっという間に時間が過ぎ去ってしまう。これではまるでいつかドラマで見た正月の席のようだと思う粳部。何となく親しみやすいあの雰囲気。

「さて、今何時だ?」

 彼が時計を見る。既に時刻は十九時を回っていた。談笑している内に時間の流れを忘れてしまっていたらしい。昔馴染みとの昔話に熱中していた証拠だろう。一人で自室に籠っているよりは健康的ではある。

 彼が視線を時計から机へと戻すと、彼女が心配そうなに彼の胸元を見ていた。

「……その怪我どうしたんです?」

「ん?ああこれか、気にするな大分治ってきてるから」

 胸元から見えた包帯でグルグル巻きになっている胴を見て彼女は困惑している。確かに、普通の人からすれば怖いだけだろう。ここまでする必要がある怪我は普通の人からすれば身動きしてはいけないレベルに見える。彼は緩まないようにもう少しきつく服の帯を締めるべきだった。

「いや……それかなり酷そうじゃないですか」

「安静にしてれば問題ないさ」

「安静って……」

「帰るなら送るぞ、この辺りは何かと物騒だ」

 まだ納得がいかないという表情の粳部。残念なことに、彼に彼女を納得させられるような説明ができる自信はない。

 この町には一つだけ彼にとって気がかりなことがある。眠る時に必ず寝床で想起する懸念の一つ。それはこの町が抱える最大の問題。それさえなければ住人も普通で静かな町だというのに、あの被災地が近いだけの住宅街だというのに。

「この辺り……変な噂や事件ちょくちょくあるぞ」

「治安あんまり良くないって聞きますけど」

「治安というよりオカルト絡みの……馬鹿な噂だが」

 不良や暴走族が居るわけではない。ご近所トラブルが頻繁に発生しているわけでもない。だが、それでも何故か碌でもない事件がいくつか起きている。あまりにも雑な怪物の目撃や神隠しの話との関係は不明だが、最近はマイナーなオカルト雑誌がこの街について取り上げたとか。

「おっ都市伝説ですかー?」

「噂は要検証だが……行方不明と不審者情報は事実だ」

「ネタの宝庫じゃないですか」

「気軽に言うなあ……まあ、昼間は子供も普通に出歩いてるぞ」

 長時間座布団に座り続けた重い腰を上げて、遂に彼が立ち上がる。ダラダラと食事を摂りながら話をしていたせいであまりやる気が出ない彼だが、ここで彼女を一人で帰しては男が廃る。彼女がこの帰り道に何者かに襲われるようなことがあれば、彼にとってたまったものではないのだ。

 それに、彼女の姉に悪いのである。

「さっ、早いとこ帰るぞ」

「はいはーい」

 何事もなく帰ることができればいいのだが、それは神のみぞ知る。

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