前夜祭

2/4/1999

 アパートのダイニングで撮影された写真。撮影時の塩梅か、被写体は全体的にほんの少しぶれていて、褪せたような色合いで映る。

 食卓に並ぶのは山盛りの料理。後ろに写るキッチンカウンターには、空になったピザの紙皿やテイクアウトのペーパーボックスが乱雑に積まれている。洗い物の追い付いていないコップや皿とともに、写真立てを隅に追いやっている。壁には古いロックバンドのポスター。

 狭い食卓に並べられた料理を、背を丸めた白人男性が伏し目がちに眺めている。


***


 ザカリー・パイクはドアノブをひねり、二の腕と肩に力を入れて玄関ドアをこじ開ける。ここのところ建付けの悪さに拍車がかかっていることには、アイリーンに言われるまでもなく気付いている。ハリソンアベニュー沿い、妙に間口の狭い赤レンガの小洒落た外壁は見た目こそボストンの街並みによく馴染むものの、見慣れてしまえばただの景色、安いだけが取り柄のおんぼろアパートメントに過ぎない。閉めるときも一度煽るように勢いを付けなければなかなか最後まで閉まり切らないドアと、外出や帰宅の度に格闘するのが毎日だ。

 家の中に向かって、声を掛ける。

「帰ったぞ」

 アイリーンは家にいるはず。確かそう言っていた。

 いや違う。正確には「楽しみにしててね」だ。

 もう一度声を掛ける前、ザカリーは自分の鼻腔をくすぐる匂いに気付く。

 この匂いは。まさか。

 キッチンから漂ってくる熱したチーズの香りが、ザカリーの嗅覚を刺激し、情動を揺さぶる。

「ちょうど良いところなの! もうちょっと待って!」

 いつもなら玄関まで駆けつけてキスをくれるアイリーンが、今日この日はキッチンから声を張り上げるばかり。余程手が離せないのだろう。しかしザカリーもそれどころではない。

 逸る気持ちを抑えきれず、しかし万が一にも大皿を手にした恋人とぶつかって全てを台無しにしないよう、「ハニー」「アイリーン」「まさか、嘘だよな?」矢継ぎ早に声を掛けながらキッチンを覗き込む。

 オーブンの前で、アイリーンが長いプラチナブロンドを顔の前に垂らしながら前屈みに加熱室を覗き込んでいる。

「ヘイ」笑いながらザカリーが声を掛ける。

「手が離せないって?」

「だって、焦げたら大変」アイリーンはその姿勢のまま笑う。

「そうかな」

「そう。せっかくこの日のために作ったんだから」

 アイリーンの言葉に偽りはない。

「ねえ、その感じだと、計量は?」

 ザカリーは不敵に笑って肩を竦め、アイリーンは満面の笑みで抱き着き、キスの雨を降らせてくる。

 。苦しみ抜いた計量を、パスした後の夕食。豪勢にしよう。そう、二人で決めていた。

「で、この匂い、まさかチーズマカロニじゃないよな?」

「あら、不満?」今度は、アイリーンが不敵に笑う。ザカリーは首を振る。

「やっぱり君は最高だ、ハニー・バニー」

 山盛りのチーズマカロニ。これがザカリーの故郷の味、母親の味。年の近い姉とふたり、これを頬張ってでかくなった。

 思い切り、アイリーンを抱きしめる。手に持ったままのビニール袋ががさりと音を立てる。

「他にも買ってきてくれたの?」

「すぐそこの中華料理屋でね。一緒に何回か行っただろ?」

 アイリーンが頷く。

「パーティね、今日は」

「そうとも」

 決戦を控えた、これが最後の晩餐。

 明日行われるは、総合格闘技MMA団体UNCウェルター級トーナメント、ガブリエル・コールマンとの一戦。

 コールマン。アマチュアボクシング10戦無敗の経歴を引っ提げ、プロ総合格闘技への転向後も連勝街道をひた走る、文句なしの強敵。彼の試合を、ザカリーはビデオで何度も見た。テープが擦れて画質が荒れるほどに。コールマンはプロの試合すべてがノックアウト勝ちのハードパンチャーだが、それだけではない。スタミナもスピードもある上に、警戒心が強くディフェンスに長けていて、グラウンドも抜群に上手い。

 彼は強い。自分よりも。それがザカリーの下した、覆しようのない結論だ。それは認める。認めざるを得ない。

 それでも、勝機はある。フルラウンドを使って食らいつき、チャンスを逃さずラッシュに持ち込む。何より大事なのは最後まで立っていること。諦めないこと。

 しかし、それ以上にタフでハードなのが、試合前の減量だった。

 6フィートと2インチあまり、それも並外れて骨太のザカリーがクラスリミット170ポンドを維持するのは、並大抵のことではない。何カ月も前から食事を減らし、やがて完全に抜き、ここ数日は水分まで絶っている。

 頬骨が浮かび上がるまで身体を追い込んでようやくリミットいっぱい、計量をクリアしたのはつい数時間前のこと。それから事務所の電話を借りて、すぐ成龍飯店にかけた。

「なるべく急いでくれ」

「30分は掛かりますけど」

 いつもの店員の、いつも通りの抑揚のない返答。受話器越しの、むすっとした顔が目に浮かぶ。

「OK、30分後に」

 それからもう一軒電話を掛けてすぐ、事務所を飛び出した。

 帰ってくるまでに、先ほど絡んできた中国人たちが浮かばなかったかといえば嘘になる。

 なんだ、あのイエローども。

 しかしその怒りを、ザカリーは努めて頭から追い出す。今はそんな事に思考を割くことすら惜しい。今考えるべきことは晩餐の食卓、それに尽きる。

 折しもその時、ドアチャイムが鳴る。来た。

 アイリーンが誰何の声を上げるより先に、ザカリーが反応する。玄関に向かう。

 ドアをこじ開けた先には、そばかすの浮いたぎこちない笑顔の若者。『レジーナ・ピザ』の、赤いストライプの制服。

 代金と引き換えに受け取った紙箱を、ダイニングのテーブルに恭しく置く。ビニール袋から出したペーパーボックスも。

「役者は揃ったな」

「ねえ、それ……全部食べるの?」

 やや困惑した、アイリーンの顔。

 ザカリーは眉を上げる。

「さあ、パーティだ」


 ペパロニをたっぷり散らしたラージサイズのピザ。

 甘辛いタレの掛かったフライドチキン。

 半透明の細い、汁気の無いヌードル。

 薄切りにして揚げた牛肉とブロッコリーの温かいサラダ。

 それとアイリーンお手製、耐熱皿に小山の如く盛ったチーズマカロニ。

「こっち見て、ベイビー、ほら笑って」

 3、2、1。アイリーンの手に持つカメラが、シャッター音を模した安っぽい電子音を出す。

「そんなの持ってたっけ?」

「今日買ったの、デジタルのやつ」

 慣れない手つきで写真を確認して、アイリーンは笑いながら抗議の声を上げる。

「ちょっと、笑ってって言ったのに! もう1回ね」

「別にいいだろう、それより早く食べようぜ」

 アイリーンも単に試し撮りがしたかっただけなのか、「ヤ」と素直に席へと着く。

 脂の匂い、タレの匂い、チーズの匂いが混ざり合うそれにたまらず、腹が鳴る。

 何から先に手を付ける?

 取り返しのつかない一番乗りはどいつにする?

 ざっと食卓を眺めまわして、考える。ほんの一瞬、そして迷いのない動作でピザのピースを手に取り、かぶりつく。

 生地の裏の、ほんの僅かな粉っぽさ。塩気、でんぷん質の甘み。上あごに張り付き、咀嚼と共に口腔を満ちるチーズやペパロニの脂気。トマトソースの酸味。

 多幸感で、脳が弾けそうになる。

 顎を動かしながら手を伸ばし、フォークでチキンを突き刺す。

 酒は飲まない。口に詰め込んでは、ミネラルウォーターで流し込んでいく。

「そんなに急いで食べて、大丈夫?」

 頷いて、口の中のピザを飲み込む。

「温かい内に食べるのが、良いんだ」

 また水を一口飲んで、チキンを齧る。

 ヌードルを啜る。

 マカロニを掬って、頬張る。

 咀嚼と嚥下を、ひたすら繰り返す。繰り返して、ふと我に返る。

「ごめん、退屈だったかな。おれが食べるばっかりで」

「ううん」

「よかったら、君の話を。今日はどうしてたんだ? その、……料理をする前だけど」

「どうって、いつも通り。あなたより先に出たけど仕事は午前中だけだったし……ザック?」

 ザカリーは、青い顔で椅子から立ち上がっている。背を丸め、「すまない、一分だけ」とくぐもった声で言うが早いか、よろけるようにバスルームへ向かう。

 アイリーンが追いすがる先、バスルームのドアを隔て、ザカリーは便器の中目掛けて盛大に嘔吐している。原形をすっかり失ってシェイクされた、ピザや牛肉、ヌードルたちだったものを。絶食直後の暴食に、身体がショックを受けている。

 一分だけと言った通り、すぐにザカリーは扉を開けて戻る。顔を洗い、口をゆすいでから。

「ほんとうに、ザック、大丈夫なの?」

「大丈夫だよ、おれは」

 話の途中で悪かった、それに、せっかく作ってくれたのに。言いながら座りなおす。

「ううん。でも身体、悪いんじゃない?」

「問題ないよ。ほら、パーティの続きだ」

 釈然としない顔のアイリーンが席に着くのを待って、ザカリーは再び猛然と食べ始める。食べ始めて、再びバスルームに駆け込む。胃の中身をぶちまけ、また戻っては食べる。食べては吐く。それを繰り返す。何度も。何度も。

「ねえ、ザック、ちょっと」

 なんでおれは。

 ザカリーは思う。吐きながら、食べながら。

 なんでこんなに、おれは苦しんでいる?

 思いながら手を動かす。口を動かす。そしてまた便器を抱える。

「おかしいよ、どうしちゃったの」

 アイリーンの声はもう、届かない。

 嘔吐するたび、食事を再開するたび苦痛は増す。何かがザカリーの中で割れてささくれ、そしては尖ってゆく。

 誰のせいでこんなに苦しんでいる?

 おまえか、コールマン?

 いや、違う。だ。今おれにはこれが必要なんだと、ザカリーは心のどこかで理解する。

 この苦しみが必要なんだ。おれには。

 コールマンに勝つために。殴り倒すために。

 おれはこのままいく。やってやる。

 食べれば食べるほど、吐けば吐くほどに衝動が増してゆく。憎悪が募ってゆく。

 コールマン、おまえの前歯を叩き折ってやる。

 あばら骨をへし折って、内臓に突き刺してやる。

 肘をひしいで壊してやる。

 脳みそが出るまで殴ってやる。

 ザカリーは止まらない。食べて飲んで、吐き出しては、また食べる。

 アイリーンは泣いている。座ったまま顔を歪め、嗚咽を殺して涙を拭いながら、変わり果てた形相の恋人に懇願する。

「もうやめてよ、お願い」

 ぶっ殺してやる。

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