遠景――月神の愛娘/水神の女司祭――
短い微睡みから、サレニアは醒めた。
「……随分と、懐かしい
蛇骨森林の奥深く、一夜で建った山城の、最も高く天守とそびえる尖塔の天辺。
元々は物見の塔だったのか、それともこれだけは新たに建立したのかは分からない。城には欠かせぬ貴人の牢屋に囚われた姫君は、欠伸を一つして、首を左右に倒して唸る。
「さすがにちょっと、肩が凝る」
緊張感の無い台詞を口にしながら、両手を持ち上げてみる。不気味ながらも流麗にして美しい、鎖で繋がれた青銅の手枷が手首を戒めていた。同様のものが足にも取り付けられている。ただし鎖は全く動けなくなるほど短いものではなく、立ち上がって部屋を歩き回るくらいの事は出来た。
部屋の中は簡素を飛び越して殺風景で、調度品は小さな椅子とテーブルが一揃いだけ。窓は壁に一つと天井に一つ。どちらも格子が入っているが、その隙間を塞いでいるのは透明度の高い石英。板硝子などという高価かつ壊れやすいものはフリンジアでは縁遠く、魔神の用意した仮住まいで初めて見るのは少々悔しいものの、案内された直後は興味深く観察してしまった。おかげでもう見飽きてはしまったが。
立ち上がった気配で起きたのか、甲高い声が幾つか、囁き交わすのが聞こえてくる。
声の主は部屋の内外両方に存在した。
「ヒメサマ、ヒメサマ。オミズ、ノム? オカシ、タベル?」
幼子のような舌っ足らずな共通語を、壁に半ば埋もれるように生えた蜥蜴の首が口にした。身体の半分以上が石壁と一体化しているのに、何の苦痛も痛痒も見られない。魔神の感情など、無論サレニアにも読み取れる自信は無かったが。
壁のあちこちに蜥蜴の如き小人――あの『群体型』の魔神達が埋もれ、時にだらりと腕だけを垂らし、時に鼻先から下だけを浮かべて目だけを落ち着かないように動かしている。生きているのか、死んでいるのか。そもそも初めから生きているように見えるだけという可能性もあった。
「いや、不要だ。気遣いだけで結構」
「ヒメサマ。モウチョット、モウチョットダケ。アイツガクルヨ、スグクルヨ」
「お前達、同じ魔神とはいえ自分の召喚者をお前呼ばわりしていいのか? ……魔神だからいいのか」
サレニアの言葉には応えず、魔神達は甲高い声を潜めて笑いさざめく。常人が聞けば耐えがたい怖気に苛まれるだろう、無邪気な邪気、悪意無き邪悪。だがその異質さも、より異質なものの前では意味を失う。いや、異質と異質が向き合った時、そこにはただの他者同士しかいない。
部屋の中が少し明るくなった。天窓から、月明かりが差し込んでくる。ただし月そのものはまだ見えない。頂点に達した時だけ覗くように調整しているのだろう。
サレニアの心臓は月光に波を見た。さらさらと零れては消えてゆく真砂の如き粒子を見た。すくい上げるように、光を手に受ける。崩れては戻る、雪を編んだかの如き薄衣の触感を幻視する。
「……いい月だ。満月の光を浴びるなぞ、いかほど久しい事か」
唇が綻んだ。金色の瞳が光で満ちて
「興が乗ってきたな。折角だ、私の冥途の土産に一つ、歌うとしよう」
低く柔らかく伸びる声が、室内を満たす。声は言葉を形作らぬ音色のみ。
なのに充ち満ちていた原詞が目を覚まし、連鎖的な励起を開始する。
小人のような魔神の群れはそれを知覚しながらも、どこかうっとりと目を閉じた。
同時刻、フリンジア王城の渡り廊下。
中庭に木花を望む風雅な道の上で、ユーヴァ=ロット=フリンジア――フリンジア王家第一王女にしてサレニアの姉たる人は、珍しく気色ばんだ顔で声を荒らげていた。
「フェクト師。サレニアの救出にヴェランナ神殿からの派遣が無いとは、どういう事ですか!」
憤懣の向く先はヴェランナ神殿フリンジア分殿最高司祭、フェクト。鉄紺の髪を腰まで伸ばした壮年の尼僧である。その顔には長年の職務――彼女は歴代最長の最高司祭であり、勤続十年目に入ろうとしていた――による疲労が深く刻み込まれてしまったが、知性と意思を感じさせる眼差しには未だ衰えを見せていない。
普段であればユーヴァがフェクトの判断に異論を挟む事などあり得ないのだが、妹の事となれば話は別だった。
「さらには近衛騎士団の出撃も禁じられたとか。我が国の王女に対する処遇とは思えません。よもや父上のご意向ですか? ならば全責任はこの私が――」
「落ち着いてください、ユーヴァ様。今回の件には今後のフリンジア全土とサレニア様ご自身の未来がかかっております。迂闊な言動は
声にも疲労を滲ませながら、フェクトが諫める。そうでなくとも五大国家の代表相手に、何処までの介入を許すかでぎりぎりの交渉をこなしたばかりだ。
フリンジアの宗主国たるイオニアはまだしも、ガゼットリアとナルガルズはここぞとばかりに管理の責任と『月神の心臓』の危険性を追求し、中隊規模の空間転送許可まで求めてくる有様だった。救出からなし崩しにサレニアの身柄確保まで画策しているのだろうが、他所の国でまで人間同士の争いを持ち込まれたのではたまったものではない。
ただありがたい事に、残り二国のうちナディアは慎重論を、バルボアは積極的な反対を表明してくれた。特にバルボアからは、軍の派遣が飢龍山脈と蛇骨森林に棲まう祖龍を刺激した場合、その災禍は蕃神の降臨を上回り兼ねないとの意見が出されている。祖龍が起きた時の責任など誰にも取りようがないという主張に対しては、強硬な二国も異論を挟みはしなかった。
無論、バルボアはフリンジアのような辺境域を多く抱えており、自国にとっても不都合な前例を作りたくなかったという、内々の思惑があった事も間違いないのだが。
「イオニアの派遣枠を使ってエステル神殿のタウルヤ様を派遣して頂きました。これがフリンジアが公式に送り込める最大の戦力です。これ以上は他国から無責任な過干渉と見做されるでしょう」
「しかし、いかな【
「立場に各々違いはあれど、残る四名も精鋭中の精鋭。特にイルス神殿のジェガルド様は当代屈指の名手であり、国王陛下とも面識のある信頼のおける方です。私達に出来る事は、後は信じて待つのみです」
口にしながらも、そのジェガルドがサレニアを手柄にナルガルズへの凱旋を目論んでいる可能性は、フェクトの見立では低くはなかった。
(だからこそバルボアの推薦枠を実質的に譲ってもらえた事は大きい。大きな借りを作ってしまった)
バルボアは火神アイゼンの大神殿を擁する国家である。フリンジアとバルボアの秘密裏の交渉の結果として、アイゼン大神殿からその従属神たるガタリの神殿に知己を指名して派遣してもらったのだ。
指名した相手は名高き鉄火神の僧兵にして、フェクトが自ら六年前に仕掛けた、今この時のような事態のための鬼札。
だがその詳細については、フェクトは国王にすら秘していた。無論ユーヴァにも話す事は出来ない。何故ならその鬼札の存在理由は、フリンジアのためでも人類のためでもない、ある意味フェクトの独善の極みだったのだから。
そんな事はおくびも出さず、フェクトはユーヴァの説得を続ける。
「ここで我々が勝手な行動を取れば、救出が為ってもサレニア様をフリンジアに留めておくことは難しいでしょう。最悪、魔術師ギルドによる凍結封印をかけられて、有事あるまで墓所で保管される可能性もあります。『月神の心臓』は、使い方によっては【滅亡の兆し】すら遠ざけ得る、人類の切り札の一つなのですから。……とはいえ、あちらも強硬手段は避けたいでしょう。まだサレニア様が人としての生を全うできる可能性は残っています」
サレニアが人間に、人生に、絶望するような事があってはならない。
死を悟り、恐怖し、自棄になってはならない。
彼女が真に人を諦めた瞬間、『心臓』はサレニアを神格化する。その場合外部からの封印は必ずしも成功するとは限らず、最悪の場合には無制御に金月神ヘイレンそのものが限定顕現する。
それはそれで人類の滅びのシナリオなのだ。ヘイレンは天空に空いた異界の門、
流石に自分の力の及ぶ話ではない事を認め、ユーヴァは手を組んで自らの主神ヴェランナに祈りを捧げた。
「ヴェランナよ、どうか妹をお守りください。……サレニア、どうか無事で……」
「魔神も儀式の直前まで、サレニア様に危害を加えるような事は無いでしょう。彼奴らの欲望は主神たる上位存在の利益のみ。個々の欲望に流されて無体を働きはしないという意味では、人間よりも信頼出来ると言えますから」
「そ、そんな信頼がありますか! 怒りますよフェクト師!」
状況を飲み込んでくれたユーヴァにあまり慰めになっていない慰めを投げて怒られながら、フェクトはここでずっと心の目を逸らしてきた、最大の懸念事項を思い浮かべる。それだけで動き続けてきた思考が止まり、視線が虚ろに飛んでしまう。
何しろ、今の今まで積み重ねた苦労が全て、手の届きようのないところで水泡に帰するかもしれないのだ。
全くもって、なんという茶番だろうか。
正直なところ、フェクトの予想では魔神にも各国の精鋭にも、そも彼女をどうにかする事など実際には出来るはずもないのだから。
「ですからどうか、助けが来るまで大人しくしていてください。サレニア様……」
幸い、その呟きはユーヴァの耳には届かなかった。
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