第10話 待ち合わせ
授業は進む。理科の授業中、教師が原子核や電子についての知識を生徒たちに刷り込んでいる間にも結良乃の問題行動は引き起こされていた。
窓を突き抜けて注がれる日差しを見つめながらペットボトルを置き、強い輝きを集めて一点に注ぐ。
「いいわね、ここから始まるわ」
光が熱を以て刺す先はフライパン、その上に卵を割って落とし。卵は少しずつ変質して行って、液状の白身を文字通りの白に染めながら固まり続け。
「良いわ、グルメよ」
周囲の男の集団が欲望の音を立てるものの、全て耳の勘違いだった事にして続ける。
「塩は塩化ナトリウム、料理は科学でみんなを満足させる魔法よ」
塩を振り、水の入ったペットボトルを鞄の中に仕舞い込んで衣代の方を見つめてふと笑った。
「錬金術にも科学にも付き纏う保存の法則たちを味わいで克服したわ」
「凄いですね、これなら理科も家庭科も通知表五つ星……なわけあるものですか」
先生から尖った視線を、刺激の強すぎる無言の忠告を戴いてしまい、慌てて口を閉ざす衣代に対して結良乃は口を開く。
目玉焼きの白身は程よい柔らかさをしていて噛み締める度に塩の味が舌の中に広がっていく。黄身にたどり着いた途端、弾けるように蕩ける感触が濃厚な味わいと共に白身に絡まり口の中を満たしていく。
「ああ、完璧な味わい」
「ええ、完璧な不良少女ですね」
結良乃は乾いた笑いを見せて誤魔化していく、ただそれだけ。衣代の内から湧いて来る苦い想いはコーヒーを思わせる黒をしていた。そんな想いが容赦を知らずに放り込まれる。
「将来を考えるならしっかりと学んで下さい」
冗談の一つも通さない言葉が続きを結良乃の脳裏に刻み込まれて行く。
「真面目に座る事も将来必要な体験の一つです」
ただそれだけ、とはいえ高い集中力と慣れが必要なそれは紛れもなく訓練によって可能となる事だろう。
「まあまあ、そんな事言わないで」
気が付けば周りの男たちがはしゃぎ始めていて教師が座るよう叫びという形で呼びかけているところだった。
「あの人たちと同じわけには行きませんよね」
しかしながら既に誰も彼もが会話を交わし始めて止まる事など知らない様子で授業など無かったことにされていた。
「これ、お嬢様が原因ですからね」
衣代の言葉に重なるようにチャイムが響いて授業は幕を下ろす。電灯は昼の明るさの中でどれ程の意味を成すものだろう。中々つかめない疑問だった。少なくとも今の状況よりは役に立っているだろう。そう祈らずにはいられなかった。
総員立ち上がり、この退屈な一日を締めくくるお辞儀をして教室のドアをくぐって行く。聖香は衣代たちとは反対方向へと、美術部へと向かって行く。
結良乃は別れ際に大きめに口を動かし伝えたい言葉を奏で上げる。
「聖香、明日だからね」
進みは止まり、振り返り優しい笑顔を見せて挨拶をして再び前を向く。空気を伝う声はしっかりと聖香の足を止める事が叶ったようだった。
「さて、衣代、明日は出掛けよ」
「ええ、分かっています」
車に乗り込み走り出す。深く色付き始めている空の果てを眺めつつゆったりと走る車に合わせるようにゆっくりと考え事を挟み込む。先日屋上に現れたあの女、金里はあの日以来一度たりとも姿を見せていない。目的は恐らく結良乃の誘拐と松時財閥の当主への交渉だろう。高尚な市民の姿を際立たせる低俗を極めた行ないは果たして再び訪れるものだろうか。一攫千金、そんな言葉を妄信して猛進しているあの姿が脳裏に焼き付いて離れなかった。
「衣代、何か考え事してるでしょ」
「一か月程度でもお分かりになられるのですか」
表情を硬くして生きて来たこの二十年以上を否定されたような心地だった。努力は容易く裏切る。肝心な時に役に立ってくれないそんな習慣。
「もしかして重要な事かしら」
「ええ、それはもうとても」
真剣な表情を浮かべて滲み出る感情を無で上塗りする。それから流れる沈黙。地面を転がるタイヤや向かい来る空気の音だけが響いたその先で、衣代は煌びやかな笑顔を浮かべてみせた。
「今日の晩ごはんどうしようかと悩みまして」
結良乃は肩の力を抜いて大きなため息を吐いた。それから猫背気味の姿勢を作って声のない笑いを、空気だけが吐き出される動きを出していた。
「そんな事。じゃあクランベリー入りのおしるこでいいわ」
「美味しいのですかそれ」
質問ではない。呆れ顔がそう伝えていた。それでも結良乃は答えずにはいられなかった。それがコミュニケーションだと言わんばかりに勢いだけをつけて。
「試してみないと分からないじゃない。どちらも美味しいものだから」
「確かにそうですけど混ぜるな危険の表示が必要な案件では?」
実行には至らないだろう。衣代には試す勇気も行動に移すつもりもなかった。
「じゃあ酢豚のカルパッチョで」
「最早意味が分かりませんよ」
授業の時間と言い今と言い、結良乃の発言から真剣みが失われ続けて止まることを知らない。この事態が知られてしまえば当主からの落雷は避けられないだろう。
――どうかこの事態の避雷針を
祈りは通じるものか、物事を常に己の目で見つめて来た人として生きる事の通は事態の動きを勘で噛んでいた。
端末がスーツジャケットの中で震え始める。振動は強く、車の中という独特の揺れに包まれた空間の中でも気が付いてしまう力強さで連絡の来訪を必死に伝えていた。すぐさま出る事必至、衣代はドラッグストアの駐車場に車を停めて結良乃に先に入っているよう伝えて端末を取り出し、通話を開始した。
「お疲れ様です、納川でございます」
途端に細く高く響きの良い音が空気を刺して耳につかまり始める。
「衣代さん、わたくしです」
結良乃によく似た声は丁寧な言葉を選んでいるものの、心地が良くない。結良乃とは異なり何故だか聞いていて頭の痛くなる響きをしていた。
「ええ、お嬢様のお姉様でしょうか」
確認は不要、スムーズな会話には不用。しかしながら挟み込まずにはいられなかった。
「そうであります。おひとつ宜しいでしょうか」
心臓の鼓動が加速していく。脳裏で警鐘が響き渡り、軽傷の火傷にも似た後味へと継承される。
「はい、お嬢様との待ち合わせがあるので短い手でお願いいたします」
衣代の返事が訪れる事は分かり切っていたのだろう。
「結良乃さんを狙っている組織の事、お分かりでしょうか」
一秒たりとも隙間を作ることなく告げるこの女、結良乃の姉である未希子。彼女には優秀なボディーガードがついているだけでは終わらず、婚約相手がいるのだという。
未希子の質問を受け付けて答えを切り取り言葉に変える。
「いいえ、少なくとも二度の邂逅はありましたが未だ不明です」
次にはきっとその二度について訊ねて来るものだろう。一瞬の隙間というわずかな時間を潜り抜けて想像通りの質問が飛んで来た。
「まず初めの方からお訊ね致しましょう」
声の響き方に違いがあるとはいえ結良乃に似た声が結良乃の口から出て来たことのない言葉を扱っている事に大きな違和感を抱きつつ答えていく。
「用事を済ませた後の帰りに襲われたのです」
あの暗闇が脳裏を覆い始める。闇を弱める建物の輝きの数々と、合わせて異なる騒がしさがその場を覆っていて決して居心地のいい思い出ではなかった。
「車を走らせ躱しながらある場所で撃退してナンバープレートの撮影から特定まで行なったのですが、盗難車であるという事しか分かりませんでした」
ラーメン屋での美味を思い出す。あの味はただの素人に出せるものではない。幾年もの経験によって磨き上げられた上質な石のように美しい技術で大衆的な味わいの頂点にまで立っていた。思い返すだけでもあの味に再び手を伸ばしたくなってしまう。
「分かりました、もう一つは」
「ドローンを飛ばしていた監視員が気が付いたものですが学校の屋上から結良乃お嬢様を狙っておりました」
あの焦燥感は思い出すだけでも頭の中で酸欠の幻覚が薄っすらと現実の輪郭を帯びてしまう。実力以上の理由を語ってみせた。
「それは私も知っているような同業者、実力は本物でございます」
あの日の決闘。衣代の過去を知っている人物。かつての仕事、最重要任務での仲間であり、襲撃を受けた際の生き残りの内の一人。
「つまり、衣代さんでは護衛出来るか分からないと言ったところですね」
「ええ、あなたの護衛をお借りする事があり得るかも分かりません」
かつての仲間であっても次の仕事に移った途端撃ち合う事が容易に起こりうるこの仕事、関係を選び抜くことと仲間の大切さを深く考えるきっかけとなっていた。
「さようですか。ではさようなら」
通話が途切れる。最後の言葉を噛み締め衣代は突然恥じらいの熱に浮かされ始めた。
「日頃からこのような言い回しを……他人から聞かされたらこのような気持ちなのですね」
噛み締めて、心をどこかに仕舞い込もうとするも隠し場所が見つからずしばらくの間、立ち尽くしていた。誰がどこを通っていようとも気にしている余裕すら見受けられず、大きく膨らんでしまった感情が萎むまで待って。
――いけませんね、このままじゃお嬢様のところへ行けませんね
無意識の内に繰り返してしまう過ちを通ってすぐさま恥じらいに襲われつつも深呼吸をした後に結良乃の方へと向かう。
ドラッグストアの中で結良乃は口紅を見つめていた。
「何か買いたかったのかしら」
「お嬢様の奇行を抑えるお薬が欲しくてですね」
薄っすらと浮かべた笑みで誤魔化していく。表情を作る事が今の衣代にとっての最大の化粧。スーツ姿であればある程度の厚塗りは欲しかったものの、学校で化粧をする者など教師か校則違反の者といったところであろう。衣代にとっては化粧の機会など無に等しかった。
「私に奇行なんて無いわ、みんなが機械みたいなだけよ」
「そうあるべきと日本では教育されますね」
「衣代って前の仕事とかではどんな化粧をしてたのかしら」
すぐさま高級なものを揃えることが出来るはずの結良乃が庶民の化粧品を眺めていた理由が的確に込められていた。
「ベラドンナとかアロエとかサフランにオリーブオイルでしょうか」
手始めから嘘だと分かる発言につい笑いを零してしまう結良乃につられて衣代もまた仄かな笑顔に喜びの色を付けていた。
「魔女じゃないんだから」
それからチョコサンデーとレーズン入りのチーズを買って再び車に乗り込んだ。
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