◇◇第16集◇◇

『あが、がぁぁ』


 刺客が眼を剥き、范蠡を睨み付けた。怯える范蠡を察して、陸香は、刺客を見ることもなく、剣で頸椎を一刺しすると、いつもの静寂が戻ってきた。何処からか、樹木の葉擦れのさわさわとした音が聴こえた。



『今夜は陸香がついています。怖かったでしょう。さあ、床について』


 突然のことで幼い范蠡は、声が出なかった。


『耳を塞いでいてください。失礼致します。お見苦しい物をまだ、片付けていませんでした』

 

 そう言い陸香は指笛を吹いた。知らない黒い服を着た者が刺客の死体を片付け、范蠡の部屋を元通りにしていく。だが、范蠡は、動揺と恐怖感で指先が冷たくなっていく。平静を装い、陸香にいつものように膝枕をしてもらい、話しかけた。


『陸香は怖くないのか?あんな大男、見たことがない』


『どんな人間も急所は同じです。それに范蠡様が無事なら陸香はそれでいいのです』


 そう言い何処か寂しそうな顔をしながら、陸香は范蠡の髪を撫でながら微笑む。


 陸香から臭う生臭い錆びた鉄の臭いが、いつもの花の匂いと混じる。いつもの花の匂いは、この臭い消しなのだろうか。そんな考えが頭を掠めた瞬間、いきなり込み上げた吐気を我慢できず、范蠡は吐いた。


 陸香は反射的に両手でそれを受け止めた。少量の胃液だった。怖々目の范蠡が顔を上げると、悲しそうな顔をして、陸香は、


『配慮が足らず申し訳ありませんでした。人を殺めた手ですのに』


 そう言い、陸香は范蠡の吐瀉物を袂から出した布で拭き、席を外そうとした。


『ごめんなさい、ごめんなさい、陸香。ごめんなさい、陸香が嫌なんじゃない。お願い。嫌いにならないで。傍に居て、陸香ぁ!陸香ぁ!』


 范蠡は大泣きし、整わない呼吸の中、部屋から出ていこうとする陸香をずっと呼び続けた。陸香は振り向いたが、表情は満月の逆光で范蠡には解らなかった。


『床に入り眼を瞑り百数えて下さい。それまでには戻ってきますから』


 陸香は九十二数えると戻ってきた。服も変え、黄色の涼しそうな薄い衣だ。満月と同じ色だった。一連の陸香は范蠡の眼にあまりに鮮烈に映った。


 陸香が刺客を仕留める様は、まるで剣舞のようだった。けれど、范蠡は怖かった。刺客の大男や、初めて見る死体もやはり怖かった。血の臭いと花の混じった香りも怖かった。


 けれどそれ以上に幼い范蠡が怖いと感じさせたのは、陸香は范蠡の為に、命すら簡単に投げ打ってしまうことだった。


 范蠡は、いつか陸香が自分のせいで死ぬのではないか。それは、自分が陸香を殺してしまうということではないのか。そう思うと怖くて仕方がなくなった。


 幼い范蠡はたまらなくなり、陸香の膝にしがみつき大声で泣きじゃくった。




◇◇つづく◇◇

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