ヘルムート・カウフマンという人


 仏頂面だけれど、この人は僕なんかに同情してくれるんだ。

 優しい人なのだな。

 しかし、不思議なこともあるものだ。

 なぜ僕はこの人の感情を匂いで感じることができたのだろう?

 他の人たち――ディレザさんやエレナさんやジューンさんの感情はわからない。

 匂いだ。

 カウフマン様から漂う爽やかな香りから、感情が読み取れる。

 これもこの人がアルファだからなのではなかろうか。

 

「あの」

「先に言っておくが、あなたをこの邸で保護するのはあなたが今回の事件の被害者であり、重要参考人だからだ。生活を保証するからと言って私になにかしてくれようとしなくていい」

「はあ……」

 

 先に釘を刺されてしまった。

 首を傾げる。

 今まで会ったことのない人種すぎて……どうしたらいいのかわからない。

 気の抜けた返事しかできなくて、そんな自分に少し驚いた。

 あれ、僕、この人に猫かぶってない。

 自覚したら肩から力が抜ける。

 監視生活の頃、眠った気がしなかった。

 自分がオメガで、発情期も薬で止めていたからまさに『妊娠の心配のない穴』にされる可能性があったから。

 実際朝まで我慢できなかった監視兵の何人かは夜寝ている僕の口に、突然いきり勃ったモノを突っ込んで強引に出し入れして無理やり飲ませてきたことがある。

 そういう人は次の日にはいなくなっていたから、旦那様の許可の下、というのは確信していたがそれでもいつ、旦那様以外に初めてを奪われるのではと怯えていた。

 幸い発情していない男の体を抱きたいという監視兵には会ったこともなかったけれど。

 性技を週一で教えに来る人には『普段は貞淑に。ご主人様の前でのみ、娼婦よりも淫らに積極的に、なによりも楽しく幸せそうに』と教えられて、自分の体はちゃんとオメガなのだな、と実感するとともに“自分”が消えていく感覚を覚えていた。

 消える、というか、希薄になる、だろうか。

 演じて、我慢して、それが普通で。

 取り繕って、自我をできるだけ消して、押し込んで、押さえつけて。

 こんなに肩の力の抜けた感じすら久しぶりすぎて、あまりにも変な感じがして。

 

『お前は俺の言った通りになにもせず、ただ人形のように座っておればいい』

『役に立たないのだから、せめて知識だけでも身につけるようにしろ』

『他に価値などないのだから、嫁ぎ先では旦那様の言われた通りに生活しなさい』

『オメガだった? お前にも家のために役立てる日が来たんだな』

『すごいじゃない、オメガだなんて! わたくしと同じように幸せな結婚ができたらいいわね。嫁ぎ先では旦那様に気に入っていただけるように頑張るのよ。わたくしも旦那様に愛していただけるように頑張るわ』

 

 ……思い出すと姉だけが優しかったな。

 でも、姉も言っていることは同じだ。

 結局僕は、僕という人格の人間は、必要とされていない。

 放置され、なにも信用されずに監視される。

 物と同じ価値しかない。

 仕事を見つけて、自活をするつもりだったけれど……僕にその価値があるのかわからなくなってきた。

 力が抜けて、取り繕わない自分を見た時、僕はあまりにも空っぽな人間すぎて。

 なにもなさすぎて。

 僕は――。

 

「それは……僕はカウフマン様になにか、お礼をする価値もないと……」

「なに?」

「そうですよね。僕なんて立派にお仕事をされているカウフマン様にして差し上げることは、ないですよね。申し訳ありません。差し出がましいことでした」

「いや…………」

 

 眼差しが本当に、どうして急に、のような困惑だ。

 身の程を弁えなくては。

 所詮は物なのだから僕は。

 物なりに余計なことを考えて、人間らしく生きていこうと思ったけれど、あまり思い上がらない方がいいだろう。

 今さらそんなこと、無理に決まっている。

 ここにいる人たちのように、幼い頃からたくさん努力して今の仕事に誇りを持てるほど僕は努力などしてこなかった。

 ずっと、ただ本を読んできただけ。

 それでもずっとここにいるわけにはいかないから、仕事を探して一人で生きていく術を身に着けなければ。

 

「あなたは」

「はい?」

「あなたも自分が嫌いなのだな」

「え……?」

 

 自分が嫌い? あなた“も”?

 

「いや、気にしなくていい。捜査が進んでまた聞きたいことも出てくるだろう。体調の検診もしなければならないので、まずはゆっくり体を休めてくれ。夕飯は一緒に食べよう。今までのあなたの生活の様子を聞けば捜査の役に立つ情報もあるかもしれない」

「そうでしょうか……? いえ、わかりました」

 

 フェグル伯爵とは、確かに毎日食事の時間は一緒だった。

 思えばなかなか僕には理解のできない話もしていたように思う。

 聞かれたことに応えるだけなら今でもいいように思うけれど、カウフマン様は立ち上がるとコートを羽織って談話室を出ていく。

 お忙しいから、僕の話を聞く時間を取りつつ食事を、ってことなのかな。

 しかしこの人僕相手にもまったく取り繕わないというか……建前もなく全部話してくれる。

 僕が貴族らしい教育をまったく受けてこなかったから、言い回しや“話さない”ことをせずに全部話してくれるのだろうか?

 ……やっぱり、優しくて誠実な人なのだな。


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