第2話 令嬢のディナー戦
「ただいま」
玄関で声を出してみたけれど、返事はなかった。予想通りだ。両親は共働きで今日は遅い予定だったし、弟の
靴を脱ぎ、リビングに入って照明をつける。ふわりと電気の光が部屋を照らし出した。
「……よし。今夜こそ、優雅に食事をいただきますわ」
誰もいない部屋で、深雪はそっとドレスの裾を広げるような仕草をしてみせた。もちろん、着ているのは制服のままだ。だけど、気持ちはフリルたっぷりのシルクのドレス。これはただの夕食ではない。未来の令嬢が挑む、マナーの修練なのだ。
ブレザーを脱いでハンガーに掛け、手を洗ってから冷蔵庫を開ける。中には母の
「ハンバーグに、サラダ……スープまである!」
まるで、夕飯のメニューにまで令嬢修行の後押しをしてもらっているみたいだ。
その隣にはメモが貼られている。
《チンして食べてね。 お母さんより》
「ふふっ、ハンバーグ……きたわね。王族の食卓に供される高級挽肉料理!」
異世界だったら、絶対そういう設定の料理があるに違いない。そう勝手に脳内変換しつつ、深雪はラップの端をめくって、電子レンジにセットする。チーンという音が鳴るまでの間、キッチンの引き出しを開け、フォークとナイフを探した。
ところが――。
「……ない。あれ? ナイフどこ?」
包丁スタンドには、普通の包丁と小型のペティナイフ。食洗機の中にもそれらしいナイフはなし。引き出しを開けてみても、入っていたのはお箸、スプーン、フォークの他に、小さな果物ナイフのみ。ナイフだけ消えた。謎の単独逃走劇。
食器棚の奥までごそごそ探してみたけれど、どこにもない。
「まさか……我が家には、ナイフが一つもない?」
深雪の脳裏には、貴族のディナーシーンで完璧なカトラリー操作を披露する未来の自分が浮かんでいたのに。ドレスを着て、にこやかにフォークを持ち、ナイフで肉を美しく切る姿……そのイメージを崩すわけにはいかない。
「……ならば、代用品しかありませんわね」
深雪は決意して、引き出しから取り出した。
それは――果物ナイフ。
全長十五センチほどのコンパクトなボディに、細く尖った刃。柄の部分に少し剥げたりんごのイラストがついているのが、やや庶民的すぎる気もするけど……ないよりマシ!
なにより、リンゴの皮が剥けるくらいなんだから、ハンバーグなんてかる~く切り刻んでくれるに違いない。
「ちょっと短いけど、きっと手に馴染むはず。むしろ、令嬢の華奢な指先にぴったりですわよね」
誰に言うでもなく、自分に言い聞かせながら、ご飯をお茶碗に盛りつけて、深雪は椅子に腰をおろした。テーブルに並べてみると、それなりにディナーっぽく見える。
白いプレートの中央にどん、と鎮座するハンバーグ。その横には湯気をたてるにんじんグラッセとブロッコリーが控えている。まるで舞踏会の舞台に立つプリマドンナと、その脇を固める貴族の面々。
「さて……参りますわよ。ハンバーグ、覚悟なさい」
深雪はナプキンを膝の上に広げ、フォークを左手、果物ナイフを右手に持った。
姿勢よく背筋を伸ばして、プレートに向かう。
ハンバーグの中心に、そっとナイフを当てる。
――ぐっ。
「ん……? なんか……あれ……? ちょっと………………固いですわね」
にじむ肉汁、しかし上手く切れない。
気合とともにナイフを下ろすが……問題が起きた。
「あっ!」
ハンバーグはするりと身を翻し、プレートの端へころんと転がった。力を入れていた果物ナイフの刃先が、プレートに当たってガシャンと音を立てる。
「しまった! 音を立てるのはマナー違反なのに! それにしても……なんて……機敏な肉!」
慌ててフォークで押さえつけ、もう一度チャレンジ。今度は斜めから刃を入れてみる。
――ビシャッ。
弾ける肉汁。白いシャツの胸元に、茶色い点が飛んだ。
どうにも上手く一口大に切れない。切るというより、断面を押し潰しているようになって、無残にボロボロ崩れてしまっている。
「おのれハンバーグ……ハンバーグの分際で、いい度胸してますわね!」
まさかの防御能力に、深雪は果物ナイフを持った手をプルプル震わせながら、ふたたび構えた。
そのときだった。
「ただいまーっ!」
玄関のドアが開く音。続いて、無防備な足音が廊下をどたどたと近づいてくる。
やばい――拓真だ!
と思った瞬間、ドアが勢いよく開いた。
「ねーちゃん聞いて! 今日は加藤んちで宿題してからゲームしてさー、そんでね、そのゲームが……」
拓真は、そんな報告をしながらリビングに入ってくる。そして、食卓に座って果物ナイフとフォークを握りしめている深雪の姿を目撃した。拓真は、信じられないものを見た、という表情で深雪を見つめてくる。
「……ねーちゃん?」
「な、なに?」
深雪は拓真の驚いた表情に、慌てて果物ナイフを隠そうとする。しかし、時すでに遅し。拓真は大きく目を見開いて、深雪を指差した。
「……って、うわっ……ねーちゃんが包丁でハンバーグ食ってるぅーーー!?」
その絶叫は、ほぼ金切り声だった。
「ち、違うのよ拓真! これは果物ナイフであって、決して包丁なんかでは――」
「どこが違うんだよ! 先っぽ尖ってるし、血ぃ出てるし! いや、肉汁か!? でもこわっ!」
「だからそれは料理の汁であって、私がなにか犯罪的なことをしてるわけじゃなくて――!」
「お母さーん! ねーちゃんが包丁でごはん食ってる! 助けてー!!!」
「拓真! 冷静になって! 令嬢としての私の立場を考えて! っていうか、お母さんはまだ仕事から帰ってないでしょ!」
「あ! そっか! じゃあ電話する!」
「ちょっ、電話はやめなさい!」
「お母さん! お母さん! ねーちゃんが包丁でハンバーグ食ってる! すっごく怖い顔して!」
深雪の叫びもむなしく、拓真はリビングに駆け込んでスマホを手に取り、母、香苗に緊急通報を始めた。
二十分ほど経ち、玄関のドアが勢いよく開かれた。
「深雪! 大丈夫?」
香苗が息を切らして駆け込んでくる。仕事中だったにも関わらず、慌てて帰宅してきたのだ。
「お母さん、お疲れさま……」
深雪は申し訳なさそうに頭を下げる。リビングを見回した香苗は、散らかったお皿と果物ナイフを見て、安堵の表情を浮かべた。
「なんだ、果物ナイフじゃない。拓真が『包丁で』って言うから、何事かと思ったわ」
「お母さん、でもね、ねーちゃん変だったよ! すっごく真剣な顔してナイフ握ってたの!」
拓真の証言に、香苗は改めて深雪を見つめる。
「深雪、なにしてたの?」
深雪は少し恥ずかしそうに答えた。
「これはマナーの練習ですの。わたくし、令嬢を目指しておりますのよ」
その瞬間、リビングに沈黙が流れた。香苗と拓真が、ぽかんとした顔で深雪を見つめている。
「……おなかすいてるなら、そう言いなさいよ」
香苗が最初に口を開いたのは、そんな言葉だった。
「そっち!?」
深雪は思わず叫んだが、香苗は苦笑いを浮かべながら頭を振る。
「まったく、変なことするから心配したじゃない。普通に食べなさい」
「でも、令嬢としてのマナーを身につけないと……」
「令嬢になる前に、まずは普通の食事ができるようになりなさい」
香苗の言葉に、深雪は少し落ち込んだ。確かに、今日の練習は失敗だった。令嬢どころか、普通の食事すらままならない有様だった。
「ねーちゃん、令嬢ってなに?」
拓真が首をかしげながら聞いてくる。
「えっと……お姫様みたいな人のことよ」
「ふーん。じゃあ、ねーちゃんお姫様になりたいの?」
「そ、そうよ! 悪い?」
深雪が少し意地を張って答えると、拓真は純粋な笑顔を浮かべた。
「いいじゃん! でも、ちゃんと食べられるようになってからにしなよ」
拓真の素直な応援に、深雪の心は少し温かくなった。そして、香苗も微笑みながら頭を撫でてくれる。
「夢を持つのはいいことよ。でも、危ないことはしないでね」
「はい……」
深雪は素直に頷いた。今日の練習は失敗だったが、家族の温かさを改めて感じることができた。
その夜、深雪は普通の箸でハンバーグを食べながら、明日への決意を新たにしていた。令嬢への道は確かに険しいが、決して諦めるつもりはない。
ただし、今度はもう少し安全な方法で練習しよう。そう心に決めた深雪だった。
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