幻の丹波王国

 豊岡道の氷上ICを越えて目指すは遠坂峠だ。氷上の市街地を抜けたらバイク乗りが大好きな快走ルートになってきたぞ。今走ってるのは丹波の森街道で、県道七号なんだけど、並行して国道四八三号が走ってる。


 それが豊岡道なんだけど、舞鶴道の春日ICから但馬空港まで続く自動車専用道なんだよね。豊岡道ってバイパスみたいなもののはずなんだけど、バイパスなら旧国道があるはずじゃない。でもこれがちょっと変わってて、最初から自動車専用道として作られてる。


 お蔭でモンキーには無縁の道になってるのだけど、同時に氷上から青垣を結ぶ下道の国道がないんだよ。だから丹波の森街道も県道七号だ。クルマにとっては便利なんだろうけどモンキー乗りにとってはなんかコンチクショウだ。


「その代わりに丹波の森街道は空くからエエやんか」


 ぐむむむ。お決まりのツーリングの本道は下道にありの呪文を唱えておこう。道に並行してる川は、


「加古川や」


 へぇ、加古川ってこんなところから流れてるんだ。でもそうのはず。遠坂川は加古川の支流だものね。


「道の駅で休憩や」


 賛成。三田のコメダからかなり走ったもの。それにしても、こんなところにも道の駅があるんだな。生理現象の解消を済ませてから、但馬と丹波の街道のミステリーの話題だ。


「まずやけど・・・」


 へぇ、丹後が丹波から分かれた国なのは国名でわかるけど、古代丹波って但馬まで含んでいたのは初めて知ったよ。そんなに広い国だったんだ。でもどうして三つに分かれたの?


「吉備と同じ理由とする説がある」


 吉備って吉備団子の国だけど、これが備前、備中、備後、美作に分割されてる。そうされたのは古代吉備王権を大和王権が征服して分割統治にしたからなのか。吉備と古代丹波が同様ってことは古代丹波にも王権があったってこと?


「丹波王国論としてあるねん」


 丹後王国とも言うらしいけど、丹後が丹波から分割されたのは平城京に遷都された頃だし、丹後の王国と言うより丹波まで含む王国とコータローは考えてるみたいだから丹波王国と呼んでるようだ。


 四世紀から五世紀ぐらいに存在したって言うけど、ムチャクチャ古いじゃない。六世紀ぐらいに大和王権が出雲王権を征服した時に滅んだされてるというけど、その辺の時代は古事記でも神代の時代の話じゃないの。


「本当に存在していたかどうかの議論もあるらしいけど、宮津の周辺には丹波王権由来の古墳があるとしてる主張はあるねん」


 当時の先進地帯は大陸だから、宮津が玄関口だったのかもしれないな。ん、ん、ん、古代丹波王権って宮津が都だったの?


「だから論やと言うてるやん。そやけど仮に宮津に都があったら、南に進んだら丹波やし、西に進んだら但馬に思えへんか?」


 地図が、地図がって感じだけど、中心が宮津と考えたら水分かれ街道を南下して行ったら丹波になるし、岩屋峠を越えれば但馬の出石ぐらいに出るよな。そうなるともしかして律令時代の官道の設定はこれを踏襲していたとか。


「可能性だけはあるけど、これもようわからん」


 幻の丹波王権だものね。それでも宮津が古代の先進地帯であったとしても良さそうだ。だから丹波から分離されたのかも。そうだそうだ、丹波王権は大和王権の出雲遠征の時に滅ぼされたってなってるけど、それってもしかして、


「その説が正しいとしての話になるけんど」


 大和王権が丹波王権を滅ぼしたのは隣接する王権だったからがまずあるとは思う。近隣諸国を切り従えて勢力を拡張するのは今も昔も常套戦略だものね。でもそれに出雲遠征が絡んで来ると少し様相が変わってくる。


「近いとこをまず抑えるのは戦略の王道やねんけど、出雲絡みになると攻撃ルートの確保の意味合いも含んどった可能性が出て来るわ」


 古代丹波から出雲を目指すとなるとやっぱり古代山陰道か。


「オレもそう思うねん。大和王権の出雲征服は国譲り神話として残されてるけど、談判したんは稲佐の浜やん。神話やったら神様がいきなり舞い降りてるけど現実は歩いて行かなあかんやんか」


 当時の街道と言うか道がどうなってかなんてわからないけど、やっぱり王権があったところに通れる道があったはずだ。丹波王権なら少なくと但馬への道があったはずだから、遠坂峠を越え、古代山陰道で出雲を目指したはあり得るかも。


 大和王権による丹波侵略だけど、大和王権は奈良に都があるから、丹波を目指すとなればやっぱり古代山陰道ルートになるよな。そうなると亀岡から天引峠を越えて篠山盆地に前進基地ぐらいを作りそうだ。


 古代丹波王権の広がりも想像でしかないけど、宮津が都なら水分かれ街道で春日の方に進出し、氷上から、


「但馬も版図やから遠坂峠を越えて和田山にも勢力を広げとってんやろ」


 そこに大和王権が篠山盆地にまで進出して来たら多紀連山を挟んでにらみ合いてな感じかな。


「大和王権軍は佐仲峠を越えたんかもしれん」


 都が宮津ならそうなるか。ただそこで雌雄を決する大決戦が行われたかどうかは疑問だって。根拠はまたもや出雲の国譲り神話だって。国力としては大和王権軍の方が上だから、佐仲峠を越えて宮津に進軍する途中で和平交渉が行われたのじゃないかとコータローは見てるよう。


 これは当時の国力、交通手段のプアさ、さらに統治機構だって貧弱だから、戦国時代みたいな領土の併呑みたいな様相じゃないと見てるぐらい。


「貨幣なんか影も形もない時代やし、米を運ぶのも冗談みたいな算数になるで」


 米は江戸時代まで税金の象徴みたいなものだけど、運ぶとなればとにかく人手が必要なんだよ。要するに米を運んでる人も米を食べるってこと。米は食料だからね。往復で運ぶ人が食べる量を差し引いたら、どれだけ運べるかって話になるぐらい。


「それとやけど、いくら米をかき集めてもしょせんは米や」


 江戸時代がわかりやすいけど、武士の給料は米だけど、米を換金して暮らしてた。でも米を換金するにも貨幣自体が存在しないし、商品経済だって神代の時代だ。でも大和王権は丹波に攻め込んでるけど、


「名を取っただけやと思うてるねん。千草にわかりやすいように言うたら、江戸時代の大名みたいなもんや」


 江戸時代の大名はすべて将軍の家来とされてるのだけど、その領地の自治は完全に任されていて、わかりやすく言えば、大名から幕府への税金は無いし、大名領から幕府は税金を取れないんだ。そっかそっか、江戸時代でもそうだから、


「丹波王権は降伏して大和王権の家来である大名になったぐらいや」


 家来の大名だから次の出雲遠征のために兵力とか食料の提供はさせられたと言うか、そのために大和王権は丹波に進出した事になる。


「これで大和王権は丹波から但馬、さらに因幡へのルートを手に入れて出雲に進んだんちゃうか」


 国道九号は鳥取県に通じてるものね。そう考えると古代山陰道の始まりは出雲遠征のための軍事道路だったのかもしれない。そうなると丹後支道の歴史も古いなんてものじゃないよ。


「これも想像に過ぎんねんけど、古代丹波王権の都が宮津やったら、その時代の多紀連山を越えるメインの街道は佐仲峠やったかもしれん」


 宮津を中心に考えると佐仲峠が篠山に出る最短ルートになるのか。これが出雲を目指す大和王権時代になると、佐仲峠では遠回りとされて、瓶割峠、さらには鐘ヶ坂峠と西にシフトして行ったぐらいかな。


 佐仲峠も律令時代には官道として維持されてたのは文献からもわかるけど、多紀連山を越えて西に進むルートは鐘ヶ坂峠に重心が移って行き、江戸時代ぐらいにはそこだけって感じなったで良さそうだ。千草の中では瓶割峠と鐘ヶ坂峠の問題は納得できた気がする。


 但馬が丹波からいつ分離されたのかもはっきりしないそう。定説では七世紀となってるそうだけど、根拠は日本書紀に初めて但馬国の文字が出て来るからだって。これって、


「天武天皇の時代やねんけど、それから言えるのは、その時には但馬国があったぐらいで、そのどれぐらい前に正式に分離したかはわからへんねん」


 もし記録されているとするなら但馬風土記か丹波風土記になるだろうけど、どっちも残ってないものね。


「そろそろ行こか」


 次は遠坂峠だ。

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