業の女(長編没案)

''順風満帆。家給人足。そんな人間がこの世に何人存在してんだろうね。十人に一人?百人に一人?もしかしたら一億人に一人だったり?

少し真剣に考えてみたけど,私には正確な人数比なんて分かんない。全人類と会って話したことがある訳じゃないし。分かる人間がいたら教えて欲しいもんだけど,全人類幸せになれる権利があるだとか全人類不幸せだとかそんな意見しか返ってこなさそうだよね。ほんとやんなっちゃう。

もしその答えが分かったら,この日記帳の最後のページに書くつもり。問題は書き終わるまでに答えが見つかるかどうか,だけど。全人類どころか日本人全員と会うことも現実的じゃないし。私はただの一般人だしね。

まぁ,どうするかは後々考えることにしようかな。この日記帳が書き終わるまでに,随分と長い時間があるんだから。

                  M''


女性Mはボールペンを机の上に置いた。窓にかかるカーテンの外は暗く,部屋の明かりは机の上にある小さなランプの微かな光しか存在しない。

Mは少し身震いをした。もう師走に入り,気温も十度を下回ることが大半だった。暖房さえつけていない部屋で,Mが寒さを感じるのも当然のことであった。

皮膚同士が擦り合う音が部屋に響いた。Mの両手が互いの手を撫でる。速さもないその行為は摩擦熱さえ生まなかったが,Mはそれでも構わないとでも言うように再びボールペンを手に取った。

''十二月十日 月曜日 曇り

今日は最悪の月曜日だったわ。大晦日前だからかクリスマス前だからか知んないけど,とにかくみんな忙しない。やれ早くこれをしろだのやれなんでこれが終わってないだの,上司のAはことあるごとに部下を罵ってやりたい放題。終わってなくて当然じゃん。普段よりも三倍も多い仕事を任されているのに,普段と同じ時間に終わるわけがないでしょ?

にしても,同期のEには感心したな。持ち前の可愛さを活かして男性社員に上手いこと仕事を頼んで。いや,押し付けていたの方が正しいかな。全く,男も馬鹿だよね。女の可愛さに負けて自分が苦労する道を選ぶなんて。彼女が裏で悪口を言っていること,気づいてんだかいないんだか。まぁ,どうでもいいけどね。

「私は可愛いから何やっても許されるのよ」なんて自慢げに言ってたけど,あれはきっといつか痛い目見るだろうね。まぁ,そんなことを言ってあげるほど私は優しくないし,Eに対して特別な感情を抱いていないんだけど。痛い目を見たところで自業自得だし,私にはなんの害も無いもん。

普段からピリピリしてるLさんも、イライラが極まってたな。「なんなのあの女は。こちとら残業確定だってのにどこ行くつもり?」とかあからさまな嫌味を口にしては貧乏ゆすりをしてた。EはそんなLさんを見てしたり顔。Lさんは余計に顔を歪めてたな。腹が立つなら口にしなきゃいいのに,Lさんは。

まぁ当然の如く私も残業することになった。しかも確定サービス残業。ほんとたまったもんじゃない。Eが定時上がりした時に「お疲れ様ですLさん」なんてわざとらしく言うもんだからLさんはずっと男性社員に八つ当たりしてたし,ほんと空気は最悪だった。

そんな劣悪な環境をすごして会社を出れたのは零時前。終電逃しそうになって慌ててみんなで会社を出たはいいものの,Lさんが家の鍵を会社に忘れたとか言い始めて結局みんな終電を逃す羽目になった。徒歩勢でよかったと少し安心してしまったのは内緒にしておかないと。''

Mはボールペンを置いて電気を消した。手探りでベッドの中に潜り込んで目を瞑る。

どこかで犬が遠吠えをした。

翌日の晩。Mは机に向かってボールペンを握った。日記帳を開いてページをめくる。

''十二月十一日 火曜日 晴れ

今日は最悪の一日だった。仕事が減ることはもちろんなく,昨日はいなかった先輩のYが出社してきた。今日も休みでいてくれたらと思ってたのにな。Yが顔を出した瞬間,多分全員が眉を顰めたと思う。

Yはまず一番にEに声をかけに行った。「今日も可愛いじゃん」なんてニヤニヤしながら言って,無視されてた。男に媚びを売るのが得意なEだけど,Yにはいい顔をする気は一ミリもないらしい。後で私に「ほんとうざいわあのセクハラクソジジイ。あいつに言われたって嬉しくないっての。つか胸ばっか見やがって気づかないとでも思ってんの?」とかってキレていた。Eには基本的に敵対心むき出しのLさんも流石に同情してたな。

AはそんなYは気にもかけずに相変わらずありえない量の仕事を平然と机の上に置いていきやがった。Eは変わらず男性社員に上手いこと擦り付けてたけど。YはYで男性社員に押し付けてたし,なんて言うかほんとお疲れ様。被害被りたくないし,変わってあげるなんて絶対にしないけど心の中で同情だけはしておく。

Yが私の仕事を変わろうか,なんて言ってきたけど流石にそれは断っておいた。後でなんかしら請求されてもやだし。こういうのはガン無視定期。Eもそこはちゃんと選んでるようで,Yには頼んでないみたいだった。隣で作業しながら,「あのセクハラクソジジイに頼むくらいなら自分でやるわ」なんて言ってた。Lさんも「それが正解」って頷いてた。共通の敵がいるとこうも仲良くなるものなのか。

今日の残業は珍しくEが残ってた。Yが定時で帰るなら少し残って仕事する方がマシなのだそう。帰り道が途中まで一緒だから嫌なんだと言っていた。まぁそういう理由だから,最後まで残るなんてことは当然なく三十分過ぎたらさっさと帰っていってしまったけど。

今日は何とか二十三時前に上がれた。明日はもっと早く帰りたいところだけど,叶う未来は到底見えない。今日は体力回復のために早く寝なければ。''

Mはボールペンを置いて電気を消した。小さく息をついて伸びをする。時間を確認しようとスマホに手を伸ばして,首を横に振った。暗闇になれた目を頼りに,ベッドの中に潜り込んで目を瞑る。

また遠くで,犬が遠吠えをした。

次の日も,また次の日もMはボールペンを握った。

これは女性M氏の日記を一部抜粋して表した,女性Rの人生である。

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