第6話「嘘ついてごめんっ」
予備校の帰り道、色とりどりのネオンがまばたき、夜の闇を切り裂くように視界の端で揺らめく。
甘ったるい香水の香りと、酔客のくぐもった笑い声が、湿り気を帯びた夜の空気にまとわりつく。
私はそれらを振り払うように、足早に駅へ向かった。
私が指定した駅の入口。
その隅、街灯の光が届かない影の奥に、
普段は先生に目を付けられないくらいの最低限に留めているのに、今夜の彼女はまるで雑誌の一ページから飛び出してきたかのように洗練されていた。
ブラックのスキニーパンツがしなやかな脚のラインを強調し、ウエストを絞ったシャープなジャケットが都会の夜に溶け込む。
雑踏を眺めるその物憂げな表情さえ、映画のワンシーンのように見えた。
彼女のことを知らない人が見たら大学生か社会人と誤解するんじゃないだろうか。
時間帯が時間帯ならスカウトされてたんじゃないかなという気すらする。
ただ、その服装がどうしても引っかかる。
あの夜、見かけてしまった彼女の姿――私の知らない誰かと親しげに歩く彼女と、今目の前にいる彼女の雰囲気が、妙に重なって見えた。
きっと偶然――そう思い込もうとする。
けれど、胸の奥にひそむ不安がざわめき、まるで細い氷の刃が心臓の表面をなぞるように、じわじわと冷たさが広がっていく。
別に服装に深い意味なんてないはずと自分に言い聞かせると、私は話しかけた。
「お待たせ」
私の声に、さっきまで
しかし、その光は一瞬で
まるで舞台役者が、スポットライトの下で表情を作り直すように。
「こんな時間まで……誰と一緒だったの?」
表情と声のトーンが一致してない。
いやまあ一応、無機質な笑顔と無機質な声で合ってはいるけど、仮にも笑顔なら声もそれに合わせたものにしてほしい。
今の和泉の声は明らかに不機嫌なのが伝わってくるぐらい低く重かった。
「いや、別に……」
「ここだと邪魔になるし隅の方行こうか。ね?」
彼女はそう言うと、私の返事も聞かずに慣れた手つきで私の背中に手をまわした。
好きな人なら最後の「ね」の言い方を可愛いと思ったりするのだと思う。
ただ彼女の可愛さとは対照的に、逃げられないように背中どころか片腕まで抑えられているこの状況は全く可愛くない。
これで目深にフードを被っているか、頭を隠すような布を掛けられていたら完全に護送車に乗せられる前の被疑者だろう。
笑顔のままの彼女に促されながら人通りの少ない通路まで連れていかれると、壁際まで追い詰められた。
「……で、誰と会ってたの?」
形式上は疑問形だ。
だが、和泉の低い声には「言え」という命令の響きしかない。
だとしても言いたくはない。
言ってしまったらここまで隠してきた意味が完全になくなってしまう。
私は彼女の圧に負けかけて目を逸らすと、現時点で出来る最大限を強がりを言った。
「
和泉は私の頬に手を添えて、無理やり顔を正面に向かせると、目を見つめてきた。
彼女の瞳には一切の感情が宿っておらず、その奥に何があるのか読み取ることはできなかった。
このままキスでもされるんじゃないかというくらい彼女と見つめあっていると、ようやく彼女は口を開く。
「私彼女なんだけど」
そんなことは言われなくてもわかってる。
だからってなんでも教えるわけないでしょ……。
それに和泉だって、私の知らない誰かと夜歩いていた……。
そう言いたいのを堪えると、私は言った。
「麻央が気にしてるようなことはしてない……」
実際のところ今私がしているのは隠し事なだけで、彼女に
和泉からしたら隠し事も嘘も大差ないと言われるかもしれないけど、一応恋人として彼女のことを裏切っていないという最低限の体制は保っていると思わせてほしい。
「なら、教えてくれてもいいよね?」
「それは……」
和泉は大きく息を吐く。
さっきの作り笑顔が霧散し、視線を落としながらギュッと拳を握る。
それから、ひと呼吸おいて、低く搾り出すように言った。
「じゃあ私も他に恋人を作って遊んでいい?」
「なんでそうなるの?」
「いいって言ってくれればもう文句言わない。寂しくなったらその人のところに行くから」
そう言う間彼女の握った手は小さく震えていた。
……変わってないな。
和泉は小さい頃から思っていることと反対のことをする時は、いつも血が出るんじゃないかというくらい強く手を握り締めていた。
自分の好みじゃない曲に進まなきゃいけない時とか、まだ遊びたいのに家に帰らなきゃいけない時とか。自分が絶対に悪くないのに謝らなきゃいけない時とかよくこうなってたっけ。
懐かしい気もするけど、のんきに思い出にふけっているわけにはいかない。
無理はしているけど、彼女は恋人作るって言うのは本気だ。
やりたくないとは思っていても、手を握り締めて我慢した後は必ずやっていた。
高校に入ってから全く話してなかった私に恋愛の良さを教えろと言ってくるくらい行動力があるんだ。
私への当てつけのためだけに作っても何ら不思議じゃない。
まあ隠してる人を紹介されるだけって可能性も否定できないけど。
ただ最悪なのは、前者の可能性だ。
普段の彼女を考えれば、恋人の一人や二人、簡単に作れるだろう。
そして私も一度意識してしまったから、和泉が誰かと仲良くしているのを見たら無意識に目で追ってしまう。
誰かと仲良くしている彼女を見て、あれが代わりの恋人だろうかなんて想像したくない。
私の見栄と、拭えない嫉妬。
天秤にかける以前にどちらを選んだ方が私にとってマシかぐらいわかる。
「ごめん」と小さく
「予備校行ってた」
「予備校って?」
彼女の表情からは嘘でしょと言いたいのがありありと伝わってきた。
まあそう思いたいのはわかる。
私ももし全く勉強しなくて遊びまくってるという噂の人が予備校で勉強してたと知ったら、同じような反応をすると思う。
それが誰かと遊んでいるせいで、自分に時間を割いてもらえないと思ってるならなおさらだ。
私は財布の中から塾生証を取り出して彼女に見せた。
「今日講義だったの、さっきまでずっと」
「じゃあ誰かと会ってたりとかは……」
「恋人とかそういう人とは会ってない。ただ講義受けてただけだし」
「そう、なんだ……」
「疑うなら確認する?」
時間的に戻ればまだ誰かいると思うし、入退館記録ぐらい頼めば見せてもらえるだろう。
まあさすがに一緒の講義取ってる人と……なんて言われたらどうしようもないけど。
和泉は手に取ってまじまじと見ていた塾生証を返すと、頭を下げた。
「大丈夫。疑ってごめん」
「いいよ私も隠してたし」
これで和泉の中での私の価値は、どう変わったのだろうか。
まあ遊んでいるという噂を否定したわけではないから、変わってないかもしれないけど、こんな時間まで勉強してあの程度かと思われたんじゃないかと不安になる……。
幸いなことに彼女の表情からは失望の色は見えないけれど、今にでも現れるんじゃないかと思うと心臓が締め付けられているのかというくらい痛かった。
『やっぱり貴女には無理ね、諦めなさい』
もう誰に言われたかも思い出せない、ただ子供の頃明らかに私に対して向けられた失望が蘇ってくる。
私だってやれば一番ぐらい取れる。
やめて次はもっと上手く弾くから。
「
気が付くと和泉は私の顔を不安そうにのぞき込んでいた。
「大丈夫。ごめん、隠してて……」
和泉があの時なんで私に声を掛けたのかわからない。
もしあの時順位に不満を言っていた人が三位の人だったら、その人を同じように誘ったのだろうか。
私があの時文句の一つも言わず帰っていたら、和泉は私の知らない人と付き合って、勝手に一位から落ちてくれたのだろうか。
私じゃなきゃいけない理由が思い浮かばない。
けど、一度声を掛けてもらってから彼女の期待は裏切りたくないと思ってしまう。
和泉にまで失望の目で見られるのは嫌だ。
「大好きだよ」
彼女は人目も
「ごめん」
今の私は彼女の期待に応えられている気がしない。
勉強も中途半端だし、とてもいい彼女とも言えないだろう。
私が手を持っていく場所に困っていると、彼女は言った。
「私が彼女って忘れないでね」
そう思いたい。けれど、胸の奥に巣食う不安は、まるで
今の私が、和泉の隣にいる資格なんて、本当にあるのだろうか。
いつか、彼女の口から「もう別れよう」と静かに告げられる日が来るのではないか。
そんな悪い予感が、足元からゆっくりと浸食していく。
氷水を注がれるように、心の奥がじわじわと冷たくなっていった。
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