第4話「まだ弾けるなんて聞いてない」
ダメだ……頭から離れない。
昨日キスをされてから、私の頭の中には
和泉の体温がすぐそばにあったあの瞬間——甘い香りが鼻先をくすぐり、柔らかな髪が肩に触れた感触。
少しでも気を抜けば、一瞬で蘇る。
キスされたあと逃げるように帰ってきてしまったが、和泉からは文句どころかなんのメッセージも送られては来なかった。
もしかしたら彼女はキスした時点でこうなることを織り込み済みだったのかもしれない。
学校での和泉は、まるで何事もなかったかのように過ごしている。
目が合っても、彼女の表情は変わらない。
ただ見つめられると、心臓が嫌な音を立てる。
何か言うのかと思っても、彼女は何も言わずにふいっと目を逸らす。
授業だって彼女がクラスの中心に席があるせいで、窓際後方の私の席からは観察し放題だ。
だけど、こっそり観察する限り彼女はいつもと変わらないように受けているように見える。
まあ今まで彼女がどんな態度で授業を受けていたかは知らないけど、少なくとも周りが騒いでいないってことは、大きな違いはないんだと思う。
私よりも、普段の和泉をよく知る人はたくさんいるだろうし。
それに――。
あ、ペン落とした——。
拾う瞬間、また目が合った気がして、慌てて視線を校庭のほうに逸らす。
……なんで私、こんなに意識してるんだろう。
「意識してる」なんて認めるのは悔しいけど――でも、あんなことをされて、何も感じないほうがどうかしてる。
昨日の感触が、息遣いが、頭の中に焼き付いて離れない。
のくせ、まるで「キスなんて日常ですけど?」みたいに、何事もなかったように過ごしてるのがムカつく。
和泉さんはキスし慣れてるのかもしれないですけど、私は初めてだったんですよ。
まあこんな嫌味の結晶みたいな言葉、本人向かって絶対に言えないけど。
その代わりせめて少しは私のことを意識して、授業に集中できなくなればいい。
そんなちょっとした意地悪な願いを込めながら、私はスマホの画面を見つめ、指を動かした。
『昼休み二号館の音楽室に来て』
休み時間にでも確認するだろうと思っていたのに、私が画面を消す間に既読が着く。
はやっ。
そのすぐ後には猫のOKと描かれているスタンプが送られてきた。
◇
「やっば。こんなに遅くなると思わなかった」
昼休みも少し過ぎたころ、私は二号館へつながる渡り廊下を走っていた。
ちょっと友達にお昼別のところで食べると言うつもりが引き留められて、気が付いたら十分も経ってしまっていた。
絶対和泉待ってるよね……。
息を切らしながらなんとか音楽室の前に行くと、彼女はいた。
「ごめん。待たせた」
「大丈夫、私も今来たところだし」
肩で息をしている私とは対照的に、彼女はいつもと変わらない様子で話しかけてくる。
友達と話しながら視界の端に捉えていた彼女は昼休みが始まってから一分もしないうちに教室から消えていた。
それに、普段こんな場所私以外誰も使ってないから結構ホコリが溜まっているのに、和泉と同じくらいの上履きの跡がドアの前に沢山ついていた。
絶対ずっと待ってたでしょ。
それでも、ちゃんと来てくれたのは、嬉しい。
ただなんとなく、試したと思われなくてよかった、なんて考えていた自分がいたことも自覚して、少しムカつく。
私だけいつも振り回されるのは、不公平だし。
「それで、なんの用?」
そう尋ねてくる彼女の声はいつもと同じようでいて、どこか探るような響きがあった。
「いやー用っていうか、ただ会いたいなーって思って」
私は昨日「好きな人に会いたかったから?」と言われた場面を思い出しながら和泉に詰め寄る。
私が下から微笑むと、彼女もわずかに目を細め、静かに微笑み返した。
「それで……。昨日は、ごめん。あと今も遅れて」
「大丈夫」
和泉は私が遅れたことでも大分不安にさせてしまっていたようだ。
独り待っていた時と比べて大分表情が緩んだ気がした。
「とりあえず、入ろうか」
「入れるの?」
「鍵持ってるしね」
私は木でできた第二音楽室と張り付けられているキーホルダーを彼女に見せると、鍵を開けた。
音楽室に足を踏み入れると、ひんやりとした空気が頬を撫でた。
壁を取り払って2教室分の広さのある部屋の真ん中に、黒く艶出しされグランドピアノが鎮座している。
高い天井、わずかに古びた木の香り、閉じ切ったカーテンが作り出す静寂。
——ここは、いつも独りでいるために音楽の先生に貸してもらえた特別な場所だ。
ただ彼女はなんで私がここに呼んだのかわからないのか、きょろきょろと部屋の中を見回していた。
まあ初めて来る教室だろうしそれもそうか。
ピアノはやめてしまったし、今振り返ってもあまりいい思い出はないけど、それでもたまに弾きたくなった時に頼んでいたらいつの間にかずっと持っていていいと言われてしまった。
和泉には独りになりたいときに来ていた部屋を使わせてあげるんだから、感謝してほしい。
ただまあここに入れてあげた理由は、少しは私のことを意識して授業をおろそかにしてほしいっていう完全なる私欲だけど。
私はドアの鍵を閉め、カーテンを引くと「
私の呼びかけに和泉の眉がわずかに動き、彼女の顔にはさっきはなかった不安そうな色が浮かんでいる。
私が何かを言う前に彼女は言った。
「ピアノまだ弾くの?」
「もう弾いてない。知ってるでしょ」
「そう。弾いてもいい?」
和泉は残念そうにため息を吐くと私の返事も聞かず鍵盤蓋を開けた。
「麻央?」
——言った瞬間、鍵盤に彼女の指が触れた。
さっきまで一号館の喧騒がうっすら聞こえていた部屋の中に、和泉の生み出す柔らかく、迷いのない音が響く。
初めの内は何の曲かわからなかったけど、彼女の綺麗な音に引きずられるように、記憶の奥底から嫌な記憶が湧き上がってくる。
……やめて、そんなの弾かないで。
なんでよりによって……。
さっきまで和泉のことを見ていた視線を床に落とすと、最後の一音を引き終わった彼女が口を開いた。
「なんで私の前から消えたの?」
「……覚えてない」
そう訊いてくる和泉からは責められているようには思えない、それよりも純粋に気になるという感じだ。
けど二人きりの逃げられない場所で聞かれると、キリキリと胃が締め付けられる。
「あの時の私、なにか
「だから……覚えてない」
「ねえ前みたいに褒めてよ。上手く弾けたでしょ」
前みたいに、か。
彼女に見つめられると、身体が石になったように動かなかった。
上手く弾けたのはわかる。
最後に聴いたときよりも何倍も。
きっと日ごろから練習していたんだろうというのも伝わってくる。
けどなんで、私が投げ出した課題曲を……。
小学校の頃、和泉と私は同じピアノ教室に通っていた。
別々の学校に通っていたけど、レッスン時間が近かったのと同学年ということで私たちが仲良くなるのにそう時間は掛からなかった。
一方で私たちが親しくなるのと反比例するように、ピアノの上手さは
初めの頃は私のが上手かったはずなのに……。
私がどれだけ練習時間を増やしても、彼女との差は離れていく。
和泉は弾くごとに上手くなっていって。
綺麗で、強くて、迷いがなくて——。
才能なんて言葉を言い訳にしたら和泉の努力をなかったものにしてしまうけど、けどきっと彼女には才能があったんだと思う。
結局コンクールでは全国大会一歩手前までいったって聞いたし。
それに比べたら私なんか……。
完璧に弾いたはずなのに、まるでミスだらけだった時のような顔をしている和泉に、私は言った。
「上手かったよ」
「……もっと早く聞きたかった」
「ごめん」
なにか言おうと思っても、これ以上言葉はなにも出てこない。
こうなるのがわかってたから今まで会わなかったし、なかったことにしたかったのに……。
やっぱりまた間違えたかな。
「私の何が悪かったか教えて。言ってくれれば全部もうしないから」
「麻央がなにかしたわけじゃない……」
「じゃあなんで?」
頭の中で振り返るけど、言っても和泉には伝わらない気がする。
和泉に何かされたわけじゃなくて、私がなにもできなかっただけだし。
何も言えないけど、何か言わなくちゃと思っていると、私の口から自然と言葉が漏れた。
「ごめん……」
「そんなことが……。いやいい私先教室戻ってるから」
和泉はそれだけ言うと、音楽室を後にした。
今までは独りでこの部屋にいてもそこまで広いと思ったことはなかったのに、彼女がいなくなると嫌に広くて独りで居るのが心細く感じる。
彼女が弾いたままになっているピアノに近づくと私は白鍵を押した。
同じピアノとは思えない間抜けな音が音楽室の中で反響する。
課題曲ってどう弾くんだったっけ。
和泉が座っていた場所にゆっくり腰を下ろし、鍵盤に指をのせる。
さっきの彼女の演奏を思い出しながら、同じ旋律をなぞろうとするけど……。
音が違う。
和泉の指先から生まれたあの透明な響きが、私の手ではまるで再現できない。
何度か弾き直してみても、出てくるのはぎこちなく、頼りない音ばかりだった。
やっぱり私には無理だ。
静かに鍵盤蓋を閉じると、立ち上がった。
音楽室を出る前、ふとピアノを振り返る。
——そこにいるはずのない、和泉の姿が目に浮かんだ。
相変わらず上手かったな……。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます