夜会の奇跡
海野雫
第一幕 再会の夜
第一話
夜会の喧騒が、豪華なシャンデリアの光とともに私を包み込んでいた。絢爛な衣装を纏った貴族たちが優雅に談笑し、ワインのグラスを片手に笑い声を響かせている。けれど、そのきらびやかな空気の中で、私の心はどこか遠くを見つめていた。
まるで別世界に迷い込んだような感覚――。それでも私がここにいるのは、婚約者であるヴィクトール公爵との結婚が間近に迫り、いわゆる「公の場」に顔を出す義務があったからにすぎない。
私の名前はエレノア。貴族の家系に生まれ、幼い頃から礼儀作法を叩き込まれてきた。けれど、今夜のような華やかな宴席に身を置いていても、どうしても息苦しさを覚えてしまうのはなぜなのだろう。
「エレノア様、少しお疲れではありませんか?」
ふと隣で控えていた侍女のリディアが、小声で心配そうに尋ねてくる。私たちは子どもの頃からの付き合いで、彼女は私の感情の揺れを敏感に察してくれる存在だ。
「大丈夫よ、リディア。ただ……人が多すぎて少し息苦しいだけ」
微笑みを作ろうと口元に力を入れるが、思うように笑えない。周囲では、同世代の貴族や商人の令嬢たちが美しいドレスを翻し、談笑の輪を広げている。私もあの輪の中に溶け込むべきなのだろうけれど、なぜか気が進まないのだ。
「お嬢様、今宵はヴィクトール公爵も出席されております。そろそろご挨拶に行かれては?」
「……そうね。あとで行くわ」
ヴィクトールは、家柄も人格も申し分ないと評される人物で、周囲から「これ以上ない縁談」と称えられている。私自身、彼が悪い人間だとは思わない。むしろ、礼儀正しく落ち着いた振る舞いは、伯爵令嬢である私を立ててくれるし、彼の優しさに救われる部分も少なくない。しかし、心のどこかが常にざわめいているのは、自分でも説明できない。
そんな考えが頭を巡っていたとき、会場の入り口付近がふと騒がしいように感じられた。何かが胸を突き動かすような予感がする。私はそちらへ視線を移し、人々の間から見え隠れする人物に目を止めた。
「……あの人は?」
一輪の青い薔薇を手にした、仮面の男。仮装を楽しむ貴族は珍しくないが、その薔薇の青がどこか不思議なほど印象的で、思わず目を奪われる。花弁が月明かりのような光を帯び、まるで“奇跡”を暗示しているかのようだ。
「お嬢様、あの方はどなたでしょう……見たことがありませんね」
リディアも不思議そうに首を傾げる。私の胸は不安と好奇心で、一気に鼓動を高めた。
男は誰とも話を交わさず、ただ私のほうへと視線を注いでいるように感じる。仮面の奥にある瞳は何を語っているのだろう。まるで私を射抜くようにまっすぐ見つめてきて、思わず息が詰まる。
「……少し外すわ」
私はリディアにそう言い残し、自分でも理由がわからないまま男のもとへ足を向けた。足元の絨毯が柔らかく、まるで沈むような感覚がする。周囲の音や人の動きが遠のいていく中で、私と男の間だけに静寂が降りたようだった。
「あなた……どなた?」
声をかけると、男は小さく微笑んでから仮面を少しだけ上げ、深みのある視線を私に向ける。その瞬間、私の胸がひどく騒ぎ出した。忘れようとしても、決して消えるはずがなかった思い出が、洪水のように押し寄せてくる。
「……まさか……リュカ?」
その名を口にした途端、言葉にならない感情が込み上げてきて喉が詰まる。リュカ・フォン・ヴェルガルト。かつて私のすべてを捧げるほど愛した人で、戦場で命を落としたはずの彼。
「エレノア……」
紛れもなく、その声はリュカだった。けれど、彼の表情はかつての柔らかい面影を感じさせず、まるで深い闇を身にまとっているかのように冷たい。
「リュカ……どうして……?」
頬が熱くなる。私は震える手を伸ばし、確かめるように彼の腕に触れようとした。自分でも信じられないほど動揺していて、今にも涙が溢れそうだ。
「生きていたなんて……嘘でしょう? ずっと……あなたは……」
一度は喪失を受け入れなければならなかった大切な存在。その人が目の前にいるなんて、信じられるはずがない。しかし、こうして触れようとする私の手に対し、彼は一歩退いて拒絶を示した。
「君の知るリュカは死んだ」
吐き捨てるような声に、私は驚きと悲しみを同時に感じる。なぜこんなにも冷たい言葉を投げかけるのだろう。
「待って、リュカ。私には何がどうなっているのか、さっぱりわからないわ。説明してちょうだい。あなたが死んだと聞かされたあの日、どんなに私が――」
「言ったはずだ、もう探すな」
彼は私の言葉を遮るかのように、青い薔薇を私の手に押し付ける。その花弁は今にも崩れてしまいそうなくらい繊細に見え、私の震える指先を冷たく刺激した。
「……どうして……?」
私が問いかけても、リュカは黙って背を向ける。夜会の華やかな音楽と笑い声が響く中、私だけが時の流れから取り残されたようだった。
「リュカ、待って!」
私の声は、彼の背中に届くことなく掻き消えていく。まるで吹き荒ぶ風の中で叫んでいるかのように、虚しい空気の振動だけがそこに残った。握りしめた青い薔薇の花びらが、かすかに震えているように見える。
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