4 血塗られたドア

 伸介は奥義を使って音羽の裏口を開いた。それはつまり、音羽にも弔律を効かせる事ができるという事だ。伸介の腕前なら音羽を自在に操る事も可能だろう。いったい、何をさせようというのか。

「……何の為にそんな事を」

「もう気づいてるんじゃないか。この部屋に入った時点で、君にはある弔律を与えた。聞こえないけれど、それは今も鳴り続けている」

 地下から漂ってきた禍々しい気配の正体はそれだったのか。祐司は唇を噛んだ。もう少し早く気づけていれば、ドアに鍵を掛けられる前に音羽を救えたかもしれないのに。

 危険が迫っている。今すぐ音羽を救い出すべきだろう。何をされるか分からない。祐司は叫んだ。

「音羽、今すぐ部屋を出ろ!」

「ダメなの。体がうまく動かない。というより、へたに動こうとすると、おかしな事をしてしまいそうな気がする」

 おかしな事? よく分からないが、伸介が与えている弔律の効果に違いない。今すぐ止めなくては。だが、どうやって音羽の部屋に入ればいいのだろう。祐司の胸に、焦りばかりが募っていく。

「ねえ伸介さん。どうしてこの部屋にこだわるの? 邪魔が入らないように?」

 祐司もそこが気になっていた。音羽に裏口を作ったのならなおさらだ。なぜ、さっさと自分のものにしてしまわなかったのか。

「それもある。でも、この部屋でなくちゃダメなんだ」

「だから、どうして?」

「そこに赤いドアがあるだろ?」

 音羽の部屋に入れてもらった時、奥にもう一つドアがあった。血塗られたように赤かったのを、祐司ははっきりと覚えている。

「ええ。私は鍵をもらわなかった。物置なのよね?」

「そこに答がある」

「なんの?」

「その前に。音羽ちゃん。そろそろ僕の所へおいで」

「急に何を言いだすの? 伸介さん」

「急じゃないさ。もう十分、効いているはずなんだけどな」

 もしかして、音羽は今、弔律によって性欲を刺激する攻撃を受けているのだろうか。音羽が自ら伸介の胸に飛び込む事を狙って。

「あなたの思い通りになんか、ならない」

 そう言いながらも、音羽の声は苦しそうだ。早くなんとかしなければ。しかし、祐司は音羽の部屋の鍵を持っていない。そして女子トイレとの間にはコンクリートの壁がある。ならば、壁をブチ破るしかない。通常よりも薄いなら、不可能ではないはずだ。

 祐司は壁から少し離れた。勢いをつけて、コンクリートの壁に肩で体当たりした。壁は少し揺れたような気がするが、それだけだった。

「無駄だよ、祐司くん」

 伸介は祐司がしようとしている事に気づいたようだ。

 狭いトイレの中で十分な助走をする事はできない。でも、祐司は力の限り体当たりを続けた。その度にトイレの中に重く鈍い音が響いた。

「祐司くん。たぶん、君は勘違いをしていると思うから言っておくが。僕が音羽ちゃんに与えている弔律は性欲を刺激するものじゃない」

「それじゃあ、何ですか」

「恋心を煽っているんだよ」

「バカな事言わないで、伸介さん」

 音羽の声は動揺を感じさせた。

「僕が気づいてないとでも思っているのか、音羽ちゃん。だからこそ僕は余計に苦しんだ」

「なんの話よ」

「君は僕を……」

「嫌! 言わないで」

「それじゃあ自分の口で言ってくれ。言いたくてうずうずしているはずだよ」

「何を言うのよ」

「あなたを愛しています、だよ」

「誰がそんな事」

「君が弔律を浴び始めてからずいぶん時間が過ぎた。さすがはご当主さまと言うべきか。並外れた耐性を持っている。僕の予想では、とっくに落ちているはずだったんだけどね。でも、どこまで頑張れるかな」

 相思相愛でありながら結ばれる事が許されない二人。もしも同じ一族でなければ。叔父と姪の関係でなかったなら。幸せになれる可能性はあったのだろうか。

 祐司にはそうは思えなかった。身勝手な理由で狂気に支配されて弔律で欲望を満たそうとする男など、音羽がいつまでも愛するはずがない。

 だがしかし。理屈で割り切れないのが恋というものだ。伸介の策略や悪事を知った今でもなお、音羽の心には伸介に寄せる思いが揺れている。そうでなければ苦しまないはずだ。伸介に対する恋心がなければ成立しない弔律によって、音羽は今にも伸介の手に落ちようとしているのだから。

「さあ、音羽ちゃん。素直になって僕に弔律されてしまいなさい。共に想いを遂げようじゃないか」

「嫌よ。こんな形であなたのものになんか、なりたくない」

 音羽の後ろには恵神家の一族がいる。陥落するわけにはいかないのだ。当主である音羽が奥義に屈して汚染された時、弔律師としての恵神家は終わる。そうでなくても、音羽には弔律師としての誇りがあるはずだ。けっして伸介の欲望には負けられない。

 音羽は今まさに戦っているのだ、最大の敵である自分自身と。多くのものを背負って。

「強情だな。弔律を強めてみようか」

 伸介は、なんらかの操作をしたようだ。

「ぐ……」

 音羽の苦しそうな声が聞こえてきた。

「自分が弔律される気分はどうだ。いつも澄ました顔で他人を弔律している君が、今度は被害者になるんだ」

「被害なんか与えていない。私は乱れた心を弔う。弱気な恋人たちの背中を押してあげる事もあれば、楽しい気分を盛り上げもする。でも、少なくとも自分の欲望の為に弔律を使ったりはしない」

「僕に弔律されるつもりはない、と言うんだね」

「そうよ」

 音羽は必死に抵抗している。自分の為だけじゃない。弔律を悪用する伸介に打ち勝って、弔律師の名誉を守る為に。

 僕にできる事はないのか。祐司は焦れったい思いを込めて体当たりに力を入れた。

「音羽ちゃん、どこを見てるんだ。王子さまは壁を破って助けになんか来ない」伸介は祐司の事を言っているのだろうか。「倒せるはずもない風車に無策に突撃を繰り返すだけの、妄想に取り憑かれた笑えない偽騎士だ。無駄に体力を消耗させているだけさ」

「そんな事はない。祐司は、私のパートナーは今、全力で戦っている」

 音羽はちゃんと分かってくれているのだ。祐司は勇気を得た思いだった。だが、確かに力任せに壁にぶつかっているだけではらちが開かないかもしれない。どうすれば。

「頑張るじゃないか。無理やりこじ開けた裏口から攻めてさえ、なおそれだけ抗う事ができるなんて。いやあ、恵神家は底知れないね。先代も凄かった」

 先代という事は、音羽の母親の音花さんか? なぜここで音花さんの話が出てくるのだろう。

「どういう事? 伸介さん」

「先代の当主である音花、つまり君のお母さんにも裏口を作って責め立てたんだ。妻である音芽に僕を裏切らせた男に対する復讐だよ。寝取り返してやった」

「誰の話をしているの?」

「君が凱斬壊裂歌がいざんかいれつかで殺した男さ」

 音羽が凍りつくのを、祐司は気配で感じ取った。

「君があいつの命を凱斬壊裂歌『破魂断命はこんだんみょう』で奪うところを蒼久が見ていたんだ。どうすればいいかと相談された。見なかった事にしろ、と僕は言った」

 自分の声だけで弔律を発する、凱斬壊裂歌。その希有な使い手である音羽は、自分の父親を殺したというのか。

「君のお母さんはね、今の君と同じようにずいぶん頑張った。でも、音羽ちゃんならどこまで耐えられるかな、と言った瞬間に落ちた。だから僕は君のお母さんと……」

「やめて!」

 音羽の叫びが聞こえた。

「なんて卑劣な」祐司は吐き捨てた。「音花さんは、音羽の身を案じてお前の言いなりになったんじゃないか」

「音羽ちゃんの父親の方がよっぽど卑劣だと思うけどね」

「なんだと」

「あの男は僕の妻である音芽に卑怯な罠を仕掛けて奪っただけじゃない。カネの為に、事もあろうに自分の娘を危険な連中の好きにさせた。何度もだ。あの動画はほんの一部にしか過ぎないんだ。絶望が僕の大切な音羽ちゃんから奪ったのは、髪の色だけじゃないんだよ」

 伸介の口から出た音羽の過去に衝撃を受けた祐司は、一瞬、言葉に詰まった。

「……だからって、何をしてもいいわけじゃない」

「何をしたって構うものか。デタラメな奴だったけど、音花の事だけは本気で愛していた。だから僕は、その想いを繰り返し踏みにじってやったんだ。音羽ちゃんが当主に指名される少し前の話だ」

 ――失敗しないでくれよ、音羽。あんなふうに。

 祐司は蒼久の言葉を思い出していた。あれは、先代当主である音花が配偶者に恵まれなかった事を指して言っていたのだ。残念ながら、その妹である音芽もまともではない男を選んでしまったようだが。

「お母さんは私を指名した直後に行方不明になった。それと関係しているの?」

「君が五十嵐に凱斬壊裂歌を放ったのを見て安心したんだろうな。十分に戦う力があると確信したんだ。だから再び僕の弔律に抗った。抗い続けた。そして、抗いきったんだんだよ、精神の崩壊と引き換えに」

「お母さんは今、どこにいるの?」

「永遠の眠りについている。君のすぐ傍でね。ここに鍵がある。開けてみるか、そのドアを」

「この赤いドアの向こうに、私のお母さんが……」

 祐司が禍々しい気配を赤いドアの向こうに感じたのは、そのせいだったのだ。

「……殺したの?」

「結果的にはそうだね。正気をなくした直後に息を引き取った」

「お母さん……」

 祐司には、音羽が赤いドアに向かって祈る姿が見える気がした。

「僕を裏切った音芽、つまり君から見ると叔母だね、と一緒だ。いやあ、仲のいい姉妹だねえ」

「音芽叔母さんまで手にかけたの? あなたの妻なのに」

「理由はどうあれ、僕を裏切った女に情けはかけない」

「そうかもしれないけど」

「ついでにもう一つ教えてあげよう。音羽ちゃんが殺した男も密かに運び込んだ。一族の失踪者が全員集合だ」

 音羽は自分の両親と叔母の死体のすぐ傍で、二年も生活していたという事になる。何も知らないで。

「なんでそんな事をしたの」

「恵神家の中で渦巻くドロドロとした汚れを一ヶ所にまとめて世間の目から隠してやったんだよ」

「私の母を汚し、妻を殺しておきながら、何を偉そうに」

「どの口が言うんだ、父親殺しが」

 音羽の叔母、音芽が行方不明になったのは九年前で、母、音花は二年前に姿を消した。それは伸介が蒼久と音羽の関係を知るよりもずっと前だ。伸介の狂気は、昨日今日始まったものではないという事になる。

 元々、伸介は尋常ではない精神の持ち主だったのだ。穏やかで優しそうな仮面を被った異常者。それならば、失恋のショックをきっかけに、大量殺人が発生すると分かっている危険な弔律をバラ蒔いたとしても不思議はない。

「なぜ、私にこの部屋を貸したの?」

「恵神家の汚点とも言える三人が死体となって眠る忌まわしき地下室。この世のものとは思えないほど美しい君が生活するのに、これ以上ふさわしい場所はないと思わないか。そして君を我がものにするなら、ここをおいて他にない」

 まるで理屈になっていない。恍惚とした声で語る伸介は倒錯してしまっている。正常な感覚を失っていると言わざるを得ないだろう。いや、元々そんなものは持ち合わせていないのかもしれないが。

 危険な男と音羽を二人きりになんかしていられない。祐司は激しく痛み始めた肩を気づかう事もなく、体当たりを続けた。思わず苦悶の声が漏れる。

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