3日目、金曜日 〈過去〉
1 弱点
ボンネットのど真ん中に初心者マークが張り付いたチョコレート色の軽自動車の運転席から、祐司はビルを見上げた。ここで恵神伸介がレストランやバーを経営している。視線を下げると、目の前に音羽がいた。
「うおっ、とっと」祐司は肩をビクリ、とさせてしまった。「おはよう、音羽」
「……おはよう」
音羽は暗い顔をして亡霊のように立っている。
「どうした、体調が悪いのか」
「そうじゃない」
なんだかよく分からないが、しつこく尋ねるのはやめておいた。話す必要があるなら、音羽の方から口を開いてくれるだろう。祐司は一旦、車を降りて助手席のドアを開けた。躊躇うように座席を見た音羽は、一つ息をついて座った。
「目的地までどのぐらいかかるの?」
何かの錠剤を口に入れてペットボトルの茶で飲み下すと、音羽は俯いたまま掠れた声で尋ねた。
「ナビによると、三時間半程度だね」
そう、と呟いて、音羽は瞼を閉じた。
車が動きだすと、音羽は切なげなため息を漏らした。
やがて市街地を抜けて高速道路に乗った。その間、音羽は全く言葉を発しなかった。まさか、音羽ともあろう者が緊張しているのだろうか。それとも、何か思い詰めているのか。心配だが、様子を見るしかなさそうだ。
祐司と音羽はスキゼニーのサウンド統括プロデゥーサー、五十嵐の実家に向かっている。
五十嵐は殺人ゲーム事件に深く関わっている疑いがある。少なくとも、スキゼニー社に調査に赴いた音羽を襲撃するよう、三人の男たちを動かしたのは間違いない。ただし、五十嵐自身も何者かの弔律で操られた可能性が濃厚だ。
また、菊池結菜に痴漢をする直前にかかってきていたという電話の主も特定したかった。それらを確かめる為に、是非とも会わなければならない。
公共交通機関で行くには手間のかかる場所だったので、祐司は父の最新型のハイブリッドカーを借りようとした。でも、週末はゴルフに行くからと断られた。父がゴルフをするだなんて話は聞いた事がなかった。本当は、大学入学直前に合宿で免許を取ったばかりの祐司に貸すのが嫌だったのかもしれない。
代わりに母が軽自動車を貸してくれた。女の子と一泊する、と言ったら、手品のように一瞬で鍵が出てきた。そして、頑張りなさい、の言葉と共に小遣いと謎の小袋を渡された。弟の洋治はそれを横目で見ながら、いつものように冷笑を見せた。額の大きな絆創膏が痛々しかった。
しばらく走るうちに、途中の入り口から高速に乗ってきた白いワンボックスカーが左の合流車線から近づいてきた。うまくタイミングが取れなかったのか、やや強引に目の前に入ってきた。祐司は軽くブレーキを踏んで距離を取った。
「ごめん、音羽」
音羽は少しだけ顔を上げた。
「なんで祐司が謝るの?」
「合流して来るタイミングをもう少し正確に予測できていたら、もっと緩やかなブレーキで対応できたはずだから」
「怒らないのね」
祐司は眉を寄せて、一瞬だけ助手席の音羽を見た。音羽は驚いたような顔をしていた。
「何に対して?」
「危ない入り方をされたのに」
「たまたまそういうタイミングになってしまう事はある。こっちで避けられるんだから、問題ないよ」
「そうかもしれないけど。ああいうのがきっかけで煽る人もいるんでしょ?」
「自分だって何かの都合でやむをえず強引な運転をしてしまう事はありうる。お互いに守りあえばいいじゃないか」
「そんなふうには考えられない、キレやすい人が乱暴な運転をするのかな」
「そうとは限らないと思う。普段はおとなしい人かもしれないよ。ただ、車の性能を自分の性能だと勘違いしている可能性はあるね。生身では恐くて喧嘩を仕掛けられないけど、この車なら負けない、やっちゃえ、みたいな」
「力を持つと使いたくなる?」
「そうだな。ネットカフェやライブハウスの事件を起した犯人も、弔律の力を得たせいで使いたくなっただけなのかもしれない」
「だとしても、許せない」
「もちろんそうだ」
出発から一時間半ほど過ぎたところで、PAで休憩した。
祐司は昼食として屋台のたこ焼きを食べたが、音羽は食べ物に興味を示さないばかりか店に近づこうともしなかった。音羽に食欲がない? 深刻な状況かもしれない。
「音羽、体調が悪いのなら今日はやめようか?」
「大丈夫。着いてしまいさえすれば」
よく分からないが、音羽が行けると言うなら中止にする必要はないのかもしれない。ただし、音羽の様子には十分に注意しなければならないだろう。
PAを出てさらに一時間ほどが過ぎた頃。分岐が近づいたので、祐司は車を右車線に移動させた。ほどなく、追いついてきた車が車間を詰めて煽ってきた。蛇行しながらハイビームを光らせ、クラクションまで鳴らしている。祐司の運転する車は、ちょうど制限速度ぐらいで走っていた。
「なんだろうね、祐司。後ろの車、危ない走り方をしてる」
祐司はミラーをちらりと見た。
「トイレに行きたくて焦ってるんだよ。たぶん、大きい方。煽って来る車を見たら、頭が出かかってると思えばいい」
「やめてよ」音羽が今日初めての笑顔を見せた。「そう考えるとかわいそうね」
「ドライブレコーダ―に録画されてるから、あとで母が通報すると思う」
「煽り運転をすると、最悪の場合、免許取り消しになるんでしょ?」
「そうらしいね。まあ、そのぐらい厳しくていいと思うよ。凶器に乗っている事を忘れちゃいけない」
「車は便利だけど、使い方を誤ると取り返しのつかない事になる」
「その通り。この世の中には、そういうものってたくさんあるね」
「ヘタに軍事力を手にすると使いたくなってしまったり?」
「そうだね。力で捻じ伏せる快感に魅了されてしまう可能性は誰にでもあるんじゃないかなあ。特に、虐げられた経験が、強いトラウマになっている程、ふとした弾みに暴発させてしまう確率は高くなるだろう。望まないままに、人殺しになってしまうかもしれない」
人殺し。音羽はそう呟いて俯いた。深刻そうな顔で膝に乗せた左手の拳を握っている。そんな音羽の様子が、祐司は気になった。
「後ろの人、高そうな車に乗ってるのに、あまり上等な人物だとは思えないね」
祐司がそう言うと、音羽は自分の足元を見つめたまま、そうね、とだけ応えた。
「車の値段を自分の価値だと錯覚してしまうんじゃないかな。高い車に乗れる俺様は偉い。だからザコはどけ、ってね。軍事力の魅惑と同じだよ。何を持っているかで人物そのものの価値が変わるわけじゃないのに。もしかすると、劣等感の裏返しかもしれないな。本当に能力のある人は、必要な時に必要なだけの力を使うはずだ」
音羽がその気になれば世界をひっくり返す事も可能だろう。暴力的な衝動を心の表面に引きずり出す弔律を、なんらかの方法でバラ蒔くだけでいい。だが、もちろんそんな事はしない。正しい使い方ができてこそ、力を持っていると言える。祐司は、音羽を信じている。
「虚栄を張るのって、かっこ悪いね」音羽が呟いた。「心に余裕がないのが丸出しになっている」
「ああいう車は、周りから失笑を買っている事に気づいていないんだろうね」
しばらくすると、煽っていた車は左車線から祐司たちを抜いて目の前に割り込んできた。いきなりブレーキランプを光らせたあと、とんでもない勢いで走り去った。なかなかの加速性能だ。車のスペックは素晴らしい。
その時、サイレンを鳴らした白バイが合流車線の陰から発進するのが見えた。
二人を乗せたチョコレート色の軽自動車は、やがて一般道に降りた。市街地を抜けて山間部に入ると、アスファルトの傷みが目立ち始めた。道は曲がりくねり、上り下りを繰り返している。意外なほどに大きなでこぼこが、そこら中で待ち受けていた。段差で尻が弾む。あまりスピードは出していないが、カーブの半径が小さい為に体が強く左右に引っ張られた。
「停めて!」
緑に囲まれながらしばらく走った所で音羽が叫んだ。わけの分からないまま祐司が狭い路肩に駐車すると、音羽は突き飛ばすようにドアを開けて車から転がり出た。藪の中に入って行く。
「どうした」
祐司が追う。
「来ないで」
藪の奥から苦しげな呻き声と激しい息づかいが聞こえ始めた。
「音羽?」
返事はない。祐司はティッシュの箱とペットボトルの水を持って、音羽のもとへ近づいた。少し手前で止まる。
「紙と水、ここに置くから」
十分ぐらい待っただろうか。音羽は幾分、すっきりした顔で藪から出てきた。
「……ありがとう、祐司」
「やっぱり調子が悪いんだね」
「そうじゃないの。ごめんね、私、乗りものに弱くて」
祐司も子供の頃は酔いやすかった。だからバス遠足が憂鬱だった。迎えに行った時、音羽が暗い顔をしていたのは、そういう理由だったようだ。聴覚を高度に鍛えられているが故に、三半規管が敏感に反応しやすいのかもしれない。
「乗りもの酔いを抑える弔律はないのか?」
「ある。でも、強い耐性を持つ私には効果を発揮しない」
なんとも皮肉な話だ。神の手を持つと言われる天才外科医が、自分自身に対しては手術をできないのと同じか。
「音羽。ここまでよく頑張ったね」
音羽は顔を上げて祐司の方を向いた。
「怒らないの?」
「なんで?」
「鬱陶しいでしょ」
「誰にだって苦手なものはあるさ。僕なんか、ほとんどのものが苦手だ」
祐司は胸を張った。
「ずっと球拾いをしたり、マウスピースを吹き続けたり?」
「そうそう」
音羽は少し笑顔を見せた。
「恵神家ご当主の音羽さまにも弱点はあるんだね。なんだかほっとした、と言ったら怒られるかな?」
「いいえ。祐司には私の弱い所も知っていて欲しい」
「互いの強さと弱さを知って補い合う。そんな関係になれたらいいね」
祐司の目を見ながら頷いて、音羽は再び助手席に座った。
「ここから一つ山を越えた所に、私たち恵神家の里はある。いずれ祐司も一緒に行く事になると思う」
「へえ、偶然、近くへ来たんだね」
「偶然じゃない」
そう言ったきり、音羽は目を閉じて椅子に背を預けた。ゆっくりとした呼吸を繰り返す。
「静かな所だね、音羽」
風が木の葉を囁かせている。木漏れ日が揺れて、窓の隙間から草の萌える匂いが漂ってきた。 音羽が瞼を開いた。
「少し落ち着いた。行けると思う」
「了解」
なるべく穏やかに走るよう、祐司はいっそう心がけた。
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