2日目、木曜日午後 〈疑惑〉

1 領域

 祐司と共に帰宅した音羽は自分の部屋には戻らずに、一階のイタリアンレストランに入った。

 テーブルを拭いていたウェイトレスが顔を上げた。音羽と目が合うと、微笑みながら店の奥に視線を流した。音羽は会釈して厨房横の狭い通路に進んだ。パスタを茹でる湯気と炒めものの油の匂いが混ざり合って漂う中を、祐司は音羽のあとに続いて通った。

 黒縁のメガネを鼻に引っかけて、伸介は何かのデータがプリントされた紙を睨んでいた。

「伸介さん」

 音羽が声をかけると、伸介は顔を上げて笑みを見せた。

「やあ、お二人さん。昼も食べていくか? 今からだと喫茶メニューになるけどね」

「うん、それもいいけど。ちょっと相談があって」

 伸介の前ではなんの抵抗もなく心を開いている様子の音羽を見て、祐司は少しだけ胸の痛みを感じた。だが、二人は叔父と姪の関係だ。下衆げすな勘ぐりをしなければなければならないような要素はない。

「どうした」

 心配そうに眉を寄せた伸介は、資料の束を机に置いてメガネを外した。

「昨日の事件の事なんだけど」

「ネットカフェで人が殺されたやつか。祐司くんも危なかったんだよな。僕らは現場の近くで少し話した」

 祐司は伸介に向けて頷いた。

「弔律が関係している可能性が濃厚なの。いいえ、間違いない」

 音羽の言葉を聞いて目を見開いた伸介は、二人に椅子を勧めた。

「音羽ちゃんともあろう者が、しくじったのか」

「私じゃない。だから、相談に来たの」

「本家の当主である音羽ちゃんが許可しなければ、直系以外の者が弔律を行使する事はできない。直系だとすると……まさか、先々代である里のおばあさまを疑ってないよな?」

「それは有り得ないでしょ? あの戒律に厳しいおばあさまが、あんな事をするとは到底、思えない」

「だよなあ」伸介は考え込んでいる。「封じられてはいても、弔律の技法を身につけている者は何人もいる。たとえば、僕とかね」

 伸介はイタズラっぽい笑みを浮かべた。

「秘術が外部に漏れた事はないわよね?」

「僕の知る限り、それはないな。それに、たとえ漏れたとしても一族以外の者が会得できる可能性は限りなく小さい」

「そうね。十分に技術を身につける前に自滅する。自分が効果を受けてしまうから。ある程度の耐性を持った者でなければ、弔律を調合したり行使する事はできない」

「そして耐性を得るには、一族だけに伝わる特殊な訓練を受ける必要がある」

「だから必然的に、犯人は恵神家の一族として正当に弔律の技法を身に着けた者だ、という事になる」

 音羽は唇を強く結んだ。上目遣いに伸介を見つめる。

「……蒼久そうきゅうか」

 伸介の顔が渋い。ゆっくり頷いて、音羽は視線を外した。

「確かに、あいつにはそれだけの技量がある。後継者選びの時に音羽ちゃんと競ったぐらいだからな。それに、うちには弔律を調合できるだけの機材も一応、揃っている。僕の、趣味の作曲用だけど。でもなあ。親だから言うわけじゃないんだが、あいつは融通が利かないぐらいにまじめだぞ? 正義感も強い」

「そうなの。だから信じられないんだけど。私が調べたところによると、問題の弔律には蒼久の癖が色濃く出ている」

「後継者争いに負けた腹いせに困らせようとした、そう言うのか」

「あれからもう何年も経ってる。今さらそれはないと思う」

「ねえ、蒼久って、誰?」

 祐司が音羽に尋ねた。

「ああ、ごめん。伸介さんの息子よ。つまり、私の従弟いとこ。二歳下」

「なるほど。だから、弔律を使えるんだ」

 祐司と音羽が話している間、思案顔をしていた伸介が、慎重な様子で口を開いた。

「……音羽ちゃんが引っ越してきて同じ建物の中で生活を始めた事で、なんらかの刺激を与えてしまったのかもしれないよ?」

「だとしても、腑に落ちない事があるの」

「と言うと?」

「蒼久が調合したにしては、効果ばかりが追求されていて風雅さに欠けている」

「わざと下手にやった、とか」

 伸介は両手を広げてみせた。

「あんな下品なもの、蒼久の耳は受けつけないと思う」

 従業員の一人が会釈しながら事務所に入ってきた。壁際の棚の引き出しを開けて書類を取り出した。伸介が目を合わせて頷くと、もう一度、会釈をして出て行った。

「まあいずれにせよ、蒼久には何か関係がありそうだな」伸介は腕組みした。「込み入った話になりそうだ。ここには他人の目もある。鍵のかかる音羽ちゃんの部屋で話さないか」

「それは……」

 音羽は戸惑ったように視線を泳がせた。その様子を見た伸介は、ゆっくりと頷いた。

「弔律師は自分の領域に他人が入るのを極度に嫌う。氣の流れが乱れて文字通りに氣が散って、うまく調合ができなくなるからだ。よほど氣の合う相手でなければ部屋に入れない。だよね、音羽ちゃん」

 音羽は信頼している叔父にさえ入られるのを躊躇う部屋に、ごく自然に祐司を招いた。パートナーとして認められているのは間違いない。

「ええ。もし、部屋の氣が乱れたら、元通りに復旧させるには、かなりの労力と時間、そして精神力を必要とする」

「分かっている。そして僕はおそらく音羽ちゃんの氣を乱してしまうだろう。だけど事は重大で、なおかつ、放置すれば更なる被害が出る恐れがある。早急に対処しなければならない」

「……うん」

「それに、どうやら僕の息子の蒼久が深く関わっている。だから、弔律の機材を使って具体的に説明して欲しいんだ。たとえ息子であろうとも、他人を疑うからには、そのぐらいの慎重さを以て注意深く真実を確かめるべきだと思うんだが、どうだろう」

「そうね。そう、なんだけど」

 音羽は眉を寄せて俯いた。

「分かった」伸介は優しい笑顔を見せた。「音羽ちゃんがいいと思ったら声をかけてくれ。僕は待つから。それに、このあと用事があるのを忘れてたよ」

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