2 女神に魅入られて

 呆然としていたせいで退却のタイミングを逃してしまった祐司の方に、笑菜が振り向いた。じっとりと濡れた舌で可愛らしい小さな唇を舐めながら、何かブツブツ言っている。

 祐司は後退を始めた。イヤイヤをするように首を振り、落ち着けとばかりに両手を前で広げて。離れた分、笑菜が前に出て距離を詰めた。祐司が下がる。笑菜は詰める。

 男性客の後頭部から流れ出た液体を踏んでしまった祐司の濡れた足跡が、粘り気の強い音と共に絨毯に並んでいく。体がこわばってうまく動かない。笑菜は獲物を見つめる猛禽類のような冷たい目で祐司に狙いを定めて迫って来る。

 清純な白いブラウスと可憐な赤いスカートの間に挟んであったホットケーキ用のナイフを、笑菜は聖剣のようにスラリと引き抜いた。両手で構える。ギザギザの刃がついたシルバーメッキのカトラリーが、天井のスポットライトを反射してキラリと光った。笑菜はゆっくりと大上段に振りかぶった。目が、細められた。

断生刃だんしょうじん! 鬼悪きあーーーっ!」

 怪鳥のような叫び声と共に振り下ろされたナイフは、リーチが短過ぎて祐司には全く届かない。完全に空を切った。よろり、と笑菜がバランスを崩した。祐司にとってはチャンスだ。しかし、反撃をする気にはなれなかった。相手はお客様なのだから。しかも可愛い。

昇陽転界蹴しょうようてんかいしゅうー!」

 笑菜はまたもや必殺技を叫んで跳躍した。

 空中で半回転捻りをした状態で床に落下して、足を挫いたような具合に無様にコケた。

「何やってんの……」

 祐司は思わず呟いた。笑菜にしてみれば必殺技を出したつもりなのかもしれないが、もちろん、生身の人間がゲームの必殺技を出せるはずもない。本人は大真面目でも、周囲から見れば滑稽でしかなかった。祐司は、ひひ、ひひひ、と引きつったように笑ってしまった。

 笑菜が倒れたまま顔を上げた。白く滑らかな肌をした頬が朱に染まっている。必殺技を失敗して転んだのが恥ずかしかったようだ。危険な光を宿した目が、完全に祐司をロックオンしていた。笑ったせいで、怒らせてしまったのかもしれない。

 立ち上がろうとしている笑菜を見て祐司は我に返った。狭い通路を全力で駆ける。スリッパの回収箱に膝をぶつけて盛大に散らかしたが、気にしている場合ではない。どうせ片付けるのは自分だし。

 いったい、何が起こっているのだ。清純そうに見えた笑菜が、なぜ必殺技を叫びながら暴れているのだろう。わけが分からない。でも今は、とにかく逃げるしかない。

 振り返ると、体勢を立て直した笑菜が大きく足を開き腰を落としてどっしりと立っていた。エアコンの風で艶やかな黒髪が揺れている。その姿には一種の神々しさがあった。若い女戦士が崖の上で強敵と対峙しているかのような緊張感を醸し出している。短いスカートの裾から白い太ももが剥き出しなのが気になってしょうがないが。

天狼てんろう咆哮牙ほーうこーうがー! っ、っ、あっ!」

 笑菜は両手を揃えて祐司の方に突き出しながら何回か短く叫んだ。氣や炎を飛ばす必殺技のつもりだろう。彼女のすぐ傍の壁に、同じポーズをしたキャラクターの描かれたポスターが貼ってある。

 だが、当然ながら祐司はなんのダメージも受けない。受けたフリをしてあげようかと一瞬だけ思ったが、やめた。

 恐怖でおかしくなっていたせいもあるのか、祐司は笑いが込み上げて来るのを感じた。半笑いのまま必死に距離を取る。でも、ダッシュで間合いを詰められた。笑菜の身のこなしは、意外なほどに軽かった。もしかして、陸上部?

 鈍い光沢を見せるナイフが、そろり、と振り上げられた。祐司はカウンターの端に乗せてあったプラスチックの茶色いトレイを慌てて掴んだ。容赦なく切りつけて来るギザギザの刃を、トレイは薄っぺらい音を立てながら防いだ。

 だが、一切、手加減なく叩きつけられてくる斬撃に、安物のトレイはいつまでも耐え続ける事はできなかった。やがてひびが入って二つに割れた。

 笑菜は動作を止めて体を丸めた。震えている。力を溜めているつもりだろうか。祐司から見れば隙だらけだ。

 反撃すべき状況だろう。倒して押さえつければ、体格差でなんとかなるかもしれない。相手は華奢な女の子なのだから。祐司は体力にだけは自信があった。今ならやれる。いやしかし、相手は暴走しているとはいえ客だ。しかも、可愛い。乱暴な事をしてもよいものかどうか。

 僅かな逡巡が、次の行動に移る為の時間を笑菜に与えてしまった。

斬刀乱舞ざんとうらんぶ……」

 落ち着いた冷たい声が、却って恐かった。

 笑菜は髪を振り乱しながらギクシャクとしたへんてこりんなダンスを披露した。足がもつれた。またコケた。

 動画で見ているのなら笑い転げただろうが、目の前でやられると顔が引きつった。背中に嫌な汗が滲むのを感じる。笑いと恐怖は、実は紙一重なのかもしれない。

 祐司は割れたトレイを投げ捨ててカウンターの裏に駆け込んだ。固定電話を掴む。通報しなくては。

 笑菜が追って来る。ジャンプでカウンターに飛び乗ろうとした。だが、跳躍の高さが足りない。笑菜はつま先をカウンターの角に引っかけた。盛大に備品を散らかしながら、祐司のすぐ傍に頭からドスン、と転がり落ちてきた。ハードル走の選手ではなさそうだ。逆さになった笑菜の短いスカートが捲れ上がって淡い水色の……そんな事を言っている場合ではない。

 電話を掴んだまま祐司は動けなかった。手が震えて、110、の三つのボタンが押せない。

 笑菜の背後で、バックルームへと通じるカーテンの隙間から店長が覗いていた。スマホを持ってるんだから通報してくれ、という願いは通じるだろうか。

 笑菜は唐突にしゃがんだ。床で三角座りをしている。両手で膝を抱いてこうべを垂れたまま、呪文を唱えるように唇を動かしている。回復ポーズだ。転落した時、笑菜はどこかをぶつけて痛かったのかもしれない。しかし、呪文で人間の体力が回復したりはしない。祐司は不覚にも、そんな笑菜の事を可愛い、と思ってしまった。

 やがて立ち上がった笑菜に、じりじりとカウンターの隅に追い詰められた。逃げ場はない。

 ――どうして わたしを すてたの

 笑菜がそう呟いたような気がした。乱れた長い髪の隙間からのぞく虚ろな目が、じっとりと祐司を見つめている。そこには涙が滲んでいた。

 ホットケーキ用のギザギザナイフが、自由の女神のトーチを思わせるポーズで誇らしげに掲げられた。二人の距離は、餃子を食べた直後なら匂いで気づきそうなほどに近い。

「死ね、死ね死ね、あんたなんか、死んでしまえ!」

 くしゃくしゃに顔を歪めて泣きながら、笑菜は絶叫した。力強く踏み出した左足に全体重を乗せながら、右腕をしならせてナイフを振り下ろす。見事なフォームだ。もしかして野球部? 鈍く輝くやいばがスローモーションのように迫って来るのを見ながら、祐司は半ば諦めた。

 チン、という電子レンジの音がバックルームから流れてきた。たこ焼きが温まったようだ。きっちり四分三十秒で片づいた。自分が。

 祐司は恐怖に耐えきれずに目を閉じた。その時、暴走している笑菜のものとは明らかに違う、祈りを捧げるように静かな女性の声が聞こえてきた。


 怨嗟えんさ寂寥せきりょうに荒ぶる心よ 静謐せいひつなる響きをもって 我、なんじとむら


 音楽がそれに続いた。いや、それは音楽というよりは、サウンド、と表現した方が実態を表しているかもしれない。歌えるようなメロディーではなくて、魔法が振り撒かれた時の効果音を思い起こさせる類いのものだった。

 祐司は左の首筋にヒヤリと冷たい感触を覚えた。瞼を開くと、ナイフが当てられたまま止まっていた。食事用だとはいえ、ギザギザの部分で強く擦られればただでは済まないだろう。

 だが、ナイフから急に力が抜けた。そして笑菜は、電池が切れたロボットのようにガクリ、とその場に崩れ落ちた。店の刻印が入ったナイフが、軽い音と共にブラウンの絨毯の上で小さく跳ねた。

 天使のように無垢な表情を浮かべて笑菜は倒れている。その頬には無残な涙の跡があった。

 祐司はスニーカーのつま先で脇腹をそっとつついてみた。だが、反応はない。

 ふと気配を感じて顔を上げると、カウンターの前に若い女が立っていた。手にした白いスマホを、写真を撮る時のように祐司に向けている。

 成人しているかどうか微妙なところだ。すっきりと整った美しい顔に浮かぶ冷静な表情が、彼女は間違いなく大人の女であると示している。だが、少女と呼ぶ事に躊躇いを感じさせないあどけなさもまた、仄かに薫っていた。

 着物をモチーフに大胆なアレンジを加えた近未来的ファッションが、彼女の雰囲気に見事に調和している。秋影あきかげの伝統的な人形のようにきちんと切り揃えられた純白の髪は、和の心を感じさせた。腰に下げた小さな白い笛、草履をイメージさせるスニーカーにも不自然さはない。

「あなた、大丈夫?」

 囁くように静かな声だった。鈴の音のごとく清廉な響きが耳に心地よい。

 女神さまだ。

 窮地に陥った僕の所へ、女神さまが現れて救ってくれたのだ。祐司にはそう思えた。

 だが、その瞳には心を感じさせない空虚な冷たさがあった。無表情のまま、真っ直ぐに祐司を見つめている。

「なんで僕を見てるんですか?」

「あなたが、特別だからよ」

 そう告げると女神さまは目を伏せて、微笑みの気配を残したまま悠然と店の奥へと顔を向けた。白い髪がさらりと揺れて、香を焚いたような高貴な匂いが微かに漂った。

 僕が特別? 何のことだ。そう思いつつ、優慈は周囲を見回した。静まりかえったフロアには何人もの客が横たわっていた。動いている者は一人もいない。店長も胸から上をバックルームのカーテンからはみ出させた状態でうつ伏せに倒れている。意識を失ったのは、必殺技少女だけではなかったのだ。何だ、これは。何が起こった?

「あの、この人たちはどうなったんですか」

「意識を失っているだけよ。心配ない。それより、その子が暴走した時に居た場所へ案内して」

 女神さまには、けっして逆らうことを許さない威厳があった。周りの状況が気になりつつも、祐司は女神さまと並んで薄暗い通路を進み、個人ブースの並ぶエリアへと向かった。

 被害に遭った男性客はドリンクバーの台にもたれたままだった。彫像のように動かない。呼吸をしている様子もなかった。悲鳴を上げていた女性客は、しゃがんだ状態のままで気を失っていた。

 祐司はなるべく被害者を見ないように目を逸らしながら通り過ぎたが、女神さまはそもそも一瞥すらしなかった。

「ここですけど」

 正気をなくして乱れ狂っていた笑菜が使っていたブースに、女神さまは躊躇う事なく入った。モニター画面に視線を向ける。スキゼニーというメーカーが制作、運営しているオンラインゲーム、ゲルト・フェアディーネンが放置されていた。

 祐司を襲った笑菜はゲームをしていたようだ。プレイに熱中するあまり気持ちが昂ぶり、必殺技を叫びながら……。バカな。ゲームで興奮したぐらいで、あれほどまでの暴走をするだろうか。死人まで出ている。何かが、おかしい。

「このゲーム、いつからあるの?」

「サービスインしたのは今年の春ですよ。だから、三ヶ月ぐらい前かな」

 ここでのバイトを始めてすぐ頃だった。店長に怒鳴られながらインストールしたのを、祐司はよく覚えている。

「人気があるの?」

「最初はそうでもなかったですね。新作なのに平均より少し下、ぐらいかな。はっきり言うとハズレです。でも、一ヶ月前のアップデートから急に人気が出ました。今ではナンバーワンです」

「そのアップデートで大きく内容が変わった?」

「いえ、全然。致命的なレベルのバグすらそのままだし、プレイエリアが拡張されたわけでもない。アイテムの類いが追加された様子もないんです。いったい、なんのアップデートだったんだろうね、ってネットを中心に話題になったぐらいですよ」

「それなのに、突然、人気が出た。そういう事?」

「ええ、そうです」

 女神さまは何かに納得したように小さく頷いた。その視線が床に落ちていたヘッドホンの方に向いた。拾い上げて片側を耳に当てる。

「やられた」

 美しく整った女神さまの顔が不快そうに歪んだ。薄暗いブースの中で浮かんだその表情は、夜叉、という言葉を、祐司の脳裏に浮べさせた。

「何がですか?」

「このゲームに、人を狂わせる秘術が仕込まれている」

「秘術?」

「アップデートはそれ以降、されてないの?」

「ああ、そういえば。三十分ほど前に最新版に変わったばかりですよ。どこの店でもそろそろ更新が終わった頃じゃないかな」

「このバージョンに、一斉にアップデートされてしまった」

 女神さまは独り言のように呟きながらブースを出た。悔しそうに唇を強く結んで。

「それって、なんか、まずいんですか」

 振り返った女神さまは、優慈の目を真っ直ぐに見つめた。

「もう、止められない。大災害が起きる」

 カウンターの前まで戻って来た。笑菜はさっきと変わらない状態で倒れている。他の客たちや店長も同様だ。

「あの」

 祐司は慌てて声をかけた。

「何?」

「ほんとに放置して大丈夫なんですか、みんな倒れちゃってますけど。それに、あの女の子がまた暴れたら……」

「心配ないわ。完全にとむらったから」

「と、弔った?」祐司は顔を引きつらせた。「殺したんですか?」

「その子は生きてる。それ以外の人も、あと二分ほどで目を覚ます。命がある者は」

「いったい、何をしたんですか。なんだか音が聴こえたんですけど。スマホからですよね」

 女神さまが、またもや祐司を見つめた。深い瞳をしている。吸い込まれそうに思えた。

「聴いたのよね、あなたは。その音を」

「ええ。音楽ではありませんよね、効果音に近いかな」

 小さく頷いた女神さまの桜色の唇が、宣言するように告げた。

「聴いたのに、あなたは立っていた。それはつまり、あなたには特別な能力が……」

 パトカーのサイレンが遠く聞こえ始めた。一台や二台じゃなさそうだ。店長は通報してくれたようだ。

 女神さまはそれ以上何も言わずに出口に向かい、店を出ていった。

「あの、ご利用料金……」

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