第6話

 その昔とある伯爵夫人は肌の老化に悩んでいた。ある時下女の血を浴びた手が生き生きとしたものに変わったように見えた彼女は、無数の下女を集めその身体から血を搾り取り、身体に掛けて湯あみしたり化粧の下地に使ったりしたと言う。かの有名なエリザベート・バートリ伯爵夫人の逸話だ。そう言えば領地から美少年を集めて慰み者にし、殺していた貴族の話も聞いたことがある。こっちは男。ジル・ド・レだ。名誉回復のために城跡をあさったところ、記録より多い犠牲者が見付かってしまったと言うおまけつきである。


 とにかく女は自分のために残虐を好むわけではない。男だって自分の趣味のために領地から子供を買い集めることがある。だから私のこれだって同じようなものだろう。ぷはっとストローから口を離して、私は腕の中で絶命している赤子を公園の茂みに捨て置く。ストローはまだ細い頸動脈に的確に刺さり、少し血を垂らしていた。


 私こと鳳理沙おおとり・りさが美容のためにしていることはこれだ。新鮮な赤子の血を思いっきり吸い上げること。子育てに疲れた母親が夜中にうとうと公園で眠っているところを戴くのが乙である。この辺りは団地も多くて公園も多い。夜泣きする赤ん坊を連れて行くのには最適なのだ。

 そして私がそれを盗み取るのにも最適。二歳前ぐらいのぷくぷくした赤ん坊が一番の食べ頃だと思っている。きっかけはバートリ伯爵夫人の逸話を試すために親戚の赤子の薄い爪で付いた傷を舐めたことから始まる。塩っ気が適度にあって美味しかった。それから血が止まるまで吸い続けると、赤子は眠り、私はなんだか気力が充実した。三十歳手前の頃で、そろそろお肌が乾燥に負けつつある年頃の頃だったと思う。


 以来私は三か月に一度ぐらいのペースで、夜泣きしている赤ん坊を連れ去ることにしていた。誘拐が危ない、と看板が立てられても、ほかの家族から疎まれた母親は公園で夜を過ごすしかない。そしていざ赤子がいなくなると責め立てられるのだから、可哀想な話だ。それで団地を出て行った家族を何件か見ているから、まったく、と思う。まったく、ごちそうさまだ。

 だってそうしたらまた子持ちの家族が入ってくるかもしれない。ごちそうだ、私にとっては。化粧品会社の営業なんだから、肌艶は同年代よりよく見えないといけない。だから私は、この趣味を続けている。もう十年だ。何人の赤子を吸ったかなんて、覚えてもいないぐらい。


 仕事柄夜まで残業になるのはよくある事だから、怪しまれることも無い。眠っていた母親が気付いたとしても、ぐずっていたから泣き止ませていたところです、と鉄壁の笑顔で返せば大ごとにはならない。化粧は女の武装だ。それがばっちりしてある人間には、逆らいにくいものがあるらしい。上司も部下も同期も、私の鉄壁の笑顔には敵わない。


 でもそろそろ赤ん坊は食べ飽きてきたかな、と思った所で、見付けたのは少女だった。


 十六・七歳ぐらいだろうか、高校生ぐらいに見えるけれどもっと幼いのかもしれないとも思わされるものを持っている。黒いワンピースにストレートの長い髪、彼女は公園の月光の下でくるくるとバレエのようものを踊っていた。詳しくはないけれど、多分そうだと思う。足先までピン、と伸びた様子がそう思わせたのだろう。


 化粧はしていない。武装は何一つない。ただの黒いワンピース一着と年齢だけで私を見惚れさせた彼女は、少し踊ってから、よし、と言って去って行った。団地の方ではなかったから跡を付けていく事は出来なかったけれど、近所の借家の人間かもしれない。


 魅せられた。あの子の血なら、赤ん坊より多いし、よく肌に効きそうだと思わされた。だから私は毎日帰る時間を少しずつ変えて、彼女が躍る時間を調べることにした。



 大体夜の七時から九時までの二時間を、彼女は踊っているようだった。近くにベンチや噴水はないから、赤ん坊をあやしに来る母親たちもいない場所。うってつけだ。ふんふん鼻歌を歌っていると、部下に白鳥の湖ですか、と問われた。私がオデットなら黒ずくめの彼女はオディールかしら、くつくつ笑っていると不思議そうな顔で見られる。


「課長、最近なんだかご機嫌ですね。良いレストランでも見つけたんですか?」


 後輩の男の子に尋ねられ、んー、と私は鼻を鳴らす。


「良さそうな店を見つけたから、食べに行くのが楽しみ、ってところかしら」

「なんですそれ、俺たちにも教えてくださいよー」

「あなたたちには隣のビルのイタリアンがあるじゃない。千円でサラダ食べ放題ピッツァ一枚かパスタ一皿」

「確かにお財布には優しいんですけどね、たまにはそう言うの気にせず食べてみたいじゃないですか。ねえ課長ー」

「だーめ、私のは教えない。秘密基地みたいなものよ」


 うふふっと笑うと後輩たちは肩を竦めてちえっと舌を鳴らして見せる。子供っぽくてまだ社会人になりたてのひよこっぽさが出てて可愛らしいと思った。でも彼らに食欲は感じない。新入社員の女子だって、年を食いすぎていると思うぐらいだ。

 赤子の頸動脈なら先を尖らせたストローで簡単に貫けるけれど、さすがに高校生ぐらいになるとそうはいかないだろう。いっそナイフで切って災害用の貯水袋に血をためた方が良いかもしれない。腐らないうちに持ち帰って、家で吸い尽くす。


 本当はその場で新鮮なのを飲めたらそれが一番なのだけど、さすがにそんな便利な道具はない。鉄製のストローなんて紙製ストローが標準のコーヒーショップでは売ってないだろう。ファストフード店のシェイクに付いて来るのが精々だ。

 どうしたらあの首にストローを突き刺せるかなあ。それとも諦めて貯水袋に入れるしかないのかしら。その前にどうやって近付こう。あのぐらいの女の子なら化粧品に興味もあるころだろうから、試供品をいくつか持って行こうか。そして手なずけて、油断したところをがぷっと。


 それじゃあドラキュラ伯爵だけど、それもまた良いだろう。口を開けて一気に齧り付く。犬歯は残っている方だから、不可能でもないかな。でも一気に喉に噛み付かないと悲鳴をあげられてしまう。それはダメだ。化粧をしてあげているうちに目を閉じて貰って、そこから首を上げさせて? うん、悪くない。

 ふふふっと笑うと、部下たちはずるいなーとぶーぶー言う。私が考えていることを本当にずるいと思うだろうか。だったら試させても良いけれど、多分警察に通報されるだろう。あの団地の公園は元々子供を攫う変質者も多いし、夜は赤ん坊を狙う私がいる。


 取り敢えず今日は七時に社を出よう。電車で一時間の通勤時間、バッグにはいっぱいのコスメの試供品を入れて。黒いワンピースだったし、ゴス系のメイクも調べておかなくちゃ、と私は携帯端末をスクロールしていく。ふむ。基礎さえ分かっていれば色が違うだけで何と言うことも無いか。


 ふふっと笑いながら私は暗い車窓に映る自分の顔を見る。化粧は崩れていない、気風の良いお姉さん風に見える。四十が見えて来たところだからお姉さんと言うよりはおばさんだけれど、それでも構わないだろう。要は年上の威圧感を感じさせない女性でいれば良い。営業スマイルはそれで二十年やって来た私の得意技だ。


「こんばんは」


 案の定踊っている彼女を見付け、私は初めて声を掛ける。彼女の方は踊るのをやめて、きょとん、とした顔を見せた。やっぱりノーメイク、眉は少し手入れをしている程度。目付きが悪いのか訝しげにしているだけなのか、私をちょっと睨んでくるのを笑顔で流す。


「いつもここで踊っているのね。家は近く?」

「近所の借家です」

「そこでは踊れない?」

「うるさいのがスカートの中を覗こうとしてくるので」


 心底嫌そうな顔をしている。確かに年頃の女子は性的なものから離れたがりがちだったり、逆に興味を持ちがちだったりするから、それは嫌なことなのかもしれない。まして家族にそう言う視線を向けられるのは鬱陶しいだろう。黒いバレエシューズは先がすり減っているけれど、彼女は気にしたそぶりもない。


「あなたの名前は?」

「黒鳥玄霞」

「私は鳳理沙。電車で一時間ちょっと行ったところにある、化粧品会社で営業課長をしているの」

「はあ」

「丁度メイクモデルを探していたところなんだけれど、あなた、試してみない?」

「別に構いませんけれど、私似合わないと思いますよ。奥二重だし」

「それをどうにかするのが、プロの仕事ってもんよ」


 バッグから出したパレットやブラシ各種にちょっと引きながらも、彼女は黙って私の手を受け入れてくれた。



「基礎化粧はしているのね」

「さすがに。と言うか、兄が色々買ってきてくれるので。年頃だからと」

「お兄さんがいるの。良いわね、妹の肌状態を見極めてくれるなんて有望株よ」

「何の株ですか。あげませんよ」

「欲しいとまでは言ってないわ。でも羨ましい。私一人っ子だったし、母もそう言うのは教えてくれない人だったから」

「私はお母さんがいるのが羨ましいぐらいですけれど」

「あら、お父さんとお兄さんと三人暮らし?」

「兄と弟もどきと三人暮らしです」

「スカート覗いて来るのは、弟君の方?」

「はい」

「男の子ってデリカシーがないからね」

「まったくです」


 緑のアイライナー。茶色のアイシャドウ。ピンクのチーク。別に彼女の黒いワンピースはゴス系の趣味がある訳じゃなく、ただ黒いだけらしかった。ずっと観察していたのに、見ていたのは結局顔だけだったってことか。職業病かしらね、これも。

 涙袋を作るとちょっとむずむずするのか瞼が動く。今なら。ごくりと喉を鳴らしたけれど、まだ早い。もう少し手なずけてから。信頼されてから。でないとおいしく食べられない。女子とは食に貪欲なのだ。出来る限り美味しい状態で食べたい。


「はい、あとはリンパマッサージも教えておくわね。このオイル使って、首をこう」

「こう」

「そうそう」


 子供は自分から美味しくなる事は出来ない。でもある程度の年頃ならこうしてしっかりと下味を付けられる。乳脂の脂っぽさも嫌いじゃないけれど、やっぱりこの子も食べてみたい。美味しく美味しく味付けをして。

 月光の下で公園の広場に座りながら、私たちは食事の準備をしていた。

 食べる方と食べられる方の準備を。



 満月に肥え太った月が窓に映る電車の中、あれから半月経って玄霞ちゃんは私に大分気を許してくれるようになった。と言うか、警戒をしなくなってくれた。今日はリップを試す番。暗闇でも見えるようにペンライトを持って。ピンク系、オレンジ系、ベージュ系、どれが似合うかしら。自分で育てているから楽しくなって来ているけれど、あくまでそれが下準備だと言うことは忘れていない。


 随分足が高く上がるようになって下着が見えていることもある玄霞ちゃんは、私の気配を感じると、さっとそれを下げて見せた。クレンジングはバーム系が良いようでそれを渡している。お兄さんには戸惑われているようだけど、弟君には綺麗になって帰って来ると好評だ、と複雑そうな顔を見せられた。まあ、公園の誰もいない場所でメイクされてるなんて傍から見たら怪しいことこの上ないだろう。


 でも彼女は彼女の意思でここに来ることを止めない。私の餌になっていくのを止めようとしない。リンパマッサージはしっかりしているらしくて、頬の色はよくなっていた。それをグリーンの化粧下地でフラットにし、アイメイクから始めていく。今日はピンクとベージュ。若い子は何色でも似合うと思いがちだけれど、彼女は赤なんかの派手な色はあまり似合わない。

 寒色も微妙だから、やっぱり最初のグリーンが良かったのだろうか。でもラメがきらめくベージュとピンクも中々似合っていると思えた。

 いっそ、妬ましいほど。


 眉を書き、涙袋を作る。ハイライトを入れて、シェーディングもする。これは大きな手鏡を持たせて、コツを教えて行った。どうせ食べるのにそんなことしても無駄だ、思いながらもふむふむ頷いてくれる無垢な子が可愛らしくて抱き締めたくなる。この衝動はジル・ド・レだな、思いながらも私はエリザベートであることも止めない。


 ネイルもしていない短い爪を、やすりで丸く整えていく。ちょっとやりすぎて血が出た時は、とっさに口に含んでしまった。こくこくと飲み込む血は、美味しい。最近この子につきっきりで飲んでいないから、余計に。若い血は美味しい。ああ、なんて甘美な。


「理沙さん?」


 さすがに長く吸いすぎて訝られてしまった。慌てて離すと、もう血は止まっている。でも一口飲めた、その官能がゾクゾクと頬に集まるのを感じた。

 もう良いだろうか。食べても。デコルテもマッサージしましょうね、と私はその白い肌に触れる。


 ぞっとするほど、冷たい。

 あんなに温かで甘い血が走っていたとは思えないぐらいに。

 冷たかった。


「――私」

「え?」

「殺意には敏感な方なんですよ。こんな体質してるから、自分に向けられる敵意や害意には敏感なんです」

「玄霞ちゃん?」

「でもあなたは何をしてくることも無かった。だから観察してみようと思った。そして今日、やっとあなたの目的が分かった」

「何を言って――」

?」


 一気に首を絞めようとすると、両耳をぱんっと横から叩かれて耳の奥が痛くなる。鼓膜が割れそうなそれに、彼女は私を見下ろしていた。いつの間に立ち上がって。私も早く立ち上がらないと。そして彼女の血を吸わないと。何のためにこの半月、用意していたのか分からなくなってしまう。血を。血を吸いたい。

 彼女の血を。だけどふらふらした足はすぐに蹴られてすっころぶ。蹴られたのなんて初めてだった。私はいつだって誰からも一目置かれる存在だった。親戚の中でも、会社でも。でも今は違う。化粧と言う鎧を身に着けた彼女は、美しく、若く、そして何より強かった。


 『必要悪』。言葉が生まれて頭を回る。もしかして彼女はそうなんじゃないか。人を誑し込んで痛めつけてそれを笑う。人はそれを『悪』と言う。でも『必要悪』なら、どうしても構わない。私は彼女の足に噛み付こうとする。すっと上げられた脚は、私の脳天を直撃した。

 でも私も負けない。口の中に血の味がする。自分の血は美味しくない。彼女の血が絶品なのも『必要悪』だからだろうか。どうしても良い存在だと思えば、足首に噛み付くことだってできた。だけど肌色のストッキングに邪魔されて、犬歯は内側に入って行かない。もう少しなのに。もうちょっとなのに。あとほんのちょっとなのに。


 もう一度頭に振り下ろされる、槌のような踵落とし。

 頭を強くアスファルトにぶつけた私は、絶命した。

 ぐちゃぐちゃの化粧はもう武装にならなかった。

 ただ、醜いだけだった。



「玄霞。今夜は踊りに行かないのか」

「うん。もう目当ての相手はいなくなっちゃったし。興味あったんだけどな、連続幼児吸血殺害事件。案外つまらないおばさんで、まあ化粧のレクチャーしてくれたのは良かったかなって思った程度。今度化粧品買いに行こ、兄さん。あの人が勤めてたとこのなら女子校生向けメイクも結構そろってるから」

「なんで僕は誘ってくれないの!? いつも綺麗って言ってたの、僕だよね!? 昨日も顔が立体的に見えるメイクとピンクのアイシャドウが可愛いって言ったよね!?」

「あんたなんか相手にしてないのよ。私は兄さんが良ければそれでいい」

「高校生にメイクはまだ早いと思う」

「霧玄くんそれっておじさんの意見だと思うよ」

「じゃあ行かない。基礎化粧品だけで良いや、まだ。二十歳ぐらいになったら考える」

「ぶー……でも本当に踊りに行かなくて良いの、玄霞ちゃん。テレビで宝塚歌劇団見てからずっと独学で練習してたのに」

「私に水色メイクは似合わないと実感したからね。付け睫毛も手が震えて無理。それにあんな厳しい女の園に行ったら、私の能力爆発して今度こそ解散の危機だわ。それは嫌。見るだけで満足する」

「能力爆発!? それはそれで見てみたい……でも僕が雑用で入り込めばみんな幸せになっちゃうから大丈夫だと思うよー」

「足し算も出来ない用務員雇うと思う?」

「コーヒーショップではレジ打ち習ったから、PCか電卓か携帯端末使わせてくれたら出来るよ! 玄霞ちゃんだっていんすうぶんかい出来ないくせに!」

「私は良いの。それが必要とされるものじゃなかったから。ねえ兄さん」

「俺は今からでも復学してほしいが、それには靂巳と一緒じゃなくちゃならないからな……靂巳、個人レッスンの塾とか行ってみるか?」

「やだ! めんどくさい、かったるい、楽して暮らしたい!」

「玄霞のためでも?」

「うわっ霧玄くん卑怯ー! でも玄霞ちゃんのためなら僕、バイト投げ出して行っても良いよ! でもお小遣いは下さい!」

「図々しい居候ね」

「僕は家族じゃないの!?」

「あんたなんて居候で十分よ。もしくはペット。何しても死なないから、私には丁度良いペットになるかもね。前に飼ってた猫は殺されちゃったし。しかも下駄箱の中に入れられて」

「玄霞ちゃんの痛い話、段々慣れて来てるけどこれって良くない兆候だよね、霧玄くん……」

「そうだな……俺も因数分解できないし、玄霞にだけ無理させるのも良くないことだったな……」

「いや僕もだからね!? 僕も入ってるからね、霧玄くん! そこ忘れないで、泣いちゃうから! うー、ほんと、君たちといると僕がどれだけ『幸せ』だったのか分かる感じがする……」

「強制細胞分裂で無理やり成人させられている奴を『幸せ』とは一般的に言わないと思うが……まあ、お前がそう思うならそれで良いんじゃないのか」

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