第71話 若狭の乱
◇ 天正8年(1580年)4月 丹波
「夏には………」
明智光秀は呟いた。
光秀は方面軍の大将として丹波の制圧と丹後の一色氏の討伐と播磨の別所長治の討伐を任されている
老体に鞭打ち、各地の戦場を激しく動き回る日々であった。
とはいえ、今の状況はそんなに長くは続かないだろう。
摂津の荒木村重は有岡城を脱出している。有岡城の士気は落ちており、夏までには落城するはずである。
そうなれば別所長治の籠城する三木城は孤立して降伏する。
三木城を囲む兵力を他の戦場に回すことが出来れば、丹波と丹後の制圧も時間はかからないだろう。
伊賀方面での大敗北と紀州での反乱がなければ、もう少し援軍が来たかもしれない。
今が一番大変な時期なのだ。
ここを乗り切れば楽が出来る。
光秀は自分にそう言い聞かせた。
そんな光秀の元に伝令が慌ててやって来る。
「敵襲です! 津田信澄殿が応戦してます」
丹波の国衆に光秀は深く苛立ちを覚えていた。
ようやく制圧してこちらに下っても、風向きが変わればすぐに裏切るのが常。
何度同じことを繰り返せば良いのか。
一時の勝利に安堵しても、すぐに背後から刃を向けられる。
もはや、この地を安定させるには、いっそ根切りにしてやる他はないのではないかという誘惑に、光秀はたびたびかられていた。
「こちらも応戦する。戦の準備を整えよ!」
光秀は迷いなく命じ、軍勢を整えた。いつもの丹波勢の小規模な奇襲だろうと、高を括っていたのだ。
しかし、敵軍の勢いは光秀の想定を遥かに超えていた。
「津田信澄様が討たれました!敵軍がすぐそこまで迫っております!」
血相を変えた伝令が、悲鳴のような声で告げた。
光秀は驚愕に目を見開く。「なんだとっ!」と叫びながら、己の想定が甘かったことを悟る。
これは小数での奇襲ではない。明らかに、この日のために周到に準備された、大軍による本気の攻勢だった。
「敵の旗印は確認できたか!」
光秀の焦燥に満ちた問いに、伝令は言葉を詰まらせ、震える声で答えた。
「それが……若狭守護、武田元明殿です。武田元明、謀反にございます!」
◇ 天正8年(1580年)4月 若狭
武田元明は若狭の守護である。しかし、その肩書きはもはや名ばかりのものだった。
織田信長の家臣として西若狭五万石の支配権を得たものの、彼は明智光秀の与力として働く日々を送っていた。
信長のやり方、そしてその配下として若狭の地に君臨する日々に、元明は拭い去れない不信感を募らせていた。
その感情は元明だけのものではなかった。かつて若狭を治めた武田家の復興を願う国衆たちもまた、織田の支配に強い不満を抱いていた。
彼らは元明をかつての守護として担ぎ出し、「今こそ若狭武田家再興の好機」と囁きかける。その言葉は、元明の心に深く響いた。
しかし、謀反を起こしても勝ち目などないことは明白だった。
だが、播磨の別所長治や摂津の荒木村重といった者たちが、次々と織田に謀反を起こしている。
動くなら、今しかない。そう決意を固めた元明は、驚くべき行動に出た。
丹波攻略中の明智光秀に対し、奇襲を仕掛けたのだ。不意を突かれた光秀軍は混乱に陥り、元明は信長の甥である津田信澄を討ち取るという大金星を挙げる。
この一撃は、若狭の国衆たちに大きな衝撃を与えた。
「武田様が動かれたぞ!」
「今こそ、我らが立ち上がる時だ!」
粟屋勝久、逸見昌経をはじめとする若狭の国衆が次々と元明の元に馳せ参じた。
元明は彼らを率いて、若狭全土に反旗を翻した。
その夜、元明は妻の竜子と向かい合っていた。竜子は幼子を胸に抱き、不安そうな眼差しで元明を見つめる。
「大丈夫なのでしょうか……」
その声は、震えていた。
元明は静かに頷き、妻の手を握った。
「心配するな。今や若狭九万石が我らの味方だ。この勢いに乗じて、必ずや若狭武田家を再興させてみせる」
彼の言葉には迷いはなかった。もはや後戻りはできない。
それは武士としての最後の矜持だった。
元明は妻の不安を払拭するように、力強く言い聞かせた。
「この命に代えても、お前とこの子を守り抜く。信長公の理不尽な支配から、若狭を、我ら武田の家を、取り戻してみせる」
元明の瞳には燃えるような決意の光が宿っていた。
竜子はその力強い眼差しを見て、安堵の表情を浮かべた。
二人は互いの存在を確かめ合うように、静かに身を寄せ合うのだった。
◇ 天正8年(1580年)4月 安土城
京都守護職の
命じられていた京都で信長が在住することになる本能寺の普請完了を報告するためである。
しかし、信長の機嫌は最悪だった。貞勝は、最悪のタイミングで来てしまったことを察した。
「若狭の武田が謀反した。若狭を与えてやったというのに、恩を仇で返すか」
信長は苛立ちを隠さず、低い声で吐き捨てる。若狭の武田元明の反乱は、今最も集中すべき武田攻めを前にして、思わぬ横槍であった。
「そして、信雄の奴だ。勝手に兵を動かし、あろうことか伊賀衆ごときに大敗しておる」
信長の苛立ちは、一門の不始末に対して頂点に達していた。
信雄は伊勢の兵に加え、周辺国の美濃や近江からも兵を調達し、さらには大和にも援軍を要請していた。
織田軍の主力は常備兵と傭兵だが、信雄は農閑期を利用して農兵を根こそぎ動員したのだ。
褒美目当ての傭兵に近い彼らを率いて集めた三万もの大軍勢が、伊賀のゲリラ戦の前にズタボロに負けた。
これでは、しばらく畿内方面で軍勢を再組織するのに大きな手間がかかるのは必至であった。
「あの失態のおかげで、畿内の軍事力が著しく削がれた。愚かにもほどがある」
信長は肘掛にもたれたまま、次々と懸念事項を口にした。
それは誰かに指示を出す「軍議」ではなく、荒れた心情を吐露し、複雑に絡み合った戦線と事態を自らの胸中で整理するための、孤独な独白であった。
村井貞勝は、その役割を理解し、一言も発さずに主君の言葉を受け止めていた。
「紀州では土橋春継ら雑賀衆もまた騒ぎ始め、そして東では蘆名が越後に攻め込んでおる」
東も西も戦線は火種だらけであった。
「やはり武田攻めは時期尚早であったか。畿内の争乱を収めるために信忠に付けている一益を戻すか………」
滝川一益は織田信忠と共に武田攻略の為に信濃へ攻め込んでいる。
優秀な彼を引き抜くことは、武田攻めを停滞させるかもしれない。
信長の独白は止まらない。彼はこの全ての厄介事の根源と、その対処法を、自らの胸中で一つ一つ整理しようとしているようだった。
やがて、信長は全ての懸念を整理し終えた。その眼差しに、曇りのない鋭い決断の光が灯っていた。
「一益を若狭へ送り、光秀の援軍とする。伊賀と紀伊は守りは強いが、こちらに攻めて来ることはない。当面は現状維持でよい。あの失態の尻ぬぐいは、信雄にやらせる」
信長の思考は最も厄介な問題へと向かった。雑賀衆を抑えるには、背後の本願寺との講和こそが最も早い。
「お前は早く京へ戻れ」
信長は一息つくと、貞勝をまっすぐに見据えた。
「朝廷工作を進めて、いち早く本願寺との講和をまとめるのだ」
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