辺境の治癒術師は今日も死ねない
雪兎
プロローグ
老いず、死なず、数百の勇者を屠った魔物魔族の首魁――魔王。
彼の者は千年魔王とも呼ばれ、名の通り千年の時を時代に刻み、人類の宿敵として戦乱の世を築いてきた。
永劫に続くと思われた人類の悪夢は、しかしひとりの青年が率いるパーティによって断ち切られた。
「これでトドメだ!」
膨大な魔力に浸された青白い肌を白刃が貫く。
魔王が魔を統べる特異点であるように、人類にとっての特異点である勇者。その数百にも及ぶ歴史の中でも殊更優れた逸材である英雄アイン。そして彼が振るうのは不死すら終わらせる星屑の剣。
運命という他ない二つの奇跡が重なり、千年魔王は遂に滅びた。
かくして世界の支配権は人類の手に渡り、魔物と魔王の側近であった魔族は掃討された。
また魔王に与していた亜人種も人類により統制され、世界に千年ぶりの平和が訪れたのだった。
※※※
湖面のように光を写す高純度のアダマンタイト。その硬度は精錬された鋼鉄よりも高く、研いで刃にすれば断てぬものは無い。市場に出せば王都の一等地と換えても釣りが来る。
それを鍋に、まして使い捨てにするなど鍛治師が聞けば卒倒するだろう。
そのような冒涜の鍋には煮え立つ汚物が注がれていた。
見比べれば沼地が澄んで見える強烈な色合いで、腐敗した臓腑を煮詰めたような臭気を醸している。
見るからに毒であるソレは、見た目通りの激毒だ。それもコップ一杯で湖一つを死の世界に変えられる、ヒュドラの毒を煮詰めた狂気の産物である。
そう、狂気だ。
冒涜の鍋に満ちる狂気の毒。
拭えぬ悪臭は吸い込むだけで意識を混濁させ、触れるモノ全てを爛れ溶かす代物が何に使えようか。
人を殺すならより優れた無味無臭の毒がある。魔物最強と呼ばれるドラゴンとて一滴あれば事足りる。
もしも作り手が画策するのなら、王都を流れる生活水路に流せば王都転覆も叶うだろう。
だが作り手である青年は人類を滅ぼそうとは思わない。興味がない。
悲願達成の手段となれば厭わずに行うが、人類世界を滅ぼしたとて叶わぬ望みである。
青年は鍋を掴む。
ジュウと手が焼き付き、汚臭に肉が焼ける臭いが混じる。
痛みはある。当然だ。しかし青年は手を離さない。それどころか顔の前まで鍋を持ち上げるとその縁へ、恋人へ交わすかのように愛おしく見つめながら口を付けた。
「あ、ガッ」
歯も舌も、口腔の中身が溶けて喉の奥へと流れていく。
筆舌し難い苦痛に目玉をひん剥きながら、なおも流し込む手を下げない。
総身が震え、目の端から流血する。舌の下側と喉が焼け解けて激毒が零れ落ちた。
遂に意識が途絶え、青年は糸が切られたマリオネットのように崩れ落ちた。
ビクビクと痙攣がしばらく続き、やがて静寂が訪れた。
盛大な自殺であった。
金も手間も労力も過剰なほど注ぎ込んだ贅沢な自死。
そうすることでしか青年は救われなかった。救われたいがために自死を選んだ。
けれど運命の繰り糸は青年を離さない。
事切れたはずの身体がピクリと跳ねる。
青年は徐に腕を立て身体を起こす。頬骨が覗く顔は表情がなく、生者が浮かべるにはあまりにも無機質だった。
「ぇか」
発声に必要な器官を根こそぎ失った声は言葉にならず、聞き取ることさえできない。
だが敢えて汲み取るのなら失意だろう。
この方法でも死ねなかった。
幾十、幾百の死に方を模索して試行した一つ。落胆さえ飽きそうなほどの失敗を積み重ねてきた。
――諦めれば良いものを。
頭の内側から甘言を吐く男の声。
幾度も夢に見た魔の首魁、人類の怨敵である彼の者の声。
その声を知るのは世界全てを浚っても、ほんの一握りだろう。
最も五百年という歳月を生きられるのは人ならざる長命種のみであろうが。
青年が爛れた手を喉にあてると時が巻き戻るかのように皮膚が戻る。
それから青年はゲホゲホと咳き込みドス黒い血を吐くと大きな咳払いを一つする。
「……次だ」
静寂に溶ける独り言へ、頭の中の声が吐息を被せた。
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