第4章 星尽く夜
陰惨で温かく不毛
両親が死んで一〇年ほど、ロクに捻らなかった蛇口からは。
意外にも、赤錆にまみれた汚水は出なかった。小脇に置かれた浄水器の賜物だろうか。仄かな湯気を立て始めた温水が、湯船に溜まるのにそこまで時間は要らなかった。
水が纏わりついてきて、風呂は昔から嫌いだったけど。
今は、ありがたかった。ちょうどよかった。待たされる時間は、一秒でも少ない方が精神衛生上好ましかった。
――『お風呂、入りましょっか。唄先生』
――『ほら……凶器とか隠せないですし、……安心、でしょう?』
困ったような笑みを無理矢理作っている、そう見て分かるほどに痛々しい火花の提案を、唄は、断れなかった。
両親を殺して。
金を奪って、逃げてきて。
そんな殺人犯の少女に、恐れをなしたから――――では、なく。
「…………んっ……ふ、ぅぅぅぅ……」
座った腰より少し上くらい、半身浴に相応しい湯量。
やや温めのもったりとした、のぼせるにはかなり時間が必要なお湯だった。そこへ入るには、あらゆる衣服を脱ぎ捨てなくてはならず、唄も当然、眼鏡以外は全裸であった。
そして、彼女の三角形に曲げた脚の、その隙間へと。
「…………」
黙って、そっと、滑り込むように矮躯を収納する火花も、また。
一糸纏わぬ裸体。眩しいばかりの白。首元も胸も秘部さえも、精々が手で隠すのが関の山。
――――相応しいと思ったのだ。
風呂は、禊の場だ。肉体の汚れのみならず、心の穢れをも洗い流す場所。特に湯舟は澱のような澱みを、溶かして流れさせるような心地がして。
だから余計に、唄は風呂が嫌いなのだけど。
今、この時だけはきっと、溶かしてしまうのがいいのだろうと。
罪を抱えた少女を前に、そう思ったのだ。
「……………………」
「……………………」
「………………」
「………………」
「…………」
「…………はぁ、ぁ……」
促すでもなく、それでいてじっと待つのも焦れったくて。
結局なにもできないままだった唄の耳に、か細い、湯気に噎せるような溜息が聞こえてきた。
「っ……火花、ちゃん……」
「……バレちゃった、かぁ…………まぁ、遅かれ早かれでしたよねぇ。……すみませんでした、唄先生。ご迷惑、おかけして……」
「っ、い、いや、別に……そ、の――」
肩を竦め、ただでさえ細い身体を排水溝へ吸われそうなほどに縮める火花。
――『バレちゃった』
――――なにが? と唄は悪足掻きをやめなかった。主語が明かされていないのなら、希望はあった。『両親が死んだ』ことが露見しただけなら、まだ、まだ――
「――ほっ、本当に、火花ちゃん……殺しちゃった、の……? おとうさんと、おかあさん、を……あ、あの刑事さんたちが早合点して、勝手な憶測を話してるだけとかじゃ――」
「本当の、ことを」
火花の口調は、決して激しくはなかった。湯に浸かっているとは思えないほど、冷め切って落ち着いていた。
淡々と、まるで義務でもこなすかのように。
彼女は、薄く笑いながら訊いてくる。
「言ったら、教えたら、明かしたら、告白したら……軽蔑、しますか? 唄、先生……」
「…………!」
――あぁ、本当なんだ。嘘じゃないんだ。
――この娘は、火花ちゃんは……本当に、殺したんだ。
――だから……だから今、こんな、必死に、抑えてるんだ……。
唄は考える。確信する。何故ならそれを、抑え切れなかった自分がいるのだから。
嫌われたらどうしよう。拒まれたらどうしよう。相手が感情ある人間だからこそ、確定できなくて怖くて仕方ない想定。心配。
或いは妄想。
或いは、杞憂。
――――言い切れる。成程、と唄は得心がいった。火花の気持ちが、今この段になってようやく分かった。
「……最初の頃、話したよね。わたしが、血に魅せられて……執着するようになった、きっかけについて」
「…………? 唄先生、なんの話――」
「あの時、額を切り裂いてきた男の子はさ、別に、わたしを襲った理由も、暴れた理由も、特になかったんだよ。なんとなくだったの。テンションが上がったー、とか、うん、その程度……だからわたし、あの男の子、大嫌いなんだよね……。芸術への道を拓いてくれたって見方も、できなくはない、けど……うん、やっぱり嫌いだ」
「……………………」
「わたしが、人を嫌いになる理由なんて……そんなもの、だよ。火花ちゃん」
ぽたり、髪先から雫が落ちる。高い水音がやけに浴室で反響する。
人殺しの、犯罪者と向かい合っているのに。
唄に恐怖心はなかった。拒絶反応もなかった。鳥肌は揃って大人しく汗腺を働かせていて、額には冷や汗ではなく、健全な汁が溢れ出していた。
「そりゃあ、驚いたけどさ。火花ちゃんが、人を殺したって聞いた時は、嘘だって思いたかったけど…………えへ、えへへ、ふえへへへ……ねぇ、最低なこと、今から言うよ……?」
「……なにを――」
「別にさ。……わたしが火花ちゃんに、なにかされた訳でもないし、ね」
「……………………」
「むしろ、わたしが火花ちゃんに色々してるし……それも、全部許して、受け容れてもらってるんだもん。軽蔑とか……頑張ったってできないよ」
「……絵の中じゃないですよ? 私……本当に、両親を――」
「うん、分かってる。……でも、どうして……?」
少し前のめりになって、唄は問いかける。彼女の芸術を形作る重大な要素、絵の裏に込められたストーリー、その動機を探るかのように。
正直な話。
信じられたけど、信じられていないのだ。綺麗に矛盾した感情が成り立っていた。
実質的な自供も取れたし、火花が両親を殺したのは事実だろう。
だが、足掛け六日も共に過ごした、この少女が。包容力の塊としか思えない優しい火花が。
人を殺したという事実そのものに、いつまでも疑問符がへばりついてくるのだ。
想像できなかった。すとんと呑み込めなかった。
一体、どれほど酷い惨状を味わえば。
自分なんかを全肯定してくれる、優しさの権化みたいなこの少女が、実の親を殺せるのだろうか――――単純に、純粋に、不思議で不思議で仕方なかった。
「……一応、一応言っときますけど。勘違いはしてほしくないんですが」
唄先生の所為じゃ、ないんです。
絶対、そんなことはないんです。一ミリたりともありません。
――――強く、しつこく、くどいくらいに前置きして。念押しの力が余ったのかぱちゃぱちゃと水面を叩いて。
火花は、飛沫に顔を濡らしながら、湿る髪と共に顔を俯かせた。
「……どうしても、私……唄先生の、個展に、行きたかったんです……」
ぴちょん、彼女の髪先からひと粒、雫が落ちて。
火花はしめやかに、厳かに、唱えるような自白を始めた。
「……わたし、の……? え……普通に、来ればいいんじゃ――」
「……そういえば、言ってませんでしたね。私……家、凄い田舎なんですよ。ネット回線すら危うい場所で……ほら、スマホも、持っていないでしょう? 繋がらないんですもん」
「…………!」
言われて、唄は完全に失念していた事実を思い出す。
現代において拉致や誘拐をするならまず、携帯電話を始末しなければならない。いつでもどこでも位置情報を送り続けているあの端末に、意識を割かない訳にはいかないはずなのに。
忘れていた。忘れていられた。
最初から彼女のポケットに、そんなデバイス入っていなかったから――――
「そんなド田舎から、新幹線で県境を三つも越えて、ここまで来るなんて……中学生の私には、大冒険でした。それもゲームと違って、リアルマネーのかかる奴です。未だに値札が一〇円とかで成り立ってる駄菓子屋が健在なあそこで、貰えるお小遣いなんて高が知れてます。……パパ活も考えたんですけど、お年寄りばっかりでそれすら難しいんですよね……あはは……」
「っ…………」
言ってくれれば。話してくれれば。
――――なんて、そんなの今だから言えることだ。火花が本当に自分のファンで、心底作品を理解してくれて、芯から作品を愛おしんでくれている。そう分かっているから出てくる温情で。
ネットで、文字だけで、どれだけ熱烈に褒められたところで。
お為ごかしと思うか、最悪、見もしないか、その二択。
他者からの評価を欲しがるくせに、人からの批評に臆病で卑屈。悪い文脈だけが脳にこびりつく性質の唄には到底、望むべくもない社交性だった。
「……だから、唄先生の所為なんかじゃないんですってば。もう……前置き、しておいたでしょう?」
なにか言いたげで、でもなにも言う資格はなくて。
それでも言わずにいられなくて、なのになにを言うべきか分からない――――そう思っているんだろうなと、火花は敏感に察知して、手を伸ばした。すっかり湿り気を帯びた橙の髪を、小さな手でぺたぺたと撫でた。
――やだなぁ、そんな顔、しないでほしかったのに。
――私が、あの人たちを。
――殺した理由の枢軸は、そこじゃないのになぁ。
「……唄先生も、そうだったでしょう? 学生が我儘を通すには、親への懇願が必須なんですよ。……私も、お願いしたんですよ、あのふたりに。…………あぁ、今思うと私、もっと上手い嘘でも吐くべきでしたかね…………正直に私、言ったんですよ。大好きな唄先生の個展に行きたいから、お金を貸してくれって」
「…………ダメ、でしょ……そんなの――」
「……それ以下ですよ。あの毒親共……唄先生の芸術を微塵も理解しないで、それどころか……酷い、罵詈雑言を…………!!」
自分の髪に添えられた、火花の手が、指が。
見る見る力を漲らせていくのが分かった。それでも頭皮へ爪を立てないのは、彼女なりの精一杯の辛抱だった。
――『あんな薄っぺらな連中のつまらない感想なんて、どうでもいいですよ』
――『紙より薄っぺらな連中の戯言を、唄先生が気にする必要なんてないんですっ!!』
火花はなにも、温厚篤実で優しいだけの少女ではない。唄だって散々叱られてきたし、なにより、唄への誹謗中傷に対しては烈火の如き反応を覗かせていた。顔の見えない俄か批評家へ、苛烈な怒気を滲ませていたのは記憶に新しい。
敬愛という言葉では表し切れない念を、唄へ抱いている火花が、そんな。
自ら『罵詈雑言』とまで評するほどの非難を耳にしてしまえば――――どうなるかは、想像に難くない。
なにしろ答えは、目の前にあるのだから。
「……それで……怒って、くれたの? ……殺して、く――」
「怒るなんてものじゃありませんよ、憎悪です憎悪っ!! あぁ今思い出しても忌々しい腸が煮え繰り返る唄先生に聞かせたくないから死んでも言いませんけどっ!! 地雷を踏まれるってああいう感覚なんでしょうね……あそこまで、あそこまで人を許せないと思ったのは、生まれて初めてでしたよ。だって……だって私、大好きな芸術家の作品を見に行きたいって言っただけですよっ!? それを、それをっ……あぁもうっあんな奴らから生まれてきたこと自体が屈辱過ぎるっ!! クソ毒親が……あんなの、あんなの到底、受け容れられませんよっ!!」
「…………火花、ちゃん――」
「――――だから」
眼を覆い、ぶんぶんと首を振り、湯が泡立つほどに唾を飛ばし叫んでいた火花が。
すんっ、と急に動きを止めて、両手を湯の中へ墜落させた。
どこも見ていない。焦点のぼやけた瞳をだらりと逃がし、死体のように座り込んで。
「だから……殺しました。父親も、母親も、両方とも。……っふふ、知ってます? 意外と人間って、解体するの大変なんですよ」
戸練火花は。
自分自身を嘲笑うように、口角を吊り上げて、吐き捨てた。
「奴らが寝ている間に、何度も何度も、何十回も首を包丁で刺してやったのに……背骨が手強過ぎて、胴から首を離すのは諦めました。包丁の方が欠けちゃいましたし…………幸い、両親の財布には割とお金が入っていたので、勝手に貰っちゃいました。往路分にはなりましたし…………あの日、五日前。私は初めて……ひとりで、この都会にまで来たんです」
最後の贅沢が、唄先生の個展だなんて。
凄く凄く幸せで……道中ずぅっと、笑っちゃってました。
――――照れ臭さで赤く熱くなる頬を、カリカリと引っ掻きながら火花は言う。
思い出してもそれは、微笑ましい光景だったろうと彼女は思う。スキップで会場へ向かう彼女のことを、道行く他人がちらちら振り向いてみてきたのを、未だに憶えている。そんなに自分は浮かれているかと、ささやかながら恥じらったくらいだ。
それくらい、嬉しかった。幸せだった。
人生を両親の分まで擲ったところで、お釣りが来るくらいの僥倖だった。
大好きな芸術家の絵を、直に、生で、間近に見られる。数世代は前だろう古めかしいパソコンしか家になかった火花にとって、人で溢れる都会すらも奥深いスパイスだった。冷房が効き過ぎたあの会場は、天国のような場所だった。
退屈な本を読んで、四〇〇字詰め原稿用紙を数枚埋めるよりも。
何倍も何十倍も何百倍も、日本にある原稿用紙全てを使っても足りないほどの感想文を書き連ねることができるだろう――――火花は本気で、そう思っていた。
「っ……な、に……最後、って……」
その一部でも。ひと欠片でも。
目の前の、偉大な芸術家に伝えたいのに――――火花は零れ漏れてしまった、己の失言に嘆息する。ぐゎんと顔を持ち上げ、後頭部を湯舟を囲む壁へとそっと打ちつけた。
――本当……細かいところ気にするんだから……。
――自分のことは大雑把なくせに……まぁ、でも、だからこそ。
――あんな作品たちを、描けるんだろうけど。
「言葉通りですよ。唄先生の個展を観終わったら――――テキトーに、死ぬつもりでした」
そう自白しながら、火花は、笑みがまろび出るのを止められなかった。
目の前で唄が、尋常じゃない顔をしているけれど。怒っているのか悲しんでいるのか焦っているのか、それともどれを一番にするか決めあぐねているのか。いまいち判然としないぐちゃぐちゃな顔をしているけれども。
火花には、あまり関係なかった。
唄がどう思うと、どう考えようと、あまりそこには関心がなくて。
大事なのは――――火花自身が、どう感じたか。その一点だった。
「なっ、なんっ、で……どう、して、そんな、こと――」
「っふふ、なんて顔してるんですか、唄先生。……簡単じゃないですか。私、両親を殺してるんですよ? そんな前科持ちが、田舎でどんな扱いを受けるかなんて……想像、したくもないでしょう?」
到底、受け容れてなんかもらえないでしょうし。
居場所なんて、なくなってもう、戻らないですよ。
――――無耳唄は、命の尊さを知っている芸術家だ。火花にはそれが分かっている。
だから、敢えて言わなかった。口にはしなかった。だが言外に、希死念慮とはまた違う、諦観を滲ませた開き直りを添えていた。
人殺しと後ろ指をさされ続け、差別され疎ましがられ、酷い目にばかり遭いながら生きていく。
そんな、サンドバッグみたいな人生ならば。
死んだ方がマシだろう、と。
「……唄先生が、初めて私をモデルに描いてくれた絵、『貴女が欲しくって』。あれ、舞台が河原だったでしょう? 現実も、そうだったじゃないですか。唄先生が、私を襲ったのは、河原…………あれ、飛び降りるのにちょうどいい橋、探してたんですよ。地理とか全然分かんないし、ビルの屋上とかはあれ、セキュリティが厳しいんでしょう? ……したいこと全部終わったら、すっぱり死んじゃおうって、……そう、決めてたんです」
けど、邪魔されちゃいました。
――――自分でも分かるくらい、弾んだ声で、火花は言った。
どうして、胸がこんなに高鳴っているのか、心臓が胸を突き破って出てきそうなくらいに跳ねているのか、よく分からなかった。熱くてのぼせるにはまだ、入浴時間は足りていないはずなのに。
なんだか、嬉しくて。喜ばしくて。誇らしくて。
顔も目も合わせないあの邂逅が、奇跡としか思えなくて。
「あの日、あの時……唄先生が、私を、攫ってくれました」
「っ…………」
唄も、さすがに謝らなかった。
殴られて、気絶させられて、拉致されて、監禁されて――――その悉くが嬉しかったのだと、ようやく伝わったのかと。
火花は、にぃーっ、と唇を歪ませた。
「私がこの世で一番大好きな芸術家に、命を救われたんです。生殺与奪の権を握ってもらえたんです。……なんだか凄くありがたがってくれますけど、逆です逆。いくらでも奉仕くらいしますよ。元気に作品創り続けてほしいのも本音ですし。……本当、夢のような五日間でした。本当なら、醒めないでほしいくらい」
唄の世話ができた。
唄の助けになれた。
作品のモデルになれた。
制作の原動力になれた。
――――その全てが、幸せだった。彼女のために生きればよくって、そのためだけに全精力を注げた。注ぎ込んだ分以上の見返りが常に与えられた。
家と学校を往復するだけの、退屈な日常などもう、どうでもよかった。戻りたいとすら思わなくなった。
ずっとずっと、この時間が続けばいいと。
毎夜毎夜、寝る前に思っていた。願っていた。明日もまた、この小汚いがらんどうで目を醒まして、不健康な芸術家の尻を叩ければと、祈りながら眠りに就いていた。
けれど……それももう、無理。
現実の使者はなんの情緒もなく、不躾に訪ねてきてしまったのだから。
「……なに……? なんで……そんな、なにを……っ、火花ちゃん、なにを言って――」
「唄先生――――……一旦、お終いにしなきゃなんですよ、もう」
凍りつく。空気も、唄の表情も。
引っ掛かりもその意味も、理解するのを拒んでいるかのような固まった表情。……その動揺すら誇らしくて、火花は誰にでも分かりやすい、平易な言葉を選んで言う。
「私……明日にでも警察に出頭してきます。……唄先生を、独りにしちゃい――」
「だっ、ダメっ、ダメぇっ!! そんなのダメ、ダメ、ダメ、ダメ……必要ないっ! そんなことする必要ないよぉっ!!」
叫んで、喚いて、暴れて、飛沫を上げて。
唄は火花へと縋りつくように、四つん這いの姿勢を取ってきた。
しな垂れかかるみたいに、両手を火花の肩へと巻きつけて。胸と胸とがこすれ合うほど近付いて。
潤んだ瞳から、ぼろぼろと涙を零しながら、譫言みたいに続ける。
「やだ、やだ、いやだ、いやだぁ……火花ちゃんが、いなくなるなんて、そんなの、そんなのいやだ……! いい、いいよ、ここにいなよ! ずっとここにいればいいよっ!! 夢みたいなんでしょ? 醒めたくないんでしょっ!? じゃあずっと、ずっとここにいれば……け、刑事さんだって、わたしが攫ったなんて毛ほども思ってないよっ! ずっとこの部屋にいれば、一緒にいれば、捕まる心配なんか全然要らな――」
「……ごめんなさい、唄先生」
でも、もうダメなんですよ。
――――汗と、飛沫と、涙でしとど濡れた顔を、抱き締める。唄が執拗に顔をこすりつけていた、平たい胸へと押しつける。
名残惜しむように、その形を確かめながら。
火花は、息も涙も全部感じながら、彼女を諭すように言葉を紡ぐ。
「……ダメ……ダ、メ……?」
「えぇ、ダメです。無理です。……私の足取りが、唄先生の個展以降途絶えているなら……唄先生は、いつまでも捜査線上から外れません。証拠がなくっても、強引に家へ上がり込んでくることだって考えられます。そうなったら……未成年の私はまだよくっても、唄先生は、未成年略取の現行犯です。私よりよっぽど、罪は重くなっちゃいます」
「…………」
「私が捕まるのはいいとしても……唄先生まで捕まって、刑務所に入れられちゃうのは…………嫌、です。私が、嫌なんです。唄先生が、唄先生の芸術活動に打ち込めない場所にぶち込まれる――――あなたが絵を描けなくなることが、私には、なにより恐ろしいんですよ」
「……………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………で、も……いや、だ……」
――――すぐに、理解った。無耳唄は言葉の意味を、ちゃんと把握できていると。
理解している。呑み込んでいる。納得している。反論できない。長い長い沈黙がその証だと、顔を見なくても容易に分かった。
容易く汲み取れてしまうくらい、唄のことを知れたのだと。
火花の胸は、また温かくなる。半身浴なのにのぼせて溺れてしまいそうだった。
「いやだ……いやだ、いやだよ……行っちゃ、いやだ……わたし、わたし……火花ちゃんがいないの、いやだぁ…………!」
「……安心してください、唄先生」
言って。
俯いたまま、嘆き続ける唄の頭を、ひと際強く抱き締める。
「私だって、嫌ですから。……っふふ、お揃い、ですね」
――『……好きな人と、似ているところがあったら、それは、嬉しくなっちゃうよ』
――『なんだか、そう……運命、みたいなの、感じちゃうじゃん……?』
唄が、絵を描きながら言っていたこと。正直、あの時はちゃんと理解できなかったけど、今なら火花は、彼女が言いたかったことを完璧に味わえる。
一緒にいたい。その一点を共有している今。
火花は、あまりにも間違いなく、幸せだった。
「…………?」
「人を殺しちゃった私は、もう居場所も行き場所もなくて、死んだ方が楽なんだろうなぁって、思ってました。……あのファンレターだって、どうせ死ぬなら恥はかき捨てって、先のない気楽な状況だから書けたものなんですよ? 正直、遺書みたいなもののつもりでした。――――でももう、状況が変わりました。居場所も生きる場所も、唄先生……あなたが、全部くれたから」
「……わたし、が……?」
「っふふふ……私、いちいち嬉しいんですよ? 私が……人殺しの犯罪者って知っても全然、態度を変えないでくれるだけで……。唄先生は……私がどうなっても、絶対に、受け容れてくれるでしょう? だったら……捕まるのも、全然平気、です」
「…………」
表情は窺い知れない。
出頭の決意を覆せなくて、悔しいのかもしれない。褒められて嬉しいのかもしれない。先々を悲観しているのかもしれない。将来に想いを馳せているのかもしれない。
ほんのわずか、小さく震える頭を抱いたまま。
火花は、自然と明るくなる声で歌った。
「刑期が終わって釈放されたら、一番に会いに来ます。約束します。唄先生の元に戻って、またごはん作って、お風呂に入って、一緒に眠って――――夢みたいな時間に、また戻ればいいんですよ。今度はずっと、ずぅっと♪」
「………………ず、っと……?」
「えぇ、ずっとずっと、ずぅっとです。死ぬまでずぅっと――――ううん、死んでもずぅっと続けましょう♪ ふたりでいつまでも、醒めない夢を見ていましょう♪ ――――大丈夫ですよ、唄先生。ちょっと離れたくらいで冷めるような、そんなミーハーじゃありませんから、私」
「…………」
「世界中の誰よりずっと、唄先生のファンでい続けます。大好きな唄先生の作品が、出来上がるまでのお手伝い、私にもさせてください。いつまでもいつまでも、ずっと一緒にいさせてください……♪」
「……刑期が、終われば……」
釈放、されれば……。
そしたら、また……!
――――ぼそり、呟く唄は自己暗示に夢中なように見えて、だから。
火花は、まるで気付かなかった。
「っ、ひ、ぅんっ!?」
びくんっ、と腰が跳ね、驚きのあまり唄の頭部を取り落としてしまう。
支えを失ってもなお、彼女の上半身は倒れない――――一体いつ、腕を肩から移動させたのか、火花はまったく気付いていなかった。
唄の、骨張った細過ぎる腕が、火花の下へと這入り込んでいて。
死んだ親と自分以外、誰も触ったことがないだろう大事な秘所――――その控えめな渓谷を、唄の指がするりと縦断していたのだ。
散々、唄のは触ってきたし、何度も洗ってきたけれど。
自分のが触られることは予想外過ぎて――――ましてや。
「……最後に、じゃあ…………我儘、言って、いい……?」
上目遣いで見上げてきて、未開の地を撫でた指を口へ含む唄が。
続けてねだってきたものも、まったく、予想だにしていなかったものだった。
「……火花ちゃんの……破瓜の、血が、見たいの…………処女膜、破って、いい……?」
「っ…………!」
「……刑務所、とか……少年院……? そういうところ、だと……女の子は、ひ、酷いこと、されがちだって……ネットに、書いてた……。もし……もし、火花ちゃんが、そんなことされたら……許せない、し、なにより……一生に、一度の赤色……命を、創るための赤色が……見られないなんて、嫌、だから……」
「……………………」
「……ダ、メ……?」
「…………まさか」
火花は。
背骨を筆で撫で上げられるような快感を堪えながら、にたりと笑った。
誰も触れたことのない、見たことすらない柔らかな未開の地が、じわりと湿り気を帯びるのが分かる。唇に舌を這わせて、溜まった唾をごくりと飲み込む。心臓はさっきより断然昂っていて、身体は誤魔化しようがないほどに熱くて死にそうだった。
笑う。笑う。笑う。笑う。
恋人がお別れする夜の、最後の営みみたいな。しかしその理由が、動機が、実に実に彼女らしい。血の赤に魅せられて、生命の象徴を描き続ける唄に相応しい。
生涯ただ一度の赤色を、捧げてほしいと我儘を。
言っていいのだと図々しく思ってくれたことが、火花には、なにより嬉しい。
「それでこそだなぁって、思っただけですよ、唄先生。…………じゃあ、我儘ひとつ、返してもいいですか?」
「…………わたしの、膜も……破る?」
「っふふ、魅力的ですね。帰ってきた後のお楽しみにさせてください。…………まぁ田舎の出なんで、周りじゃ早くから盛ってる同級生とかもいたんですが……私は、経験、なんにもないんですよ。正真正銘の初めてです。……だから」
優しく……は、どうせしてくれるでしょうし。
……気持ちよく、してくださいね?
――――何度も、何度も何度も頷く唄を、火花はほくそ笑みながら見下ろしていた。
そこまで期待はしていなかった。聞くところによると破瓜の痛みは、腹に焼き鏝を押しつけられるそれと同等だという。唄に女性との経験があるとも思えないし、むしろ痛みは覚悟していた。
苦痛と苦悶に喘ぐ自分の、その顔すらも見てもらえて。
処女を捧げた血と共に、作品へと昇華してもらえるかと思うと。
数年後に見せてもらえるだろう完成品が楽しみ過ぎて――――どうしてもどうしても、笑みを堪えることができなくなってしまうのだった。
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