浅き眠り
――綺麗、だ……!
ぷちゅんっ、と小さく噴き上がった鮮血は、奇跡か偶然か。
カーテンの隙間から、ちょうど差し込んできた月明かりに照らされて。
命の証、熱を湛えた血潮にもかかわらず、冴えた光でキラキラ輝いて。
ほんの一瞬、僅か数センチの赤い噴水を、唄は。
永遠に残る名画を脳へ焼きつけるように、じっと、じっと、じぃっと、見て、見て、見て、見て。
「…………は、ぁ……!」
ぞわぞわと、脊椎を這い上がるなにかの感覚に震えながら。
高鳴る鼓動を、ぐつぐつと煮える腹の熱を、苦しげな溜息として吐き出した。
――綺麗……。
――綺麗、綺麗、綺麗、綺麗……わたしのと、全然、違う色……。
――色……違う、色…………じゃあ。
――色、以外、は……?
「痛っ……たぁ……」
「――――っ!!」
思考だけが高速化した、スローモーションの世界。思うように動けないそれは呪いでもあったし、噴き上がる一瞬の煌めきを凝視できたのは、望外の僥倖でもあった。
ただ、おかしな夢は必ず醒めるのと同じように。
奇妙な状態は、いつまでも続かない――――声が、音が、唄の意識を解呪した。
かんからりと床とセッションし、包丁は滑ってどこかへ行ってしまい。
額を突かれて裂かれた火花は、しかし酷く控えめに、欠伸のように己の感覚を主張した。
「ひっ、ひひっ、ひっ、ひっ、ひ、火花、ちゃん…………!!」
「ん、あ、ちょ……お、思ったより派手に血が出て……ん、眼、入る――」
「――――っ!!」
唄の記憶が確かなら、火花の傷は、唄が幼少期に負ったものよりずっと小規模だった。
きっと痕も残らない、数日で跡形もなく消えてしまう傷。しかし、悪かったのは傷の場所だ。脳に近い頭では、大した怪我でなくとも多量に出血する。裂けた傷口からはだくだくと血が流れ続けていて、寝転がった彼女の顔を、余さず覆うように浸蝕していく。
生温かいそれが顔を這うのは、当たり前に不愉快だ。
だから火花が、血を指で堰き止めようとするのは当然だった。特に眼に入らないよう防ごうとするなんて、唄だって容易に理解できる行動だった。
けれど。
「え?」
「っ…………ぁ、ぁああ、あぁぁあぁあぁああぁぁ…………!」
なにを言うべきか分からず、口からは瀕死のカニみたいに泡混じりの吃り声が吐かれるだけ。――――そうしている間にも、火花は次善の策として、左の瞼を下ろしていて。
右の目は、変わらずに見つめている。自分に馬乗りになる、唄のことを。
血を拭おうとした左手を、掴んで止めて固まってしまった、唄のことを。
「……唄先生……?」
「っ、あ、あぅ、ぇ、ぉ…………ぁ………………ご、めん……ごめん、なさい……!」
――――死にたい、と、何度も何度も意識を上書きしようとした。
きょとんとした顔で見つめられるのが、辛かった。怖かった。唄がなにをしているのか、なにを仕出かしたのか、まだ理解していないような無垢なその目が、剣のように心臓へ刺さる。やってしまった、傷つけてしまった、嫌われる原因を作ってしまった。――――怖くて怖くて怖くて怖くて、謝罪の言葉しか吐き出せない。
そして、同時に。
ぼたぼたぼたぼた、自分の涙が火花の顔を汚すのが、嫌だった。
火花の左腕を拘束してまで、流れるがままにしている血。生命の赤。命の雫、生の証。
涙なんて不純物が混じって台無しになるのが、嫌で嫌で嫌で嫌で――――そんなことしか考えられない自分が、きっと気持ち悪くて、きっと醜悪だろうから。
何度も、何度も、希死念慮に抱きつこうと試みて。
何度も、何度も、赤色に魅せられて、戻ってしまう。
「ごめん、なさい……ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……!」
果たして繰り返されるだけの懺悔に、火花がどんな反応を示したのか。
それを見ている余裕はなかった。読み取る猶予もなかった。
――――所詮、低い位置から落ちた包丁が、滑って転んだだけの裂傷。絆創膏ひとつで解決するような軽傷だ。血もすぐに止まる。
勢いよく流れてくのも。
粘り気を発揮するのも。
確かな感触が残るのも。
温度を感じ取れるのも。
今、この一瞬を逃したらもう、味わえないかもしれない感覚。
なにより――
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……」
自分の声以外は、耳に入らないほどに反覆して。
唄は、火花の顔を見下ろす。彼女が身動きできないように、左手を頬に、右手を首に添えて。
どくん、どくんと、鼓動が手の平に伝わる。今を生きる血潮の熱が、指を焼くようだった。
血。血。命の雫。自分以外のでは初めて見る、生命の象徴。生きている証。
それも、大好きで大好きで大好きで大好きな、女の子の、赤色。顔の半分が血に侵され、ぽとっ、と床にまで垂れていく今、この瞬間しか。
チャンスはない――――だから。
火花は、ゆっくりと上半身を曲げながら、懺悔する。
「――――こんなに、気持ち悪いわたし、で……ごめん、なさい……」
言って。
唄は火花のそれへ顔を近づけて――――べろぉ、と。
形の悪いざらついた舌を、火花の頬へと押しつけた。
「んっ…………ぁっ……、…………」
――――犬か猫でも飼っていない限り、『顔を舐められる』という事象はそうそう経験するものではない。結婚を視野に入れた付き合いのできる大人ならともかく、義務教育真っ只中の子供では、特に。
三日間、触れ合い、話している中で。
火花がペットの類と縁がなかったのは聴いている。――――だからこのひと掬いが、頬という聖域への、最初の冒涜だった。
「はぁ、はぁ、はぁ……ごめん、ごめんね……ごめんなさい……ごめんなさい……」
「っ……」
涜神は続く。聖域は臭いの残る唾液で穢される。
頬まで流れた赤色を、舌先で味わう。ちろちろ、ちろちろと舌先で擽ると、ぴくんっ、と火花の血管が跳ねるのが分かった。無味に近い唾液での上塗りが終わると、唄の舌は頬から段々、段々と上へ上へ進軍していった。
ほんのわずか膨らんだ涙袋。
長く、艶やかな睫毛。
薄い瞼、整えられた眉。ぺろ、べろぉ、と舌が這いずり回り、まだ固まる素振りさえ見せていない血液を啜り取っていく。
――ちょっと、苦い。
――わたしのと、おんなじ……でも、違う。
――甘い……? 薄く、甘くて…………なんで、だろう……。
――少し……美味しいって、思っちゃう……。
「はぁ、はぁ……はぁ……はぁ、はぁ……ごめん、ね……火花、ちゃん、火花ちゃん……」
白い髪の毛を掻き上げて、唄はいっそう、息を荒くする。
今舐め取った温度は、血のそれか、それとも上気した自分の息か。それすら分からなくて何度も何度も、確かめるように舌を繰る。苦味も、甘味も、より濃くより強くなっていく。喉奥へへばりついてくる不快感、呼吸を遮る閉塞感すら、無理矢理な嚥下の度にぞくぞくと背筋を震わせた。
野生動物が子供の傷へそうするように、血を丹念に舐め取っていった末。
唄の舌はついに、火花の額へ到達する。
ぷつっ、ぷつっ――――耳を澄ませば血管の隙間から漏れ出てくる、血の流出の声が聞こえそうだった。
――――れろぉっ、と傷を縦断するように、唄は額を舌で薙いだ。
「っ……」
「火花ちゃん……ごめん、ね、火花ちゃん、火花ちゃん、火花ちゃん、火花ちゃん……!」
ぴくっ、と火花が眼を一瞬瞑ったことにすら、まるで気付かずに。
白んだ舌を真っ赤に塗り潰した血を、ぐちゅぐちゅ、ぐちゅぐちゅと口内で掻き混ぜる。攪拌の末に涎と混然一体になったそれを、喉を鳴らして飲み込む瞬間――――ぞくっ、と腹の底が熱くなったのが分かった。
外の空気にすら触れていなかった、出血したての赤色が。
特段に濃くて、苦くて、甘くて、熟成されたラム酒のようで。
――あ……まだ、出てる……。
――まだ、まだ、こんなに、出てくる……!
「んむっ……ちゅっ、ちゅぅぅぅぅ……っ」
出鱈目に刃が落ちて、乱雑に裂けた傷口へ。
唇をつけて、唄は、蝶が花へそうするように血を啜っていた。
ギザギザに刻まれた肌は、唄の荒れた唇を裂いてきそうで。
その微かな痛みすら――――彼女には、愛おしく思えた。
「――――っぷは! はぁ、はぁ、はぁ、はぁ…………んっ……ちゅ、ちゅっ……」
何度も、何度も、何度も、何度も。
残存した唾液に血が滲むのが見える度、唄は唇を吸いつけた。
血小板が固まり始め、血管を塞いで出血を止めていく一瞬一瞬が。
惜しくて、惜しくて、いつまでもこうしていたくて。
初めての、自分以外の血。大好きな人の赤色。
もっと見たくて、もっと感じたくて、もっと触れたくて、もっと味わいたくて。
「ちゅぅ……っ、っはぁ、はぁ、はぁ、はぁ……火花ちゃん、火花ちゃん、火花ちゃん、火花ちゃん、火花ちゃん、火花ちゃ――」
「――――っふふ、ふふふふっ……おなか、熱いですよぉ。唄先生……♪」
声が、かつてないほど近くから聞こえた。揶揄うような囁き声が、爆音のように鼓膜越しでも脳を砕いた。刹那、唄の思考も動きも遍く停止した。
内容を判別できてはいない。そんな理性は働いていない。
ただ、声をかけられた。それだけで彼女は、びくりと動きを止めて、ぶわりと汗腺が嫌な汗を噴き出させるのを止められなかった。
――あ。
――ああ。
――あぁああああああぁぁぁぁああぁぁぁあぁあああぁぁぁぁぁああぁぁああ!?
「っ、ご、ごめっ、ごめ、ごめんなさ、い、ごめん、ごめんなさい、ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい――――――――――――――――ぃうっ!?」
咄嗟。反射。脳を介さない脊椎での思考。
唄は慌てて、身体を起こした。手を離した。銃を突きつけられた犯人のように両手を挙げて、説得力が皆無な無害のアピールを試みた。
言い訳のしようなんて、どこにも残っていないのに。
あれだけ何分にも亘って、べろべろと火花の顔を舐めておいて。
血の味に、温度に、感触に、酔っておいて。
それに、なにより。
「え…………え……!?」
本人は気付いていなくて、だから。
上体を起こして、その勢いと重力とを、脆弱な膝は支え切れなくて。
罪を上塗りするかの如く、火花の腹を椅子にしてしまった瞬間――――背骨伝いに聞こえた水音に、誰より彼女自身が驚愕していた。
熱い。熱い。まだ熱い。
下着がべたりと、張りついてくるような感覚。……子供の頃に何度もやらかした、我慢の利かないお漏らしのそれを、まざまざと思い出して。
「え、え、え、え――――――――っ、んぅっ!?」
「あーぁあ……大洪水」
膝をつき、腿を立てて膝立ちになって。
粘ついた汚濁を、火花の身体から離そうとした、その、直後。
そんな火花の、傷のひとつもない細い腕が、するり、ワンピースの中へと潜り込んできた。
――――さわ、さわ。愛撫とすら呼べない、あまりに優しい手の平。母親が子供の頭へやるように、ただ数回撫でられただけなのに。
声を押し殺すのに精いっぱいで、唄は。
再び火花の腹へ腰を落とすのに、勢いを殺すことすらできなかった。
「っふふ……見て、見てくださいよ、唄先生、これ。っふふふ……こんなんじゃあ、下着、意味ないですね。穿き替えないと、風邪引いちゃいますよぉ?」
「っ…………!!」
瞠目する唄は、しかし必死に口を閉じ、鼻で呼吸することにしか注力できなかった。唇が開いてしまったら、今し方の愚行より何倍も何倍も、気持ちの悪い声が出てしまいそうで、懸命に堪えていた。堪えなくちゃと義務感に突き動かされていた。
翳された手の平には、月明かりの淡さでも分かるくらい。
べっとりと、腐ったヨーグルトみたいな粘つきが付着していて。
――うそ……嘘、嘘、嘘、噓っ!?
――わたし、わたし、わたし、わたし…………なん、で、なんで、なんで、なんで!?
「あ、あぁ、あぅうあぁ、あぃぃううぁああぁぁあぁぁあぁああああぁぁあぁ……!?」
――『――――っふふ、ふふふふっ……おなか、熱いですよぉ。唄先生……♪』
両手で顔を覆い、滅茶苦茶に捻じり引っ張りながら、唄は言葉にならない嗚咽を漏らす。ガリガリ、ガリガリ、顔面の皮膚を裂かんと爪を立てても、貧弱なそれは刃物の代わりにすらならない。
自覚、してしまった。思い出してしまった。認識してしまった。
懸命に顔へ舌を這わせていた、それだけのつもりだったのに――――不思議と、腰が重い。怠い。まるでずっと、動かし続けていたみたいに。
唄は、だから、嫌な納得に、顔が爆ぜんばかりに熱くなるのが分かった。
動かしていたのだ。腰を。ずっと。
火花の顔を、血を、舐め取り傷へ口づけしている間、ずっとずっと。
ぐりぐり、ぐりぐりと熱く濡れそぼったそこを、火花の腹へと、不躾にも。
恥知らずにも、破廉恥にも、常識知らずにも。
歪な情欲を、こんな小さな女の子に――――
「あ、あぁ、ぁああぁぁああぁああ…………ごっ、ご、ご、ごっ……ごめ、ごめんな、さい……ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいぃっ!! あ、あ、わ、わたし、わたし…………なん、て、ひ、どい……気持ち、悪い、ことを――」
「謝らないでくださいよ、唄先生」
わなわなと、興奮ではなく恐怖から、怖気から、嫌悪から震えてしまう唄に。
胸の辺りで粘つきを拭き取った火花が、そっと、柔らかく手を伸ばした。
顔を覆い傷つけんと必死な、尖る彼女の手を、優しく引き剥がして。
眼尻いっぱいに涙を溜めて、波打ち歪んだ瞳孔を湛える眼を、真っ直ぐに見る。責めるでも怒るでも窘めるでもない、ただほんのわずか、呆れを滲ませた苦笑いで。
「ひ……火花、ちゃん…………で、でも、でも、でも……!」
「唄先生、興奮し過ぎです。一旦、深呼吸しましょう? ほら、大きく吸って…………そう、ゆぅっくり、吐いていきましょう。……慌てなくていいですよ。大丈夫、大丈夫……………………ねぇ、唄先生」
言われて、促されて。
唄は盲目的だった。肺がパンパンになるまで息を吸い込んでは、か細く尖らせた口から少しずつ吐き出す。何回も、何回も、何回も、何回も。ズキズキと肺胞のひと粒ひと粒が痛みを訴えるようになるまで、彼女は従順に深呼吸を繰り返した。
喉を幾度も往復する空気、その圧にすら耐えられなくて。
嘔吐くように咳き込んだ、そのタイミングを見計らったかのように、火花は、口を開く。
「私、唄先生をこんなことくらいで、『気持ち悪い』だなんて思いませんよ。……そもそも、血に興味を惹かれるのは唄先生の、どうしようもない芸術家としての性でしょう? ……まぁ、酷いなぁって思う点が、ない訳じゃあないですけど」
「っ……!! ご、ごめっ……ち、違う、の、本当、違うのっ!! わたし、火花ちゃんを、殺したいとかそういうのは本当、全然、これっぽっちも――」
「今更そんなの疑いませんって。……まったく、ファン心理が分かんない人ですねぇ、唄先生も」
言って。
未だ血が溢れ出てくる額の傷口に、左の人差し指をぐぢりとこすりつけ。
火花は、赤黒く濡れたそれを、唄の顔めがけて突き出した。
ぽたっ――――ぽたっ、と。
指の、爪の、その先から、少しずつ。血は、垂れる。零れ落ちてしまう。
――――唄は、まるでくるくると回る指を目の当たりにしたトンボのように。
雫を湛えた人差し指から、目を離せない。
「……欲しいんでしょう? 唄先生」
「……………………っ、……ぅ、ん……」
「……っふふふ……お返事できて偉い、偉い――――いいですよ。ほら、どーぞ?」
「――――――――」
焦らすようにのんびりと口にされたそれが、耳朶へ触れた瞬間だった。
唄は、掲げられた左の手首に両手を巻きつける。
許可が出た。それしか必要な情報はなかった。
見たい。感じたい。味わいたい。全部知りたい。
その悉くを許してもらえて――――あっさりと、閉じようとしていた箍が外れたのが分かった。
「んっ…………ふっ……」
「――――――――――――――――――――――――っはぁっ!! はぁっ、はぁっ、はぁっ、火花ちゃん、火花ちゃん、火花ちゃん、火花ちゃん――――――――んむぅっ!!」
一回吐き出しても、まだ足りなかった。血はまだ爪の間に、纏わりつくように残っていた。
だから、もう一度唄は、火花の左手を、口に含む。
手は小さくて、指の三本を口内に収めてもまだ余裕があるくらいだった。舌を通さず喉へ直接、血が落ちていく感覚すらもぽたぽたと味わえた。丁寧に丹念に、指一本一本の隙間まで隈なく舌先を這わせていく。
べちゃ、べちゃ、べちゃ、べちゃ。
舐め尽くされた左手は唾液まみれで、血が残存しているかも怪しい。しかし口から吐き出して、それを確かめようとはしなかった。血がもうないならないで、唄はそれで構わなかった。
爪の硬さ、手の形、骨の感触、血管の膨らみ。指紋の舌触りに至るまで確かめようと、執拗なまでに舌を動かす。
だって、許してもらえたのだから。
『いいですよ』って、『どーぞ』って、許しを貰えたのだから。
――――こんな機会、気紛れ、次いつ与えられるかなんて、分からないのだから――
「は、ぁぁ……ねぇ、唄先生」
だが。
ぐぢゅり、ぐぢゅりと口内で涎の音を鳴らす唄に、火花は。
堪えるように笑いながら、甘く誘うように言ってきた。
「欲しいって、思ってくれたん、なら、ぁっ……言って、くれれば、いいんですよ。……なぁんでも、ね」
「――――…………え」
ぢゅるぉっ、と。
べちゃべちゃの唾液を滴らせるほどに濡らした左手を、ゆっくり口から出しながら。
唄は、困ったように笑う火花の顔を、凝視した。
「……なん、でも……?」
「っふふ。えぇ、そうですよ。なぁんでも、です」
――――火花の額からは、もうほとんど血は流れていなかった。
だから彼女に、左眼を閉じる必要性はなかった。火花が片眼を閉じていたのは、そんな表情を、上に乗る女性が欲していたからだ。
血に溺れそうな顔のレイヤーと、あと。
余裕そうに笑う、救いの手――
「唄先生の絵に役立てるなら、私……なんでも、全部、あげちゃいますから。ね? 私が、そうやって唄先生の中で作品の一部にしてもらえるの、嬉しいですし。……だから、次からはちゃぁんと、言ってくださいね? なぁんでも」
「…………本、当に……? 本当に、なんでも……なんでも、
「えぇ勿論。血でも、裸でも、それ以上でも……唄先生が望むなら、私、全部あげたいんです。それが……もっともっと素晴らしい作品に、繋がるんだったら、なぁんでも――」
「っ――――――――」
「んっ……っふふ、ふふふふっ。もう、唄先生ってばぁ……」
もう、血なんかついていないのに。
唄は三度、火花の左手を口へ含んだ。喉の奥へ、奥へ、手の平全てを呑み込めやしないのに、それでも突っ込んでしまおうとしていた。
嘔吐いて苦しくて涙が出ても、それでよかった。そうじゃなきゃダメだった。
むしろそうして、ほしかった。
――火花ちゃん。火花ちゃん。火花ちゃん。火花ちゃん。
――あぁ……あなたで、よかった。わたしの唯一が、あなたで本当によかった。
――こんな最低で、醜悪で、気持ち悪くて、反吐が出るわたしなんかを。
――許してくれる人…………あなた以外に、いる訳がない……!
「…………っ!」
せり上がる胃液を堪え、火花の指を懸命に喉奥へと引き摺り込む。
知ってる。分かっている。この少女が、自分の狼藉三昧をいくらでも許してくれることはもう、痛いほど分かった――――理解して、その上で彼女は。
まだ、まだ欲しがった。ちょうだいちょうだいと、雛鳥のように求め続けた。
人一倍臆病で気弱で自信がなくて、それと分かる証がないと不安で仕方がないこの芸術家は。
その小さな指が喉を掻いた、痛みという罰が、許しの証が欲しいと。
伝わる訳もない願いを嗽みたいな嗚咽に乗せて、ぼたぼたと、涎と涙の混合物を流し続けるのだった。
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