第9話

……ここは?

 

知らない天井……ではない。寝ぼけ眼で見たそれは、よく見知った私の部屋の照明だった。

 

でも、なぜ?確か私は階段から落ちて……

 

「おはよう、甘莉。やっと起きたのね」

 

ぼんやりと靄がかかった頭に誰かの声が届く。

 

「……姉さん?」

 

姉さんがオムライスを作っていて、その間私は……いや、違う。それは夢だ。夢で見たことは確かに昔あった現実だけど、今は起こりえない虚構でしかない。

 

……じゃあ、声の主は誰?

 

「もう、寝ぼけているのかしら?私は篠澤志帆よ。まさか頭を強く打った衝撃で記憶を無くしてしまったの?」

 

「え!!あ、し、志帆さん!?え、ちょっとダメ!!」

 

視界がクリアになって志帆さんの姿を捉えるや否や、私は咄嗟に布団で顔を覆った。志帆さんを間違えて姉さんと呼んでしまったのもそうだが、それよりもこんな乱れた格好で彼女と顔を合わせてしまったことがどうしようもなく恥ずかしい。

 

髪はボサボサ、肌はカサカサ、脛の産毛はフサフサ……お風呂に入ってないから絶対臭いし。とにかく顔を合わせたくない理由しかない。

 

「今更姿を隠したってしょうがないでしょう?私、あなたの顔しっかり見ちゃったし。階段で寝ていたあなたをここまで運んできたのだって私なわけだし」

 

「……私、重くなかったですか?」

 

私は渋々顔だけを布団から出して尋ねた。

 

「どうだったかしらね?」

 

「そこは重くなかったよって言ってくださいよ……」

 

とぼけた口調でそう答えた志帆さんは私のよく知る志帆さんで、私はほっと胸を撫で下ろした。

 

「改めて、本当に久しぶりね甘莉。ずっと会いたかったわ」

 

枕元に近づいてきた志帆さんが横になった私の首に手を回して抱きしめてくる。久しく感じていなかった人の温もり、耳にかかる生温かい吐息が猛毒のように私の体を犯していく。

 

志帆さんの肩は震えていた。それはまるで私という存在を必死に確かめているようで。だから私も確かめる。布団から出した腕を志帆さんの腰に回して。細くくびれた志帆さんの腰に私の腕がぴったりとはまる。

 

抱き合うという行為は不確かだ。互いの表情を窺い知ることができず、何を考えているか分からない。だけど、だからこそ互いの存在を一番近くで確かめることができる。

 

心臓の鼓動が際限なく高まる。志帆さんの肩の震えは止まない。首に回された腕の力が強まっていく。

 

私と志帆さんの体温が混ざり合い、彼我の境界がなくなっていく。そう思ってしまうほど長い時間抱擁を交わす志帆さんの肩を私はそっと押した。

 

未だに何と声をかけるべきか定まっていないけれど、最初に何を言うべきか、それくらいは分かっているつもりだ。だから、私は彼女の揺れる瞳をしっかりと見て覚悟を決める。

 

「志帆さん、私!――いたっ……」

 

額に乗せられた氷嚢を退けて起きあがろうとしたが、頭に鈍い痛みが走る。

 

「まだ横になっていた方がいいわ。相当強く頭を打ったみたいだから。おでこ青くなっていたのよ」

 

眉を寄せた志帆さんが私の額に再び氷嚢を乗せてくる。氷の冷たさとは対照的に、額から髪を退ける彼女の手はとても温かかった。

 

「色々と私に言いたいこと、反対に私があなたに言いたいことがあると思うけれど、焦る必要はないわ。私はいつまでもあなたのことを待つから」

 

震えの止んだ蒼い瞳が私を掴んで離さない。その澄んだ目に意識が吸い込まれそうになるが、頬を撫でる彼女の手がそれを許そうとしない。

 

「志帆さん、その手……」

 

時折頬に何か引っ掛かりを覚え、何かと思って見てみれば彼女の左手にはたくさんの絆創膏が貼ってあった。

「ああ、大したことないわよ。ただ少し包丁で……あ!?」

 

何か失言してしまったのか、志帆さんは目を見開いて口元を手で覆った。

 

「包丁?」

 

「え!?えっと……な、何でもないわよ。ただちょっと転んで擦り剥いただけで」

 

「……志帆さんは相変わらず嘘が下手ですよね。志帆さんは嘘をつくときには決まって瞬きの回数が多くなるので。で、包丁がどうしたのですか?」

 

瞬きの回数を指摘されたからか、目を大きく開いて私のことを凝視してきたが、観念したのか手を口元から離してボソボソと話し始めた。

 

「……私、今まであなたに夕食を作っていたじゃない?そのときに、その……」

 

「……もしかして志帆さん、料理が上手くなったというわけじゃなかったんですか?」

 

今まで毎日美味しい夕飯を作ってくれていた彼女だが、私の知る志帆さんは決して料理が得意ではなかった。正直に言えば、むしろ下手というか……

 

「……失望しちゃったかしら?やっぱり私はなゆたみたいに上手くはできないみたいね」

 

違う。謝ってほしいわけじゃない。そんなに悲しそうな顔をしてほしくない。私はただ……

 

「私がそのくらいのことであなたのことを嫌いになるわけないじゃないですか!……むしろ失望されるのは私の方です。毎日志帆さんに迷惑をかけて、料理まで振舞ってもらって、感謝の一つも言えなくて……」

 

今度は私が志帆さんの首に手を回して彼女を抱き寄せた。不意に抱き寄せられた衝撃からか、体勢を崩した志帆さんが私の体の上に乗っかる。

 

「3ヶ月も無視して、ごめんなさい。毎日来てくれたのに一度もありがとうと言えなくて、ごめんなさい。メール既読スルーして……ごめんなさい。夕飯……たまに残して……ごめんなさい。そして、今まで私のことを見捨てないでくれて――ありがとうございます」

 

抱き合うという行為は確実だ。今の私は多分志帆さんに見せられない酷い顔をしているけれど、それを見られずに済む。それでいて、今まで押し殺していた私の想いの全てをこうして伝えることができる。

 

「ちょっと甘莉、首絞まる……」

 

「は、ご、ごめんなさい」

 

志帆さんに肩を叩かれて私が力を入れすぎてしまっていたことに気づき、急いで抱擁を解く。それでも彼女の長いまつ毛の一本一本が見えてしまうほどの距離で、思わず胸が高鳴ってしまう。

 

「たくさん謝ってくれたわね。でも、大丈夫。何度も言うようだけれど全部私がやりたくてやったことだから。私はたくさんのごめんなさいよりも、最後のありがとうの方が100倍嬉しいわ」

 

針のように長く鋭いまつ毛を交差させて笑う彼女の顔は、私の知っている初恋の笑顔と寸分の狂いなく眩しかった。

 

ああ、やっぱり好きだなぁ。

 

この好きが何色かはまだ分からないけれど、この色が分かるまではせめて――

 

止まっていた時計の針が進む。籠り腐っていた部屋の空気が刷新する。小さな一歩、されど一歩。少しだけだけど前に進めた、そんな気がした。


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