第5話

引きこもってから、久しぶりに志帆さんに声を届けることができた。志帆さんが帰った後も、その余韻は私の頭から消えなかった。


「ありがとう、甘莉」


最後にそう言い残して去っていった志帆さんの袖を、私は掴みたかった。けれど、恥ずかしさと消えきらない不安がそれを許さなかった。これから、どうやって彼女と接していけばいいのだろう。


思い立って、いつもは閉めたままの窓を久しぶりに開けてみた。夜風に当たりたかった。熱を帯びたこの身体を、少しでも冷ましたくて。


部屋の外を見るのも随分と久しぶりな気がする。どこから飛んできたのか、夜の群青にそぐわない薄桃色の桜の花びらが目の前を横切った。そういえば、家の近くに桜の木があったはずだ。


しかし、桜があるからといって桜の香りが漂うわけではない。部屋の空気には、レッドワインの芳香剤の匂いが微かに残っているだけだった。


5分、10分と上半身を外に投げ出して夜気を吸い込んでいると、春の夜がいつになく心地よく感じられた。

あれほど熱かった身体も次第に冷め、思考がクリアになっていく。


昨日、姉さんと志帆さんの会話を志帆さんの口から聞いて、私は思った。


――志帆さんは姉さんの恋人だったんだ、と。


別れたのは嫌いになったからではなく、突然の死別だったのだ。志帆さんは何も表に出さないけれど、その心はきっと深く傷ついているはずだ。


そんな彼女に、私の気持ちを伝えたらどうなるだろう。それは、彼女の傷に付け入るような最低な行為ではないだろうか。


どれだけ優しい姉さんでも、このずるい感情を許してくれるはずがない。


そもそも今までの自分の振る舞いを思えば、彼女の「特別」になりたいなんて考える資格は、私には一欠片もない。


想いを隠すとか諦めるとか、そんな次元の話ではない。そう想ってはいけないのだ。


だからこそ、明日からどんな風に彼女と接すればいいのか分からなかった。


今日は声が出せた。それなら、いつかきっと顔を見せる日も来るだろう。


それが明日かもしれないし、もっと先かもしれない。

でも、その時、私はどう振る舞えるだろう。


笑っていられるだろうか。これまで通り「姉さんの友達で、恋人だった人」として、適切な距離を保てるだろうか。


今の関係を壊したくない。でも、もっと親密なものにしたくないわけじゃない。


いや、したい。


――これは恋心なんかじゃない。


今まで何度も助けられてきたのだ。彼女だって深い傷を抱えているはずなのに、見捨てずに私に手を差し伸べてくれた。


だから、私も恩返しがしたい。

具体的に何をすればいいのかは分からない。でも、それはこれから見つけていけばいい。


まずは、明日も会話ができるように――


「がんばるぞ、私」


夜の静けさに向かってそう呟くと、私はそっと窓を閉めた。


部屋の空気は新鮮なものに入れ替わり、芳香剤の匂いも幾分か薄くなっていた。


その澄んだ空気を吸い込むと、止まっていた時間がゆっくりと動き出すような気がした。


期待と不安、そして小さな決意を胸に抱きながら、私はベッドに横たわった。


その夜は、いつもより深い眠りにつくことができた気がする。


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