第31話 螺旋

 龍神の怒りが現実を歪ませた。静華の右半身が鱗に覆われ、指先から滴る蒼い炎が大気を焼く。その瞳は垂直に細くなり、黄昏を切り裂く蛇の目として雪姫を射貫く。


「小娘……最初の生贄となる栄誉を与えよう」


 雪姫の膝が軋む。地面に突き刺さった掌から伝わる地脈の鼓動が、龍神の脈動と共鳴し始める。ふと脳裏に浮かんだのは、トキコが銭湯で梳かしてくれた髪の感触。他人の体温に飢えていた自分が、初めて「存在」を認知された瞬間の記憶。


「縁とは……螺旋階段のようなものです……!」


 雪姫の言葉に、静華の眉がわずかに動く。

 

「登れば再会し、降りれば別離する。でも静華さん……あなたたちはただ平行階段を歩んでいた」


 声が震える。喉の奥から這い上がる言葉たちが、龍神の詠唱に抗って時空を縫う。


「魂の結婚のように、何があっても巡り合ってしまうのが“縁”ならば——」


 雪姫は負けじと強く拳を握った。


「ここまでお膳立てされていたにもかかわらず、それでも結ばれることはない。それもまた、“縁”です!」


 鱗の広がりが止まった。

 静華の左頬に人間の血色が滲み始める。それを八重は見逃さなかった。


「あなたにとって、私たちの命なんて取るに足らないものかもしれません」


 雪姫は静華を真っ直ぐに見据える。


「でも……、それでも……!  失恋の腹いせに失っていい安い命なんて、この世界にはありません!」


 八重が雪姫を背に庇い、前へ出る。


「龍神! あんた、この子の祖先だかなんだか知らねえが、親みたいなもんなんだろ!」


 八重の一喝に、静華の体がぴくりと震えた。


「じゃあ自分の子供がわがまま言って人に迷惑かけてんの、そっちをちゃんと叱れよ!

 確かに今回のことはトキコが悪い! だけど、これはトキコと静華ちゃんのふたりの問題だ! お前がでけえ首突っ込んでくるんじゃねえ!」


 八重が雪姫の肩を掴む手に力が込もる。その爪先から零れる血が、砂利の上で曼荼羅模様を描く。


「 親なら子の過ち正せ!」


 八重の罵声が雷鳴のように炸裂する。

 静華の耳朶から金色の鱗が一枚、露と共に落下した。その音──千年ぶりに地上に触れる神の涙の音色が、旧校舎の瓦を微かに震わせる。


 静華の瞳からも、一筋の涙が零れ落ちた。その涙に洗われるように鱗は消え、静華の顔がゆっくりと人間のものへと戻っていった。


 倒れたトキコの背中に、いつの間にか現れた夕陽が十字架を描く。

 影が蠢き、無数の龍の幻影が地中から頭をもたげる。静華の足元で砕け散る涙の粒が、それぞれ小さな竜玉となり転がり出す。


 その玉の行く先で、何かが動く気配を感じた。


 目覚めたトキコが、再び身体を起こし、土下座をしていたのだった。

 神にささげる祈りのように、言葉を紡ぐ。


「……本当に、申し訳ありませんでした……申し訳ありませんでした……!」


 静華は息を呑む。トキコの情けなく丸まった背中が小刻みに震え続けている。


「静華を信じなかった自分を……恥じてる」


 大粒の涙が、地面に染みを作る。


「静華、ごめん……ごめん……ごめん……ごめん……ごめん……ごめん……ごめん……ごめん……ごめん……ごめん……ごめん……ごめん……ごめん……ごめん……ごめん……!」


 静華はその声を聴きながら、ゆっくりと瞬きをする。

 あんなに恋焦がれた人の姿が、今は、見えない。


「……もう、いいです」


 八重と雪姫は、ただ黙って二人を見つめていた。


「私とトキコさんには、縁がない……それだけのこと、なんでしょう?」


 静華は唇を噛みしめた。


「こんなに大切で、愛していて、私にはあなたしかいなかったのに。それでも……縁がないって……そんな、一言で……」


 それ以上言葉にならず、静華はただ泣いた。別れの辛さに、痛みに、寂しさに、必死に耐えるだけの少女がそこには居た。彼女の気がおさまるまで待つことしか、三人にはできなかった。


 そしてやがて……静華は己の頬を拭いトキコへ真っ直ぐ向き直り、言った。

 

「……諦めます」


 その声は、崩壊する氷河のようだった。黄昏が彼女の髪を琥珀色に染め、まだ鱗の残る右手が虚空を掴む。落ちる涙が地面に触れる瞬間に、蓮華の花へ変わる。


「LINEもブロックするし、電話番号も変えます。もう、あなたの前には現れません」


 言葉が風に舞う。八重の掌から雪姫の腕へ伝わる震えが、二人のリズムを同期させていく。行政書士エイリアンが契約書の束を抱え、遠巻きに首を傾げる。


 夕暮れを透かした帳が裂ける音は、宇宙の誕生を模倣していた。

 崩れ落ちる結界の破片が、消え際にこの数日間を走馬燈のように映し出す──鏡の迷宮で絡まった糸、蒸し暑い夜、怪異たちとの出会い、皆で食べる校長の差し入れ、お互いの寝起きの顔、銭湯の湯気に滲む笑顔、ピアノの調べ、そして今この瞬間の血の匂い。


 トキコがゆっくり顔を上げる。その瞼には静華の涙で描かれた龍神の紋様が浮かび、夕陽を受けて星座のように輝いている。

 静華が背を向けた瞬間、彼女の影が無数の蛇となり地中へ消えていく。


「……ありがとう……ございました……!」


 最後の言葉が風化する前に、行政書士のストロー口から笛のような音が鳴り響く。銀河連合の刻印が浮かぶ契約書が空中で舞い、龍神の鱗と化学反応を起こして灰となる。


 その煙が昇華していく先で、最初の星が瞬いた。

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