Episode4 ペニーツフロムヘヴン (1)
咲は帰りに私の家の前を通るので、そこで少し駄弁ってから解散するのがいつもの流れになっている。
あのトラック事故から数週間、壊された石塀はすっかり修復され、衝突の面影ひとつ無い。また同じことが起こったら怖いな、とは思いつつ、まぁ二度は無いだろうと甘く見ている部分もある。実際、隣の家に車が突っ込むなんて経験、人生で一度あるかないかだ。
私が主人公でさえなければ。
「じゃ、今日は用事あるから、またね」
いつも通り、咲が先に帰宅を宣言した。でも、今日はいつもよりちょっと早い。
「どんな用事?」
面倒くさい奴みたいになってるのは理解しつつ、これが私なので訊いてみる。からかいたい気持ちが半分、本気で引き留めたい気持ちが半分。
「家で一人で映画観る」
「それって」
彼女の自転車の荷台を掴み、下から睨めつけた。空に白々しく昇った太陽が、私と咲の間に割り込み影を落とす。長い睫毛の影が顔の半分を隠したが、彼女の口元が綻んでいるのは辛うじて分かった。
「暇じゃん」
「暇じゃないし」
「家で一人で映画を観る。暇人が暇つぶしにやる暇つぶし第6位だよ」
「絶妙なラインね。ちなみに第1位は?」
「脳のリソースのうちぴったり2割だけ占領する、微妙に頭を使うパズルゲーム」
「真理だ……」
「まあね。だから帰らないで」
「それは意味が分からないよ」
「咲。私と映画、どっちが大事なの」
「それは……灯だけど」
「でしょ?」
「……それとこれとは話が別」
正論にも程がある正論を言い放ち、彼女は立ち去った。「どうせ明日また会える」。そう言い切ってしまえばその通りなのだけれど、私が咲を留めたかったのはそういうことではなくて、何というか、人が私から離れていく運動が嫌い、とでも言おうか。
例えばそれは、万物がひたすら落ち続ける物理法則のように必然に。
川が海に流れて雲を作る自然現象くらい丹念に。
私に訪れるお別れの瞬間。
別れが訪れる、というのは何だか変な表現だ。別れは訪れない。去っていくばかりだ。小さくなっていく咲の背中を見ると、否応なしに実感させられる。私が寂しくなったことを察して、振り向いて手を振ってくれればいいのに。もうあの子の姿は見えない。
恨めしく思いながら、自転車のスタンドに足をかける。
「あれ……なんだこれ」
視線を道の先から戻したとき、透明な袋に入った白い粉が目に入った。ちょうど、咲が自転車を停めていた場所だ。さっきまで話していた場所だ。落とし物? いやまさか。こんな謎の怪しい粉、彼女のような普通の女子高生が持っているはずがない。大体、本当に
数秒間フリーズした頭を抱え、私が出した結論はこうだ。たぶん、彼女は何らかの理由でこれを拾い(今の私のように)、警察に届けるために持っていただけだ。
私は彼女を信じているが、盲信ではない。たとえどれだけストレスが溜まっていようと、好きな人に強引に勧められようと、こんなものに手を出す咲ではないと知っている。だから、そうだ、今日は私が厳重にこれを保管して、明日、咲に事情を聞いてから一緒に警察に届けに行こう。
でももし、今日のうちに警察が私の家に訪ねて来たら? 捕まる? もう拾ってしまったので、私の指紋はべったり付いている。言い逃れはできないかも知れない。実際、やっていることは既に犯罪的だ。友達を庇おうなんて
ん? 邪とはなんだ? 友達を庇うことは、むしろ殊勝な考えではないのか? 少なくとも私は、自分の良心に恥じることなどしていない。両親にはちょっと誇れないかも知れないけれど、ここで何も分からないままに咲を警察に突き出して、それで私は安心なのか? まさか。そんなことをしたら、私は自分を主人公だと思えない。信じられない。
だめだ。読者を裏切ってはだめだ。私は主人公なのだから。
私は白い粉の詰まった袋を握りしめ、高まる鼓動を鎮めながら、将門家の門扉をくぐった。
その夜、警察がやって来て私の部屋を捜索するでもなく、親に見つかって叱られるでもなく、自分の家に乗用車が突っ込んでくるでもなく、要するに何事もなく、翌朝を迎えた。
「おはよう」
「お、おはよう……」
私が汗だくなのは、例の粉のせいではない。今日も今日とて、自転車を全力疾走してきたからである。勿論いつもより早く出た。アレを鞄に入れて家を出た時点で心拍数は過去最高を記録しそうだったのだけれど、そこに重なったのがまたもクスリ絡みのイベントだ。
「なァ、あれって幾らぐらいだっけ」
「分かんねェけど、一万は超えるよ。依存症で終わってる奴なら、五万くらい出すんじゃね」
「はァーーー。絶対アニキに殺されるよ。無くしたなんてバレたらよォ」
「だったら、昨日俺が通った道なんて見てる場合かよ。間違いなく、部室まではあったんだ。持ってくる途中で落としてるはずねェよ。誰かが盗ったに決まってんだろ」
「したらもっと絶望的じゃねェか。あの粉の価値を知っている奴が盗ったってことだろ」
「そうだよ」
「俺ァそんな現実見たくねェんだ。だからこうしてほっつき歩いてんだよ」
「馬鹿だなぁ」
なんて話しながら歩いてくる二人組の男子学生を目撃し、後先考えず道を変えてしまったのだ。その後も柄の悪い男や強面の人、反社っぽい人に出くわすと反射的にハンドルを曲げていき、やっとの思いで学校に辿り着いたのだ。それはもう天の神のあみだくじで遊んでいるかのようだった。
息を整える間もなくチャイムが鳴り、この件を咲に尋ねるのは先送りになった。もちろん、一刻も早くアレを手放したい気持ちは強まるばかりだ。昔は抜き打ちで持ち物検査を行う学校もあったらしいが、そんな時代だったら恐怖に耐えかねて警察に駆け込んでいただろう。
罪悪感はさほど無いが、あらぬ疑いをかけられるのは嫌だ。どうせ刑務所に入るなら、自業自得だと納得したい。物語に登場する悪役のように、信念を全うした上で捕まって、牢屋の中でもニヒルな笑みを浮かべていたい。現実の私たちには、過ぎた願いかも知れないけれど。
その日の昼休み、咲を階段の踊り場に呼び出した。階段の途中で折り返すためだけに作られたにしてはまぁまぁ広さがあり、誰が置いたか知らないが机と椅子が二セットある。単刀直入に切り出すのは気まずいので、とりあえず弁当を広げた。
「灯、大丈夫?」
「ふひぇっ、何が?」
「……いやなんか、顔色悪いし、朝も様子がおかしかったし、何かあった?」
「う、ううん」
「……ねぇ、ミートボール落としたの気付いてる?」
「えっ。うわぁぁぁ、ティッシュ持ってる?」
道理で、箸を口に入れても味がしないと思った。咲は、やれやれ、と笑ってポケットティッシュを差し出した。それから身を乗り出して、私のおでこにふわりと手のひらを当てた。
「うん、熱はないみたいね」
くぅぅ……。一日中授業に集中できなかったのはアンタのせいだよ、とは言えない……。直接問い詰めることも、できない……。
「あ、朝さ、変な人たちを見たんだよね」
「朝?」
「そう。『アレが無くなった』とか、『依存してる奴なら五万は出す』とか言ってんの。何だったんだろ」
「うーん、それは」
咲が真剣な顔をするので、私も熱心に耳を傾けた。
「スマホを無くしたんじゃないかな。持ってないと色々困るから、幾ら出しても取り戻したいよね」
「……うん」
とぼけているのか本気なのか、いまいち区別できない。この子は普段から、あえて答えを外してくる癖があるからなぁ。
「でもその人たち、こうも言ってた。『あの粉の価値を知っている奴が盗った』って」
「あの粉……?」
今の発言と依存というワードから、ようやく『あの粉』の正体に思い至ったらしい。この察しの悪さは無関係か、と半ば容疑者リストから消しかけたところで、彼女の顔つきが変わった。私の顔の横、窓の向こう、そのずっと先を見据える彼女の瞳は、まるで別人のように見える。遠い世界の住人のように。
「その人たちの特徴は?」
「え?」
「男か女か」
「男の、二人組。うちの学校の制服を着ていたから、たぶん生徒じゃないかな」
「犯人が誰か分かっていない様子だったのね?」
「うん、そうだけど……」
どうしてそんなこと訊くの?
「もしかして、咲って……」
「なに?」
「この件に、関わってたりしないよね」
「……うん。さぁ、早く食べよ。時間なくなるよ」
何、いまの
咲、私はどうしたら良い?
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