先輩 ≒ 師匠
不透明 白
先輩≒師匠
〈1〉
鉛筆の先にカッターの刃をあてがって削る。
角度を変えて、けずる。
角度を変えて、ケズル。
削る、削る、削る。
刃先から伝わってくる木の感覚は柔らかく、木炭の感覚は固い。
削り終えた鉛筆を指でちるちると回し、削り具合を確認して満足し、筆箱へと戻す。
そして、テッシュの上に積もった削りクズを包むように丸めて、席を立ち、ゴミ箱へとぽい。
その足を〝再び椅子に固定するには勿体無い〟という思考が過ぎり、次の行き先を変更させる。
「先輩、自販機行きますけど何か欲しいのありますか?」
筋肉質の大きな体格から発せられた低くて深い声。
その張本人――黒田長助が呼びかけた先には、窓際の一番前、真っ白のキャンバスの前に椅子を一脚置き、その上にあぐらを組んで座り、顎に手を添えて、どこでもない空虚に視線を置く女子生徒がいる。
彼女は黒田の声に「はっ」と気が付くと、すぐさま立ち上がり、ずんずんと歩みを進め、壁みたいな黒田を見上げるような距離まで近づく。
顔の近くでちょいちょいと手招きをされたので、黒田は彼女の意図に沿って顔を近づけた。
柔軟剤と油絵の具が混ざった香りが鼻をかすめた後に、微かに汗の酸っぱい匂いがした。
「黒田ー? 先輩じゃなくて〝師匠と呼んで〟って言ったじゃないか」
その顔には優しさが混じっていたけれど、むくれているのがしっかりと分かった。
黒田が教室を一望すると、あそこで話していた女子三人も、集中していたあの男子生徒も、イヤホンをしてスマホを覗き込んでいたあの生徒だって、皆まとめてこっちを見ていた。
――恥っっっっっっっっっっ。
「先ぱっ――師匠、やっぱり一緒に来て選んで下さい!」
早く、この注目の的にいるという現状から抜け出したい一心で、先輩の腕を掴み美術室からの脱出を図る黒田。
きゃああぁぁ! なんて、黄色い悲鳴が背中から聞こえてくるけれど、今はそんなことなりふり構っていられなかった。
「……積極的な弟子も嫌いじゃないよ? 私は」
「先輩もおかしなこと言ってないで、黙って付いてきてください」
ガラガラ――ピシャリ。
――――――………………
「黒田ー? ちょっと力強いかも」
「え、あ! ごめんなさい!」
慌てていたという事もあってか、自分が思っているよりも力強く先輩の手首を握っていたことに気付いて、すぐに手を離した。
「いや、別に〝手を離せ〟って言ってないんだけど?」
「……えっと?」
言っている意図をくみ取れず困惑している黒田に、彼女は呆れてものも言えないような様子で、いつものように腕を組んだ。
〝機嫌を損ねた〟という事だけは分かった黒田は、えっと、俺が悪いんですか? 先輩――と心の中で小さく言い訳を吐き出す。
女心と秋の空……というよりも、女心は掴めないと言ったほうが正確な気がした。
まだまだ俺が未熟だからなのか、〝先輩の性格に難があるから〟なのか……。
――なんて口に出したら、「君に女心が身に付くなんて、千年かかるかもね」と冷たい口調で言われることなど、火を見るよりも明らかで。
それから、特に話す事もなく。
気が付いたら自販機がある生徒玄関まで着いてしまった。
何となくモヤモヤするこの気持ちをどうにかして挽回したいと、黒田は先輩と自販機の間に入り、「俺がおごりますんで選んで下さい」と言うと、
「黒田ー!? お前……ついに、金を使って先輩の機嫌を伺うようになっちゃったのか! 見損なったぞ!」
と言われてしまった。
しかし、それは誰が見ても、わざと取った大仰なリアクションであると分かるもので。
「せ、師匠! そんなんじゃないですよ! か、勘弁して下さい!」
「……冗談、冗談だよ! ごめんね、変な態度とっちゃって!」
先輩に気を遣わせてしまった……という気持ちに苛まれるが、同時に空気を和ませてくれたその気心に感謝して、平常運転へと舵を切っていく。
「こっちも、すいません……何というか、色々と気が使えなくて」
「まぁ、それはそうだけど!」
「ちょっと先輩!?」
「はははっ! うそだよー! ほら! 君がおごってくれるんでしょ? うーん、何飲もうかなぁ? ……っていうかあれ、今〝せんぱい〟って言った?」
「すいません、言いました……師匠」
「うむ!」
嬉しさと恥かしさがない混ぜになっているのが分かる。
あと、そのどれとも違う、苦くて喉が詰まる感情が、チリチリとジリジリと心を焦がしていく感覚がして、心が少しだけ苦しくなった。
その感情が、庇護欲なのか、恋心なのか、嗜虐心なのか――はたまた、もっと汚ならしい何かなのか。
自分自身がそんなことを考えている事実に吐き気がする「何か」なのか。
「黒田ー、一番上の一番右のボタン押してくれー」
「分かりました、はいどうぞ」
別に背が低いわけではないし、何だったら普通に届く距離なのに。
ピッ――ガシャン。
「……先輩」
「おい、だから師匠って」
「言いたくないです」
「……ぉ、え、な、なんで?」
黒田は見ていられなくて、顔をそむけた。
それはただ〝恥ずかしいから〟とかそんな単純な話ではなかった。
――――――…………………
俺は知っている。
男子生徒達が先輩の事を噂しているのを知っている。
女子生徒達がゴシップを飢えていて、何かと目立つ先輩への探りが入っていることを知っている。
そんな現実を受けて、感情を埋め尽くしていくどす黒い何かを抑えながら、今日も平気な顔して先輩と話している。
けど、先輩は多分気が付いていない。
というか、そんなものなどハナから眼中にないのだと思う。
〝眼中に無い〟というか、〝眼前のもの〟全てがすぐさま何らかの「色や形」に変換され、それが、真っ白のキャンバスという物に吐き出されているだけなのではないかと思う。
それは逆に言えば、〝彼女自身に色がつく前〟に、変換されて白い画面へと落とし込まれるとも言えるわけで。
つまり、彼女には全くと言っていいほどに色が付いていない。
彼女自身が真っ白のキャンバスそのものだということ。
しかし、〝彼女は最近変わりつつある〟と、その噂の一部に盛り込まれていた。
彼女が三年生になってから変わったのだと。
そして、彼女を変えた一因に俺が含まれているらしい、ということだった。
これは決して自惚れているわけではない。
いや、自惚れているだけなら、こんなにモヤモヤしなくていいのだから、そんなことでは無いのだ。
でも俺は、噂をする男子生徒や、ゴシップが好きな女子生徒にどうこう思っているかというとそうではない。
そもそも、俺が〝先輩の作品を見て〟美術部に入らなければ、こんなことにはならなかったのだと、ただただ自分に憤るだけだった。
先輩は被害者であり、俺が加害者――。
「先輩――今は先輩と呼ばせてください。……俺は、師匠と呼ぶこと「が」嫌なんじゃなくて、俺が師匠と呼んでいることで、先輩の「格が」低く見られるのが嫌なんです。〝才能がある師匠〟に〝出来損ないの弟子〟がいるのが許せないんです。だから、俺は先輩と呼びたいんです」
「……黒田、お前なんで」
「――決して先輩が嫌いなわけではないんで、す。でも一緒にいるだけで、もう、耐えられないんです。――ごめんなさい」
「――おい! 待て! そんな理由じゃぁなっ……っ……」
遠く小さくなっていく先輩の声は、黒田の心を激しく締め付ける。
「独りよがり」だと罵られてもいい。
でも、俺の姿を先輩の瞳に入れることも、会話を交わすことももうしたくなかった。
好きになって憧れた先輩を変えてしまうのが〝自分自身〟だということを知ってしまったのなら、もう。
――先輩は俺みたいな「
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