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2025年8月9日 16:35
久しぶりに拝読させて頂きました。この世界では一貫して黒や夜=悪、白や日中=善、そのため灰色はよくないものとして扱われているという設定があったと思います。久しぶりに読んで気がついたのは、セリンの足元に咲いている花にも白色があり、例のぶよぶよも白色ということです。つまり両者共に本来は善いものとして扱われるべきはずのもの、という共通点があることに気がつきました。この伏線は初期の頃から貼らていましたが、かなり重要な伏線のはずです。これが意図的に隠されていたのか、私が気づくのが遅かったのかは分かりませんが、もし隠していたならかなり巧妙な伏線だったと言えますね。そして壁にあった三角の模様、これはセリンと共にいる三人=集団を表するシンボルであると考えられます。そういえば、何故『三人』なのかということを考えてみたことがなかったのですが、子供から見た両親と自分は、もっとも最初に出会う社会集団の最小公約数であると言えます。この三角形には、そういう意味があると考えられました。そして最後"ぶよぶよに急かされて、自分はその真っ暗な入り口に足を踏み入れた"という結びの言葉は、とても不穏であるように感じられました。やはり黒や夜=悪という考え方ももちろんあります。ですがそれ以上に、そんな危険な場所に自分の意思ではなく、他人に急かされる形で入るというのが何より不穏な要素に感じられます。何よりセリンは、ここまで一度たりとも自分の意思で何かを決めたシーンがないのではないでしょうか? これは彼の判断能力や責任能力の不足を意味し、これから先でかなり厄介な出来事に巻き込まれる伏線であるように見えました。改めて読むと、とても精密に設定やプロットがが練られていることが伺えます。そのため、これは自分の意思とは関係なく流され続けてることを暗示する意図された演出なのかもしれませんが、ここまでで会話が主軸ではない移動シーンの割合が多いように感じられました。確かに文学や古典にはゲーテの『神曲』や『西遊記』など、移動し続けながら物語が進行する話は少なくありません。しかし、これらの物語は共通して何のためにどこに向かうのか? という最終的な目的地が明かされています。これは読者のストレスを軽減するための手法ですね。ですが例外として、これが『不思議の国のアリス』のような奇妙な状況に置かれたセリンに対する共感を芽生えさせるなどの目的があるならば、アリだと思います。そういえば『不思議の国のアリス』で思い出したのですが、あの作品は造語が多いんですよ。有名なのだと『鏡の国のアリス』に登場するジャヴァ・ウォックの詩は、そのほとんどが古英語によく似た造語の集まりによる散文だそうです。この作品も別の言語を日本語に翻訳しているという背景があるため、少し思い出したため語らせていただきました。
作者からの返信
"例のぶよぶよも白色ということです"おや!?私はまだ、作中で黒いもやがかかって見える、というぶよぶよの色そのものにはまだ言葉にしていないはずですが……彼、改めて何色だと思います?黒と白は善悪であり、碧、緋は今いる唯一神の双子、その片方が緋であり、その緋は黒とセットになっていることが多いです。物語中で明確に出る予定はないですが、彼は緋、もしくは赤です。"つまり両者共に本来は善いものとして扱われるべきはずのもの"これについては間違いありません。実際にあった神話レベルに基づく、生活価値観に反映されています。"そして壁にあった三角の模様、これはセリンと共にいる三人=集団を表するシンボルであると考えられます"よくわかりましたね……!そうです。それだけでなく、前作異世界徴税官の結末の結末に出てきた蠅の中にあった金属の存在の示唆でもあります。三角は、丸の太陽と月と同じ神性の表れです。"ですがそれ以上に、そんな危険な場所に自分の意思ではなく、他人に急かされる形で入るというのが何より不穏な要素に感じられます"さすがですね……!動作ひとつひとつに、このような意味の付与があります。全くその通りです。しかし……不思議です。このような意図の受け取りができるにも関わらず、企画の内容や、おまけと、そのおまけに関しては、精度が荒くなっている印象があります。やはり興味の向き方が異なるのでしょうか……?"ここまでで会話が主軸ではない移動シーンの割合が多いように感じられました"おお〜さすがです。物語のスピード感とそのスピードについてく、巻き込まれているが適応の早いセリンの表れになっています!"という最終的な目的地が明かされています。これは読者のストレスを軽減するための手法ですね"もちろん。拙作もそうしていますが、それが受け取れる層と受け取れない層の乖離が生まれるようにしております。物語人物に共感できるなら、これは社会集団の中で自分の立場を見つけるというゴールがある物語、に見えるはずです。そうでないなら、ただ主人公が迷っているように見えるでしょう。"そういえば『不思議の国のアリス』で思い出したのですが、あの作品は造語が多いんですよ"はえ〜そうなんですね。やはり、同じことを考える人がいるようです。
久しぶりに拝読させて頂きました。
この世界では一貫して黒や夜=悪、白や日中=善、そのため灰色はよくないものとして扱われているという設定があったと思います。
久しぶりに読んで気がついたのは、セリンの足元に咲いている花にも白色があり、例のぶよぶよも白色ということです。
つまり両者共に本来は善いものとして扱われるべきはずのもの、という共通点があることに気がつきました。
この伏線は初期の頃から貼らていましたが、かなり重要な伏線のはずです。
これが意図的に隠されていたのか、私が気づくのが遅かったのかは分かりませんが、もし隠していたならかなり巧妙な伏線だったと言えますね。
そして壁にあった三角の模様、これはセリンと共にいる三人=集団を表するシンボルであると考えられます。
そういえば、何故『三人』なのかということを考えてみたことがなかったのですが、子供から見た両親と自分は、もっとも最初に出会う社会集団の最小公約数であると言えます。
この三角形には、そういう意味があると考えられました。
そして最後"ぶよぶよに急かされて、自分はその真っ暗な入り口に足を踏み入れた"という結びの言葉は、とても不穏であるように感じられました。
やはり黒や夜=悪という考え方ももちろんあります。
ですがそれ以上に、そんな危険な場所に自分の意思ではなく、他人に急かされる形で入るというのが何より不穏な要素に感じられます。
何よりセリンは、ここまで一度たりとも自分の意思で何かを決めたシーンがないのではないでしょうか?
これは彼の判断能力や責任能力の不足を意味し、これから先でかなり厄介な出来事に巻き込まれる伏線であるように見えました。
改めて読むと、とても精密に設定やプロットがが練られていることが伺えます。
そのため、これは自分の意思とは関係なく流され続けてることを暗示する意図された演出なのかもしれませんが、ここまでで会話が主軸ではない移動シーンの割合が多いように感じられました。
確かに文学や古典にはゲーテの『神曲』や『西遊記』など、移動し続けながら物語が進行する話は少なくありません。
しかし、これらの物語は共通して何のためにどこに向かうのか? という最終的な目的地が明かされています。
これは読者のストレスを軽減するための手法ですね。
ですが例外として、これが『不思議の国のアリス』のような奇妙な状況に置かれたセリンに対する共感を芽生えさせるなどの目的があるならば、アリだと思います。
そういえば『不思議の国のアリス』で思い出したのですが、あの作品は造語が多いんですよ。
有名なのだと『鏡の国のアリス』に登場するジャヴァ・ウォックの詩は、そのほとんどが古英語によく似た造語の集まりによる散文だそうです。
この作品も別の言語を日本語に翻訳しているという背景があるため、少し思い出したため語らせていただきました。
作者からの返信
"例のぶよぶよも白色ということです"
おや!?私はまだ、作中で黒いもやがかかって見える、というぶよぶよの色そのものにはまだ言葉にしていないはずですが……彼、改めて何色だと思います?黒と白は善悪であり、碧、緋は今いる唯一神の双子、その片方が緋であり、その緋は黒とセットになっていることが多いです。物語中で明確に出る予定はないですが、彼は緋、もしくは赤です。
"つまり両者共に本来は善いものとして扱われるべきはずのもの"
これについては間違いありません。実際にあった神話レベルに基づく、生活価値観に反映されています。
"そして壁にあった三角の模様、これはセリンと共にいる三人=集団を表するシンボルであると考えられます"
よくわかりましたね……!そうです。それだけでなく、前作異世界徴税官の結末の結末に出てきた蠅の中にあった金属の存在の示唆でもあります。三角は、丸の太陽と月と同じ神性の表れです。
"ですがそれ以上に、そんな危険な場所に自分の意思ではなく、他人に急かされる形で入るというのが何より不穏な要素に感じられます"
さすがですね……!動作ひとつひとつに、このような意味の付与があります。全くその通りです。しかし……不思議です。このような意図の受け取りができるにも関わらず、企画の内容や、おまけと、そのおまけに関しては、精度が荒くなっている印象があります。やはり興味の向き方が異なるのでしょうか……?
"ここまでで会話が主軸ではない移動シーンの割合が多いように感じられました"
おお〜さすがです。物語のスピード感とそのスピードについてく、巻き込まれているが適応の早いセリンの表れになっています!
"という最終的な目的地が明かされています。
これは読者のストレスを軽減するための手法ですね"
もちろん。拙作もそうしていますが、それが受け取れる層と受け取れない層の乖離が生まれるようにしております。物語人物に共感できるなら、これは社会集団の中で自分の立場を見つけるというゴールがある物語、に見えるはずです。そうでないなら、ただ主人公が迷っているように見えるでしょう。
"そういえば『不思議の国のアリス』で思い出したのですが、あの作品は造語が多いんですよ"
はえ〜そうなんですね。やはり、同じことを考える人がいるようです。