第58話 たったひとりわたしだけ

シモンはピクリとも動かない。


見れば、ほそい目は閉じられていて、両腕はだらりと垂れている。



「……シモンは死んでるわ」



姉トゥイッカは、こともなげにつぶやいた。



「私がのむ毒杯で、苦しまずに死ねることを証明するのだと言って、先に逝ったわ」


「え!? そ、そんな……」


「気持ち良さそうだったわよ?」



姉のまえには空のワイングラスがふたつ。


あわてたわたしが駆け寄ると、姉はこれまで見たなかでもっとも慈愛にあふれた微笑みを、わたしに向けた。



「ヴェーラに、私を殺させるわけにはいかないでしょ? ……そんなツラい思いを、お姉ちゃんはヴェーラにさせたりしないわ」


「こ、殺したりなんかしないわよ!? 吐いて! 吐き出して!! いますぐ!」



わたしが、背中を叩こうとすると、姉はほそくしなやかな腕をかるく上げ、わたしを制した。



「……もう、遅いわ。とてもよく出来た毒なのよ?」


「そんな、毒の出来だなんて……」


「とても気持ちよく、夢をみるように旅立てるの……。もう、全身に回っているわ」



あたまが真っ白になり、その場に崩れ落ちそうになったわたしを、姉が抱き止めた。



「……シモンたら、私のことがずっと好きだったのよ?」


「……え?」


「こんなに醜いくせにね」



姉の声は、蔑むような憐れむような、それでいて慈愛も感じさせる不思議な響きを帯びていた。



「こと切れるまえに一度だけ、手の甲に接吻させてやったの。むせび泣いて喜んでいたわ」


「そう……」


「……それだけ持って冥府に旅立てるんだから、愛ってすごいわね」



姉はシモンの最期を見届けてから毒杯を仰ぎ、それからミアを使者に出したのだろう。


わたしを抱き止める姉の腕は、キュッとわたしの身体に絡みつき、軽やかな表情や声音からは窺えない、つよくわたしを求める心底が現われているかのようだった。


いつもなにかをわたしに与えてくださるアーヴィド王子の腕のなかとは真逆に、わたしを求める姉の虚空に吸い込まれる。


わたしはギュッとつよく目をつむり、すべての想いを胸の奥へと追いやった。



――姉様は……、最期にわたしに会いたいと思ってくれたのだ……。



後悔は、あとからいくらでも出来る。


わたしが覚悟を固めようとしているあいだも、姉は楽しげに喋りつづけた。



「シモンたら、ヴェーラの馬車に誰か潜んでいるって気が付いてたんですって」


「そう……」


「だけど、ヴェーラに会えて嬉しそうな私に、言い出せなかったんですって。ひどいと思わない?」


「ほんとね」



ようやくつくれた笑顔で、姉の腕に手を添え、中腰のような姿勢からそのまま姉の隣に腰をおろした。



「なんのための黒狼騎士団なんだか」


「そうなのよ! 分かってくれる? ヴェーラ」


「ええ、分かるわ。ひどい話ね」



姉妹でクスクスと笑い合う。


一時、シモンがわたしに示した親愛の情は、姉への恋心ゆえのことだったのか。


それとも、姉への恋が叶わぬ代わりに、わたしを求めていたのか。


いまとなっては、どうでもいいことだ。


シモンは姉を安らかに旅立たせるため、みずからの命を捧げ、恋をまっとうした。


主君オロフ王の王妃トゥイッカ。


身分違いの禁断の恋に捧げた生涯が、幸福だったかどうかは、シモン自身が決めればいいことだ。


わたしは、姉の胸のなかに頭をのせた。



「あら? どうしたの、甘えちゃって」


「いいでしょ? お姉ちゃん」


「ふふっ。もちろん、いいわよ」



まだ、姉はいるのだ。


ゆっくりとした別れ。


この時間を心に刻んだら、わたしは壊れてしまうかもしれない。


だけど、わたしを守りつづけてくれた姉の望んだ最期だ。


どれほど多くの人を傷つけ、命を奪ってきたか分からない姉であっても、わたしにはたったひとりの大切な姉なのだ。



「……それで、ヴェーラ? お父様とお母様のお墓参りには行ってきたの?」


「ええ、もちろんよ。キレイに掃除もして、お姉ちゃんを見守ってねって祈りを捧げてきたわ」



レトキの山々を思い浮かべ、懐かしき日々の楽しかった記憶だけを語り合う。


ひもじがるわたしに姉がクロユリの球根を分けてくれたこと。


美味しくて嬉しくてたまらなかった。


はじめて野生のトナカイを矢で仕留め、跳び上がって喜ぶわたしを姉が抱きしめ、空たかく掲げてくれたこと。


誇らしくて嬉しくてたまらなかった。


そとは真っ暗な窓に映る姉は、穏やかに微笑み、わたしを見詰めている。



「なんで、わたしがお姉ちゃんを殺すだなんて思ったのよ? 失礼しちゃうわ」


「ふふっ。……ダメよ、ヴェーラ」


「ええ~っ? なにがよ?」


「詰めが甘いわ。……私が生きてたら、西方貴族は王政に戻らない。たとえレトキに追放されても、無頼都市に亡命してもね」



姉は、戦後を見据えていたのだ。


王権が移っても、姉が生きている限り王国の動乱が早期におさまることはない。


冷徹な為政者として、姉はそう見極めた。



「ここは、なんでも赦しちゃうレトキじゃないのよ?」


「……そうね」


「そのレトキでさえ、珍しい客は10日も宴をひらいて人品を見定めるのよ? ヴェーラも用心深くならないとね」



王宮を占拠され、王権が姉の手から離れた王国で、戦争を早期終結に導くためには、自分の命が必要だと姉は見定めた。


姉の存在は、それだけ大きい。



「すごいなぁ~、お姉ちゃんは」


「そうよ、お姉ちゃんはすごいの。なんでもお見通しなんだから」



と、わたしの頭をなでていた姉の手がとまった。



「……ヴェーラだけね。私が見通せなかったのは」


「うふっ。お姉ちゃんの妹だもの」


「そうか、ほんとうね。さすが私の妹だわ」



気持ち良さそうに笑った姉は、ソファの背もたれに身体を預けた。



「……アーヴィドはいい男よ」


「そう? ほんとに、そう思ってる?」


「ええ、もちろん。私が本気で狙って殺せなかったのはアーヴィドだけだもの」



わたしが身体を起こすと、意外にも姉は満足そうに微笑んでいた。



「……男を見る目があるわね」



目を閉じた姉のあたまを、わたしは思わず抱きしめた。


わたしの胸のなかで姉がクスクスと笑う。



「あわてなくても、まだ私、逝かないみたいよ?」


「もう! ……バカ」



そのままギュウッと抱き締めると、姉はわたしに身体を預けてきた。



「……私が生まれて良かったのは、ヴェーラのお姉ちゃんだったことだけだわ」



そして、他愛もない話をしては、ふたりでクスクスと笑い合う。


すべてを忘れ、いまこの時間を姉の旅立ちに捧げる。悔いなど山のようにある。だけど、それに思い悩み苛まれるのは姉が旅立ってからでいい。


姉がわたしと語らい笑い合えるのは、いまこの時しか残されていないのだから。


たくさんの人を傷つけてきた姉もまた、ふかく傷ついていることを、わたしだけが知っている。


わたしだけは分かってあげられる。


姉の死に涙してあげられるのは、きっとわたししかいないのだ。


安らかな旅立ちを願ってあげられるのも、この世でたったひとりわたししかいない。


多くの人を苦しめた姉が、自分は苦しまずに旅立とうなど、ほかの誰が赦してくれるというのだ。


とはいえ、わたしの心の奥底では、ひょっこりシモンが立ち上がり、



「すみません、ただの眠り薬でした」



と、薄紫色の顔を赤くしてくれないものかと願っている。


だけど、これは姉の仕事だ。


自分の命であろうとも、確実に仕留めるだろう。


淡い期待は、わたしを苦しめるだけだし、姉にも失礼だ。


姉のながく伸ばしたアッシュブラウンの髪を手櫛でといて、微笑みながら談笑をつづけた。


気が付けば、ブラウンめいた銀髪のように美しく輝いていた姉の髪色は、レトキの山野をともに駆けた頃とおなじに戻っていた。


きっとオロフ王を籠絡するため、王の好みにあわせて色を抜いていたか染めていたか。姉の戦いが徹底したものであったと、わたしのココアブラウンに近づいた髪を、労うようにとかし続けた。


重傷を負ったアーヴィド王子を治療したときとはまったく違う。


姉の命が途切れる気配はまったくしない。


けれど、きっと唐突に、微睡みに落ちるようにして姉は旅立つのだろう。


わたしは、そのときを待つしかない。


声をあげて泣けるそのときまで、姉とおだやかに過ごしたい。

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