第258話 大聖女

 場面は戻り、リュシエンヌの私室にて。


「クソボケ!このキモオタがぁ!今まで散々笑顔を見せてやったってのに!わたくしを裏切るとはどういうつもりよぉおおお!」


 その怒号は空気を裂き、部屋の隅々にまで響き渡った。

 リュシエンヌの恩寵グラティア、『慈愛グレイス』――それは、自らの容貌や声を思いのままに整える力。


 時には鼻筋をわずかに整え、声を弾ませて華やかに。時には瞳を大きく見開き、柔らかな声音で優美に。時には頬を染め、澄んだ声で可憐に。

 そうした微調整により、その時々にふさわしい『理想の聖女』を演じ、多くの信徒を魅了してきたのだ。


 だが――今のリュシエンヌは、内に潜む醜悪をそのまま映し、顔も声も悪魔のように歪みきっていた。


「今までリュシエンヌ様、リュシエンヌ様って崇めてたくせに、簡単にその女に乗り換えるなんて……どういうつもりだ、てめえ!?そんなに女王様に優しくしてもらえて嬉しかったのかぁ!?ああ!?」


「ち、ちがい、ます……!」


 悪魔のごとき形相のリュシエンヌに怯えながらも、オタキンスは震える声で必死に口を開く。


「ぎ、ぎ……逆、なんです……」


「はぁ!?逆!?何をぬかしてんのよ、あんた!」


「ぼ、ぼくは……し、シルフィローゼ様から直々に協力をお願いされました。そ、その時……ぼ、僕は、こう聞き返したんです。『もし協力したら……ぼくの罪は許されますか』って」


 オタキンスの恩寵グラティアが、この計画の中核である事は明らかだった。

 だからこそ、シルフィローゼが直々に彼の説得に当たったのだ。

 だが――オタキンスの問いに対する彼女の答えは意外なものだった。


「シ、シルフィローゼ様はこう言ったんです。『あなた達はキルヒェンで反乱を企てた。その罪を裁くのは私ではなく、ジークヴォルト王です。たとえ協力しても、あなたは重い罪を背負うことになるかもしれない』って」


 まさしくその通りだ。

 もし軽々しく『協力すれば罪を赦す』と口にすれば、それはキルヒェンの内政への干渉に他ならない。


「でも……シルフィローゼ様は、ぼ、ぼくに嘘をこうと思えば吐けたはずなんです。『協力してくれれば罪を赦します』って言えば……きっとぼくなんか、すぐ信じた。そ、それなのに……シルフィローゼ様は、ぼくに……本当の事を話してくれた。本音で、向き合ってくれた」


 オタキンスは、画面越しにリュシエンヌを見返した。


「そ、その時……き、気付いたんです。ぼくは今まで、リュシエンヌ様に騙されて来たんだって。い、いや……違う。本当は……分かってたんです。リュシエンヌ様は、ぼ、ぼくみたいな冴えない男にも笑顔を向けてくださった。でも、それは……ぼくが役に立つ恩寵グラティアを持っていたからで……結局、利用されているだけなんだって。それでもぼくは、その事実から……ずっと目を逸らしてきたんです」


 オタキンスが聖教に身を投じたのは、慈愛を説くリュシエンヌの姿に心を奪われたからだ。彼女の力になりたいと願い、神官となった。

 そして幸運にも有用な恩寵グラティアを授かり、彼女の側近として仕えるようになったが――現実のリュシエンヌは、理想とは程遠かった。

 彼女は己の欲望を最優先にし、他者をただの道具としか見ていなかったのだ。

 それでもオタキンスは、その本質に気付いていながら、見て見ぬふりをしてきた。


「ご、ごめんなさい……リュシエンヌ様。でも、ぼくは……い、今になってようやく、自分の原点に戻れた気がするんです」


 オタキンスの脳裏に蘇るのは――初めてリュシエンヌの説法を聞いた日のこと。

 その時、彼は強く思った。

 『こんな素晴らしい人を支えたい。この人の力になって、多くの人を救いたい』――と。


「ぼ、ぼくは……リュシエンヌ様ではなく、シルフィローゼ様に協力する事を決めました。で、でも……僕の中にある芯は――聖教に入ると決めた日から変わらない」


 オタキンスの瞳に、清らかな光が宿る。


「ぼ、ぼくは……自分の理想を――僕のオタ道を突き進む!」


「んなもん、わたくしの知った事じゃねぇーんだよ!」


 リュシエンヌが怒りを爆発させた。


「重要な話でもするのかと思って聞いていりゃぁ、ベラベラとくだらない事を……!甘い理想に酔ってるだけのオタクの持論なんて、わたくしには何の興味もねぇーんだよ!」


「で、でも……せ、聖教の信徒たちは、理想を信じてます。ぼ、ぼく達神官は、その理想を叶えるために努力するべきなんじゃ……ないんですか……?」


「信徒?そんなのどうでもいいのよ!いいこと?わたくしは『大聖女』よ!?神に選ばれた存在なの!信徒も、あんたみたいな下級神官も、わたくしを引き立てるために存在しているに過ぎないの!わたくしという花を咲かせるための土くれ!取るに足らない存在なの!ねえ、そんな事も理解出来ないわけ!?ほんと、勘弁してちょうだいよ!」


「と、取るに足らない存在……」


 オタキンスは悲し気に呟きながらも、リュシエンヌを見据えたまま目を逸らさなかった。


「そ、そう……ですね。ぼ、ぼく達は……と、取るに足らない存在かもしれない。でも……そ、そんな人間でも……ちょっとだけ、せ、世界を動かすことは……できる」


「ああん!?」


「リ、リュシエンヌ様の今の姿を……だ、大聖都中に映しています」


「なっ……!?」


 リュシエンヌは、大きな鏡台に視線を向ける。オタキンスに気を取られていたため、見過ごしていたが――確かにそこには、キルヒェリオンではなく自分の姿が映っていた。

 その映像は――当然ながら、上空の巨大スクリーンを通じて大聖都中にも映されている。悪魔のような表情で信徒を罵倒する――その醜悪な姿が。


「あんた……!」


「も、もちろん……信徒や神官のみんなを取るに足らない存在と言ったさっきの言葉も……ぜ、全部……だ、大聖都中に、響き渡っています」


「うっ……がっ……」


 リュシエンヌは両手で顔を覆った。しかし――もう遅い。すでに全ての醜態が、大聖都の民に知られてしまったのだ。


「なんて事を……!あ、あんた……どうして、こんな事を……!」


「聖教の在り方を……す、少しでも……良くするために、ぼ、ぼくに出来る事をやっただけです。もっとも、この計画を考えたのは僕じゃなくてジ……」


 その言葉を聞き終える前に、リュシエンヌは絶叫を上げていた。


「ぐがあああ!このゴミがぁあああ!ふざっけんなぁあああああ!」

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