海に沈むジグラート 第82話【貴方が微笑うから】

七海ポルカ

第1話 貴方が微笑うから



 その日は夕刻に一度街に戻ることになった。


 レイファが馬車に供に乗り込み、街まで送ってくれる。

 ドラクマは三人が馬車に乗ると、窓に寄った。

 彼は一つの鞄をネーリに手渡した。

「本当はどこかで君に見せようと思っていたんだが、夢中で湿地帯をスケッチしてくれていたからね。画家が集中している時は色々見せない方がいいかと。友人から借りたものなんだが、また数日後に会えるなら預けても大丈夫だろう」

 ネーリが小首を傾げた。

「君が王立劇場で見たがっていたものだ」

 ふと、思い当たって受け取った小さな鞄に視線をやってから、もう一度ドラクマを見ると彼は優しく笑って頷き、ゆっくりと馬車から離れる。

 馬車は走り出した。


「……レイファ様、僕は本当に、好きな時にこちらにお伺いしてもいいんでしょうか?」


 四人掛け馬車の対面に腰かけたレイファは、微笑む。


「家族のようにいつでも来てよろしいのよ。

 兄も言っていたでしょう、兄はもう貴方に正式にシャルタナ家の風景を依頼したの。

 あとはもう貴方の自由。貴方の好きな時に、自由に描いて下さいな。

 画家に依頼する時は、制作期間を定めることもありますの。でも今回兄は制作期間を定めなかった。その上で好きに描いてくださいということは、極論では絵が明日に仕上がろうと、十年後に仕上がろうと、兄は文句を言う気はないということなのです。

 その間の生活などは、全てシャルタナ家でなさっていいの」


 レイファは二人を見送ったあとミラーコリ教会のアトリエを見に行き、帰るだけなのだが、美しい藍色のドレスを身にまとっていた。

 スペイン王妃に絵を贈った時、その代金をもらった。

 実際の絵よりもずっと多くの代金を。

 フェルディナントは、スペイン王妃が「宮廷画家」にしたいという意志を伝えるためにそういう方法を取ったのだと説明を受けた。自分の国に来れば王宮で暮らして、一生生活の心配はなく、絵を描いて暮らしていけるようにする。そういう意志の表れだと。 

 貴族のお抱えの画家になることも同じなのだ。


「貴方はシャルタナ家の当主が絵を直接依頼した画家です。

 貴方が絵を描く全てをヴェネト六大貴族の一つが支える。

 この世の仕組みが――お分かりいただけたかしら?」


 くすっ、と悪戯っぽく笑ってみせた。

「この鞄の中身をご存じですか?」

「国立劇場でネーリ様が見たがっていたものということは、ティントレット・メナス様の少女時代の絵ですわね。ティントレット様はすでに亡くなっていますけど、ご友人だった方と兄が知り合いですから、お借りしたんでしょう」

「ユリウス王の、もう一人の姫君ですか……?」

 アデライードが尋ねる。

「ええ。兄が借り受けたというのは恐らく六大貴族の一つ、バルバロ家の奥様でしょうね。 奥方のマグダレーナ様は私のお友達でもありますけど、亡くなったティントレット様とは修道院学校にも一緒に通った仲のいいご学友ですわ。ティントレット様はご結婚後、全く社交界からは身を引かれてブラーノ島で静かにお過ごしでしたが、あの方とだけはご結婚後も親交が続いていたと聞いています」

 レイファは馬車の窓辺に頬杖をついた。

「私と兄も、それは大きく性格の違う兄妹ですけれど。

 ユリウス王の姫君たちも真逆な性格でしたわ。幼い頃からね。

 街までは程なく着きますけれど、この際お二人に少しお話しておきましょうか。

 王家の二人の姫君のお話……」


◇   ◇   ◇


 ユリウス王は、ヴェネト王国在位五十年の偉大な王である。


 彼を王として説明するならば、そう表現するだけで十分だった。

 しかし彼を個人として説明する場合、もっと複雑な事情があった。

 ユリウスは十五歳で父親である先代から玉座を引き継いだ。

 ヴェネト王国の長い歴史においても、十代の王は非常に稀である。

 だがユリウス王が玉座に着いたことが当時の人々にとって驚きだったのは、彼の若さが理由ではなかった。


 彼はこの世に生まれた時、男子継承のヴェネトにおいて王位継承権は三位だった。

 彼が王位を引き継ぐ一年前の王位継承権は八位。


 十四年の間に母親であった第一王妃が亡くなり、二人いた側室に男子がそれぞれ四人生まれた。ユリウスは十四年の間に三度、父王から素行に対して懲罰を受けており、王位継承権の位を下ろされていた。

 彼は王位継承とは無縁の王子だった。

 母親の死後、正妃の座を争い合う二人の側室とも折り合いが悪く、当然その子供たちとも疎遠になり、父王は出来の悪い王子に気を掛けることはなかった。

 

 ユリウスは王家に嫌気が差し、いつしか城を出て、母親の実家があったブラーノ島や、周辺諸島の軍港で、まるで兵士のように働きながら過ごしていた。

 彼は身内より、王宮の人間より、街の人間たちと触れ合うことを好んだ。


 彼の二人の兄はどちらも優秀だったが、一人が病で亡くなり、もう一人は母妃の死後台頭して来た側室の子供たちに能力で及ばず、王太子として擁立されなかった。

 ユリウスの父は、滅多に王位継承権で揉めたことのないヴェネト王国において、第一王妃の扱いを軽視したことにより、同じ年頃の王子を数多く抱えていた背景を顧みず、王家に大きな混乱をもたらした王であった。

 王位継承権を巡って、王家に四人の死者が出た。

 二人の王子に、二人の母。

『ヴェネトの伝統に従い、穏やかに話し合って次の王位継承権を決める』

 王がそう布告した直後の出来事だった。

 一人が毒殺、二人が処刑され、もう一人は服毒自殺した。

 

 ヴェネトには王妃がいなくなった。


 母親のいない、母親が全員違う、異母兄弟の王子たちが三人王家に残された。

 自分の母親以外の、王家の葬儀に姿も見せなかったユリウス王子も入れると、四人。

 王は全ての混乱を招いたのは自分であるとし、国民に謝罪した後、全ての混乱を鎮めるために譲位する意志を示す。

 同時に、混乱した王位継承権を正常化するため、亡き第一王妃を再び正妃の座に戻した。 実家のブラーノ島の、一族の墓に埋葬されていた母の棺が、多くの同行者に護衛されながら、王都ヴェネツィアの王家の墓所に映される光景を眺めていた十五歳のユリウス王子は、親しい者たちに「最も父親を憎んだ瞬間」とこの時のことを表現していたという。


 この時点でユリウスの王位継承権は二位になった。

 父王も、ユリウスも、兄王子の王位継承権を望んでいたとされる。

 この辺りは、どういったやり取りが王家の王子たちの間で交わされたかは記録に残っていない。

 しかし側室が継承権争いをしていた頃、この兄王子は病に臥せっており、王の激務に耐えられないと本人が辞退した可能性が高い。

 ユリウス・ガンディノは、長らく王位継承権を顧みて来なかったので、この時も貴族たちは彼が辞退し、残りの二人の王子いずれかが王位につくのではないかと見ていた。

 

 だが数日の後、ヴェネト王宮から多くの人間が馬車で去って行く姿が目撃され、側室の二人の王子は王宮から追放された。

 代わりに王宮にはヴェネツィア聖教会の人間が集められ、亡くなった第一王妃の葬儀を直ちに行うよう布告が行われる。

 ユリウスは自分が放浪時代に関わっていた六つの周辺諸島の有力貴族から、六人の当主たちを城に召喚し、自分の後見人と定めた。

 今の【青のスクオーラ】とは顔ぶれは違うものの、その伝統はここから始まることになったのである。


 王都ヴェネツィアの人々は、母妃の葬儀で涙も流さず、父王の側に毅然と立っているユリウス王子の姿を見て、初めて彼の顔を認識した者も多かったという。


 程なくユリウスは戴冠式を済ませた。


 ユリウスが王になって一番最初にしたことは、先代の王を王宮から追放したことである。通常そのようにする場合、次の王が王宮において自分の許に権力を集中するためにすることが多いが、ユリウスは父王がいなくなった直後から、すでに海に出ている。

 ユリウス王の視線は内側ではなく、常に外に向いていた。

 有力貴族達に船を造らせ、欧州各国との貿易を強化した。

 その護衛を彼自らが組織した私兵団に務めさせ、

【青のスクオーラ】の六人の代表を国務の中枢として王宮に置いたが、全ての報告は彼らが海にいるユリウス王のもとに赴いてさせた。


 ユリウス王の治世において【海の玉座】と呼ばれ続けたのは、これが理由である。


 ユリウス王は公務では滅多に王都に戻らなかったが、

 彼が王になる時に、有力貴族達を説得する役目を果たしたヴェネツィア聖教会とは、個人的に月に一度の大礼拝に必ず出席するという取り決めをしており、この約定だけは特別強い信仰心を持っていないユリウス王が在位中、彼を悩ませ続けたと言われている。


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