第9章 新しい私へー未来への扉を開いて②
9.2.1 出発の日
朝の光がカーテン越しに差し込み、静かな部屋をゆっくりと照らしていく。
枕元のスマートフォンがアラームを鳴らす前に目が覚めた。
──今日が来たんだ。
心の奥でそう呟いて、私はそっと布団を抜け出した。
クローゼットの扉を開き、昨日の夜に準備していたワンピースを取り出す。
シンプルな白のノースリーブワンピース。
ウエストに軽く絞りが入ったデザインで、裾はふんわりと広がっている。
動くたびに軽やかに揺れる生地が気に入っていた。
鏡の前で身支度を整える。
メイクはナチュラルにして、リップは少しだけツヤのあるピンクを選んだ。
髪は巻かずにストレートのまま、肩にさらりと落とす。
耳元には小ぶりのパールピアス。
空港に向かうだけとはいえ、身だしなみはきちんとしておきたかった。
最後に、小さなショルダーバッグを肩にかける。
パスポートとチケット、スマホを確認し、深呼吸をひとつ。
「……よし」
小さく呟いて、私はリビングへ向かった。
「もう出るのか」
台所でコーヒーを飲んでいた父が、新聞から顔を上げる。
「うん。……お父さん、ありがとう」
「何がだ?」
「いろいろ」
私の言葉に、父は「ふん」と鼻を鳴らしてコーヒーを飲む。
──最初の頃のお父さんなら、こんなに落ち着いて送り出してくれなかったかもしれない。
昔は「女の子のような恰好をするな」と言いかけては、黙り込むことが多かった。
私が中学を卒業する頃には受け入れてくれたけれど、それでも心配や戸惑いはずっとあったと思う。
そんなお父さんが、今は何も言わずに私を見ている。
「気をつけて行ってこい」
短く、でもしっかりとした声だった。
「うん」
お父さんの前では変に感傷的になりたくなくて、私はそれ以上の言葉を飲み込む。
「真緒は?」
「空港に来てくれる」
「そうか」
それだけの会話で、静かな朝が過ぎていく。
私は玄関へ向かい、スーツケースの持ち手を握る。
玄関のドアを開ける前に、一度だけ振り返った。
お父さんはまだコーヒーを飲んでいる。
でも、その視線が少しだけ私を追っていた。
「行ってきます」
私はまっすぐ前を向いて、家を出た。
***
空港のロビーは、夏休みの旅行客で賑わっていた。
チェックインを済ませ、待ち合わせ場所へ向かうと、友人たちの姿が見えた。
「陽菜!」
一番に気づいたのは芽衣だった。
明るい茶色の髪を揺らしながら駆け寄ってくる。
「いよいよだね!」
「うん……」
「陽菜、なんか緊張してる?」
柚葉ちゃんが心配そうに覗き込む。
「ちょっとね」
「大丈夫だって! 向こうに着いたら、あっという間に慣れるよ!」
凛が笑いながら、私の肩を軽く叩く。
その後ろでは、奏音が腕を組んで「陽菜なら問題ないでしょ」と頷いていた。
「お土産、ちゃんと買ってきてよね!」
「もちろん」
少しだけ緊張が和らいで、私は笑った。
「──陽菜!」
その時、聞き慣れた声が響いた。
振り向くと、お姉ちゃんが息を切らせながら走ってくる。
「もう! もっと早く言ってくれたら、家から一緒に来れたのに!」
「ごめん……でも、間に合ってよかった」
お姉ちゃんは息を整えながら、私の肩を掴んだ。
「いい? 陽菜、自分のことを一番に考えなさい。無理しないで、困ったらすぐに誰かに頼るの。……絶対にね」
「うん」
「それから……頑張れ!」
最後に、ぎゅっと抱きしめられた。
「ありがとう、お姉ちゃん」
お姉ちゃんの温かさを感じながら、私は目を閉じる。
「よし、行ってこい!」
彼女の言葉に背中を押され、私は一歩踏み出した。
搭乗ゲートの前で振り返ると、みんなが手を振っていた。
「陽菜、楽しんでね!」
「お土産忘れるなよー!」
「体調には気をつけるんだよ」
「無事に着いたら連絡してね!」
それぞれの言葉が耳に残る。私は笑顔で手を振り返し、大きく頷いた。
──これは、私の人生の大きな一歩。
ゲートをくぐった瞬間、心の中でそう強く思った。
9.2.2 タイ到着と初日の夜
飛行機の窓から見える景色が徐々に変わっていく。
成田を離陸したときはまだ日本の夏らしい澄んだ青空だったのに、タイに近づくにつれて雲が厚くなり、地表には濃い緑と入り組んだ水路が広がっていた。
「……着くんだ」
機内アナウンスが流れ、シートベルト着用のサインが点灯する。
心の中で深く息を吐いた。これから降り立つのは、日本から何千キロも離れた異国の地。
何年も前からいつかはと決めていたこととはいえ、本当にここまで来たのだと思うと、期待と緊張がないまぜになる。
周りの乗客が次々と荷物を手に取る中、私も座席の前のポケットに入れていた小さなバッグを手に取り、白いワンピースの裾を整える。
飛行機の中はひんやりしていたけれど、ドアが開けばきっと、熱気が一気に押し寄せてくるだろう。
***
スワンナプーム国際空港のターミナルに足を踏み入れた瞬間、思っていた通りの蒸し暑さが肌を包んだ。
空港内は空調が効いているはずなのに、日本とはまったく違う湿度と空気の重さを感じる。
人の流れに乗りながら、預けたスーツケースを受け取り、入国審査を通過する。
「よし……」
ひとりでここまで来るのは初めてだったけれど、なんとかスムーズに進めた。
ゲートを抜けると、待ち合わせ場所である到着ロビーの一角に向かう。
「三島さんですね?」
日本語で名前を呼ばれ、ほっとして振り向いた。そこには、穏やかな笑顔を浮かべたアテンドのスタッフが立っていた。
「สวัสดีค่ะ(サワディーカー)、はじめまして、ハナです。よろしくお願いします」
「あ、三島陽菜です。よろしくお願いします」
「長旅、お疲れさまでした。お荷物、大丈夫ですか?」
「大丈夫です」
日本語が通じる安心感と、初めて会う人に対する緊張感が混ざる。
でも、ハナさんの柔らかい雰囲気に助けられて、少しずつ気持ちが落ち着いていく。
簡単な挨拶を交わした後、案内されるままに送迎車へ向かった。
***
車のドアが閉まると、窓越しにバンコクの景色が流れ始める。
カラフルな看板が並ぶ大通り、ひしめき合うバイク、煌びやかな寺院の屋根、そしてその間に広がる屋台街。
高層ビルの合間に、ローカルな市場や古い建物が混在している。
「すごい……」
声に出すつもりはなかったのに、思わず呟いてしまった。
「初めてのタイですか?」
助手席に座るハナさんが振り向く。
「はい。でも、前からずっと来たいと思っていて……」
「そうなんですね。バンコクはにぎやかですけど、病院の近くはもう少し落ち着いていますよ」
病院。
明日から始まる手続きや診察のことを思い出し、少し背筋が伸びる。
ここに来た目的を忘れないようにしないと。
車はしばらく走り、やがて宿泊するホテルの前に停まった。
***
部屋に入ると、まず感じたのは清潔な空気と、ほんのり漂うホテル特有の香り。
白を基調としたインテリアに、大きな窓。
ベッドの上にはタオルがきれいに折りたたまれていて、どこを見ても整然としている。
スーツケースを端に置き、軽くワンピースの裾を払う。
「……着いたんだ」
もう一度、心の中でそう繰り返した。
日本を発ってからの長い移動で疲れているはずなのに、緊張のせいか体は妙に冴えている。
窓を開けると、外の空気がふわりと入り込んできた。
遠くでクラクションの音が響く。
シャワーを浴びて、メイクを落とし、少しだけ軽い食事を取ることにした。
ルームサービスで頼んだのは、スープとフルーツ。
喉を潤しながら、スマホで明日のスケジュールを確認する。
(病院に行って、診察を受けて、手術に向けた準備……)
いよいよ、本格的に始まる。
ワクワクする気持ちと、不安がないまぜになった感情が、波のように胸の中を行き来する。
でも、ここまで来たんだから、大丈夫。
ベッドに横になり、目を閉じる。
明日がどんな一日になるのか、想像しながら。
9.2.3 術前検査と医師の説明
バンコクの朝は、どこか活気に満ちている。
空が白み始める頃には、すでに街は動き出していた。
ホテルのロビーを出ると、ムッとするような湿気と、屋台から漂う甘辛いスパイスの香りが混ざり合う。
スクンビット通りの車道は朝から渋滞していて、バイクタクシーがその間を器用にすり抜けていく。
異国の街にいるという実感が、身体の奥まで染み込んでくるようだった。
「おはようございます、陽菜さん」
アテンドのハナさんが、笑顔で手を振った。
小柄なタイ人女性で、日本語がとても流暢だ。
手術のためにタイに滞在する間、彼女が病院との橋渡しをしてくれる。
「おはようございます」
軽く会釈しながら車に乗り込む。
助手席の窓から流れる景色を眺めながら、私はそっと自分の膝の上に視線を落とした。
今日は、大事な日だ。
術前検査と、担当医のカウンセリング。
それが終われば、いよいよ手術まであと数日。
心を落ち着けたくて、今朝はお気に入りの小花柄の白いワンピースを選んだ。
シンプルだけど、ウエストのリボンと襟元のレースが可愛くて、軽やかな生地が歩くたびにふわりと揺れる。
メイクはいつもよりナチュラルにして、ピンクベージュのリップだけ少し丁寧に塗った。
鏡に映る自分を見ながら、「私は大丈夫」と何度も言い聞かせた。
でも、そのたびに心臓の鼓動が少しずつ速くなるのがわかった。
病院に着くと、想像していたよりもずっと洗練された雰囲気に、少しだけ緊張が和らいだ。
ガラス張りの入り口を抜けると、白を基調としたロビーが広がっている。
静かで落ち着いた空気。受付のスタッフが微笑みながら英語で挨拶し、手際よく書類の確認を進めていく。
「では、最初に血液検査を行いますね」
ハナさんの通訳を聞きながら、私は小さく頷いた。
採血、心電図、レントゲン……次々と検査が進んでいく。
流れ作業のように進む手続きをこなしながらも、私はずっと、どこか夢の中にいるような感覚だった。
――本当に、ここまで来たんだ。
ぼんやりと、大学に入学した頃のことを思い出す。
葵さんとSNSで繋がり、手術の話を聞いたとき、私はまだ「いつかの未来」のこととしてしか想像できなかった。
でも、今、その「いつか」が目の前にある。
「三島さん、こちらへどうぞ」
看護師に案内され、私はカウンセリングルームへと向かった。
部屋に入ると、担当医が穏やかな表情で座っていた。
50代くらいの男性で、英語でゆっくりと話し始める。
「手術の流れを説明しますね。まずは麻酔について……」
ハナさんが横で通訳をしてくれる。
手術の工程、リスク、術後のケア。
ひとつひとつ丁寧に説明されるたびに、私の中の緊張がじわじわと膨らんでいった。
「回復には個人差がありますが、最初の1週間は特に慎重に過ごす必要があります。痛みもありますし、感染症のリスクもゼロではありません」
覚悟していた言葉だった。
それでも、医師の口から改めて聞くと、現実味が増す。
私は膝の上で手を組み、そっと指先を握りしめた。
「術後、完全に日常生活に戻るまでには、どのくらいかかりますか?」
自分でも思っていたよりもしっかりした声が出た。
医師は私の目を見て、はっきりと答えた。
「通常は、1〜3ヶ月で日常生活に戻る方が多いです。ただ、完全に違和感がなくなるまでには半年から1年ほどかかることもあります」
半年から1年。長い。
でも、それだけの時間をかけても、この手術は私にとって意味のあるものなのだと、改めて思った。
医師の説明が終わると、私はゆっくりと息を吐いた。
「……ありがとうございました」
自分の声が、わずかに震えているのがわかった。
診察室を出て、待合室のソファに座る。手元の診察ファイルを開くと、今日の検査結果や手術の詳細が書かれた書類が整然と並んでいた。
視線を落としながら、私はもう一度、深く息を吸い込む。
「これは夢じゃない。現実なんだ」
何度も、何度もそう言い聞かせる。
胸の奥に、まだ不安と緊張が渦巻いていた。でも、その中に確かにある。
希望と、決意と、これまでの自分が積み上げてきたものが。
私は立ち上がり、ハナさんの方を振り返った。
「行きましょうか」
「はい、お疲れ様でした。今日はよく頑張りましたね」
ハナさんの柔らかな言葉に、私は少しだけ笑ってみせた。
あと数日。
その先に、新しい自分が待っている。
9.2.4 覚悟を決める夜
ホテルの部屋に戻ると、どっと疲れが押し寄せてきた。長い一日だった。
朝から検査と診察を受け、手術の説明を聞いたあと、少し外を歩いて気を紛らわせようとした。
でも、どこか落ち着かなかった。
シャワーを浴びた後、ベッドに腰掛ける。
窓の外にはネオンの光が滲んでいて、都会の夜が広がっている。
でも、なんだか遠い世界のことのように感じた。
スマホを手に取り、ふと通知を見る。
「陽菜ちゃん、大丈夫?ちゃんとご飯食べた?」——柚葉
「明日の手術、今ならまだ逃げられるぞ(笑)」——奏音
「いや、逃げたらダメでしょ(笑)陽菜、ちゃんと休めよー!」——芽衣
「ホテルの部屋、ちゃんと冷房きいてる?熱中症にならないようにね!」——凛
思わず笑ってしまった。
こんな時でも、みんなはいつも通りだ。
——いや、いつも通りだからこそ、こんな風に接してくれるんだろう。
「大丈夫。ちゃんと食べたし、逃げないよ(笑)」
そう返信して、少しホッとする。
その時、メッセージの通知がもうひとつ届いた。
「無理せずに。帰ってきたら美味いもん食べに行くぞ」
短い文章。でも、それだけで十分だった。
お父さんらしい、不器用な励まし方。
——帰ったら、美味しいものを食べよう。
スマホを握りしめながら、やっぱり、こういうときはお姉ちゃんと話したくなった。
「もしもし?陽菜?」
「……うん」
声を聞いた瞬間、張り詰めていたものが崩れた。
「どうしたの?」
「……怖い」
それだけ言うのが精一杯だった。
「そっか」
お姉ちゃんはすぐに何かを言うわけでもなく、ただ静かに受け止めてくれる。
「だって、ずっと待ち望んでたことなのに、いざ目の前にしたら、不安になって……」
自分が望んだこと。
それなのに、怖い。
「それでいいんだよ」
お姉ちゃんの声が電話越しに優しく響いた。
「怖くなるくらい、大事なことなんだってことでしょ?」
「……うん」
「じゃあ、大丈夫。怖いままでもいい。泣いてもいい。でも、最後にはちゃんと前に進めるよ。陽菜はそういう子だから」
涙が溢れた。
「ありがとう……」
電話を切ったあとも、一人でしばらく泣いた。
少しだけ気持ちが落ち着いた。
ベッドの隣にある鏡を見つめる。
そこに映っているのは、自分自身。
「大丈夫」
そっと呟いた。
明日が手術前日。
もう迷わない。
静かにベッドに入り、目を閉じた。
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