第8章 大学生活の充実と将来へ②

8.2 自身の過去、それから

8.2.1 華恋の恋愛相談

 休憩室の扉を閉めると、ほっと一息つける静けさが広がった。

店内は夕方のピークを迎え、レジも棚整理も忙しそうだったけれど、交代制での休憩はしっかり取ることになっている。

私はカウンター横の自販機で買ったアイスコーヒーを一口飲みながら、向かいに座る華恋ちゃんを見た。


「陽菜さん、ちょっと相談してもいいですか?」


 華恋ちゃんはカップに手を添えたまま、少し躊躇いがちに私を見つめている。


「もちろん。どうしたの?」


 華恋ちゃんが私に相談を持ちかけるのは珍しくない。

アルバイトのことや学校のこと、時にはちょっとした愚痴も聞いてきた。


でも、今日の雰囲気は少し違った。


「実は……気になる人がいるんです」


 小さな声だった。


「えっ?」


 思わず驚いてしまう。

華恋ちゃんが誰かに恋をしているなんて、少し意外だった。


「学校の人?」


 こくん、と頷く。


「同じクラスの子で……」


 華恋ちゃんはカップの縁を指でなぞりながら、少しずつ言葉を継いだ。


「前から気にはなってたんですけど…今年の文化祭で、展示の準備をしているときにいろいろ話すようになって、……そのときからずっとその子のこと考えちゃって……」


「へぇ、どんな人なの?」


 華恋ちゃんは少し考えるように視線を落とし、それからふっと笑った。


「陽菜さんに、ちょっと雰囲気が似てるんです」


 思わず目を瞬かせる。


「私に?」


「うん。なんていうか……優しくて、落ち着いてて、でも話してると安心する感じがして。あと、外見も少し似てるかも。髪の長さとか、仕草とか」


 それを聞いて、私は何とも言えない気持ちになった。

華恋ちゃんは以前、私に気持ちを伝えてくれたことがある。

そのことを思い出して、少しだけ胸が締めつけられた。


「そっか……。じゃあ、華恋ちゃんはその子のこと、好きなんだね」


「……うん。でも、なんとなく自分の気持ちがよく分からなくて。好きっていう気持ちなのか、それともただ憧れてるだけなのか……。でも、最近気づいたんです。私、やっぱり女の子が好きなのかもしれないって」


 そう言った華恋の表情は、どこか不安げだった。


「やっぱり、私、女なのに女の子を好きになるのって、変なのかな?」


 その問いに、私は静かに首を振った。


「そんなことないよ。好きになる気持ちに、変も普通もない。ただ、大切な人がいて、その人を大事に思う……それだけのことだよ」


 華恋ちゃんはじっと私の言葉を聞いていた。


そして、少しだけ表情が和らいだ。


「……そうなのかな」


「うん。華恋ちゃんがその子のことを大切に思ってるなら、それが答えなんじゃない?」


 華恋ちゃんは少し考え込んでから、ふっと小さく笑った。


「なんか……陽菜さんに話してよかった」


「私でよければ、いつでも聞くよ」


 そう伝えると、華恋ちゃんは嬉しそうに頷いた。

休憩室の時計を見れば、そろそろ時間だ。

私は飲みかけのアイスコーヒーを持ち上げ、一口飲んで立ち上がる。


「じゃあ、そろそろ戻ろっか」


「はい!」


 華恋ちゃんはいつものように明るく返事をした。

でも、その頬がほんの少しだけ赤くなっていたことに、私は気づいていた。




8.3.2 恋愛の経験と傷ついた記憶

高校時代、友達が「彼氏ができた」「デートした」と楽しそうに話すのを聞いていたけれど、私は少し距離を感じていた。

もちろん、恋愛話が嫌いなわけじゃない。むしろ興味はあった。

でも、いざ「自分はどうなんだろう?」と考えると、よくわからなかった。


「恋愛対象って、男? 女?」

「そもそも、私は誰かを好きになったことがあるの?」


そんな疑問が頭をよぎるたびに、私は曖昧なまま流してきた。


――思い出したくない記憶があるから。


高校時代、私は今と同じ、瑞陵駅前のこの天神堂書店でアルバイトをしていた。

夕方の忙しい時間、何度か店に来る男子高校生がいた。湖央高校の生徒で、年齢は私より一つ上だった。


「可愛いね」


レジの前で、ふいにそう言われたとき、私は軽く笑って流した。

でも、それから何度か店に通うたびに、彼は私に話しかけるようになった。


「この前おすすめしてくれた本、すごく面白かった」

「バイト終わったら少し話せない?」


そんな風に言われて、私は戸惑いながらも、悪い気はしなかった。

彼は優しかったし、話も面白かった。


「好きだよ」


ある日、彼がそう言ったとき、私は「これが恋なのかな?」と思った。

よくわからなかったけれど、誰かに好意を向けられることは嫌じゃなかった。

だから、「うん」と頷いた。


でも、それは続かなかった。


付き合い始めて1ヶ月。

私は彼に自分のことを伝えた。


――――――「気持ち悪い」


その言葉が、鋭く私の胸を刺した。


それ以来、彼が書店に来ることはなかった。


私はずっと考えた。


――私が悪かったの?

――言わなければよかった?

――私は、恋愛しちゃいけないの?


それ以来、恋愛に対して慎重になった。というより、深く考えることを避けるようになった。


私は本当に誰かを好きになったことがあるのか。


そもそも、恋愛に向いているのか。


そんなことを思い出しながら、目の前で仕事をする華恋ちゃんの姿を見つめる。


(……私も、考えたことあるよ。好きって何なんだろう、って)


(好きって、難しいね)


私自身の気持ちは、まだはっきりしない。

高校のあの出来事があってから、私はずっと、どこかで自分にブレーキをかけていたのかもしれない。


でも――


(私は、本当はどうしたいんだろう?)


華恋の純粋な恋の話を聞きながら、私は改めて、自分の心と向き合う必要があるのかもしれないと思った。




8.3.4 大学での学びとジェンダーの視点

 「ジェンダーと消費行動」——


そんな講義名を見つけたとき、私はすぐに履修しようと決めた。

もともとマーケティングには興味があったし、アルバイト先の書店で「売れる本と売れない本」の違いを考えることが増えていたからだ。


 講義の最初の方は、一般的なマーケティングの話が中心だった。

ターゲット層をどう分析するか、消費者の購買行動にはどんな心理が働くのか。


だけど、ある回の授業で「社会は男女の役割を固定化するマーケティングをしている」というテーマが取り上げられたとき、私は思わずノートを取る手を止めた。


 講師が示したスライドには、いくつかの広告が並んでいた。

ピンクやパステルカラーのパッケージに「女の子向け」と書かれたおもちゃ、青や黒を基調にした「男の子向け」のゲーム。

化粧品のCMでは「女性らしさ」を強調し、男性用スキンケア製品は「シンプルで男らしい」ものとして売り出されている。


 「こうしたマーケティングは、私たちの無意識に影響を与え、性別ごとの役割を固定化する要因になっています。たとえば、女の子は小さい頃から『可愛くあらねばならない』と刷り込まれ、男の子は『強くたくましくあるべき』と思い込むようになる。これが、恋愛観や自己認識にまで影響を及ぼすこともあるのです」


 私はその言葉を聞きながら、自分の過去を思い出していた。


 小学生の頃、「女の子になりたい」とはっきり言えなかったのは、周りが当たり前のように「男の子らしさ」を求めていたからかもしれない。


中学生のとき、女子の制服を着ることに緊張したのも、「女の子はこうでなければ」という社会の視線が怖かったからだろう。


そして今——


私は本当に「自分らしく」生きているのだろうか?


 授業のあと、私は芽衣と一緒に学食に向かった。


 「今日の講義、面白かったね」

 「うん。でも、なんか考えさせられたな」


 私はトレーを持ちながら答えた。


 「マーケティングって、単に物を売る技術じゃなくて、価値観そのものを作ってるんだなって」


 席についてから、私はふと口を開いた。


 「……私、恋愛に向いてないのかなって、ずっと思ってたんだ」

 「え、なんで?」

 芽衣が少し驚いた顔をする。


 「たとえば、少女漫画とかドラマみたいな恋愛に憧れたことがあんまりなくて。周りが『彼氏ほしい』とか言ってても、なんかピンとこなかったんだよね」


 「別にそれって、向いてないってことじゃなくない? ただ、興味の持ち方が違うだけで」


 「そうかもしれない。でも今日の講義を聞いて、もしかしたら私が『こういう恋愛をしなきゃ』って思い込みすぎてたのかなって思った」



 芽衣は少し考えてから、笑った。

 「わかる気がする。私もさ、『女の子らしくしなきゃ』って思ってた時期あったよ。でも、そういうのに縛られなくなると、気持ちが楽になったりしない?」

 「うん……確かに」


 マーケティングが私たちの価値観を作るのなら、それにとらわれすぎないことも大事なのかもしれない。

恋愛も、美しさの基準も、私自身の気持ちが一番大切なんだ。


 「ジェンダーや恋愛の枠にとらわれず、自分の気持ちをもっと自由に見つめてもいいのかも」


 そう思ったら、少しだけ心が軽くなった気がした。

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